意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

形意拳名家論文

把臂话山河(『逝去的武林』より)

厳密に言えば、形意拳の古い規矩では帯技投師は許されず、また一つの理想的な説として、師と弟子の年齢は十五歳差が最も良いとされている。これは体操は幼少から練習できるが、拳法は十五歳で骨格が基本的に成長してから練習しなければならないためである。…

別来幾春未還家(『逝去的武林』より)

李仲軒老人は生涯で弟子を取らなかったが、晩年幸いにも『武魂』に言論の場を与えられた。李老の子女の回想によると、1984年、李老は中国科学院の家族院で門番をしていた。一人の中国科学院の同志が李老のために本を出そうとしたが、李老は謝絶した。 また、…

这般清滋味(『逝去的武林』より)

私が若かった頃、尚雲祥に師事して形意拳を学んだ。何年も経って、師の拳法は尚式形意として人々に尊ばれるようになったと聞いた。近頃、武術愛好者が訪ねて来て、「尚式」という名は何が異なるのかと尋ねたが、簡明な言葉で答えられなかった。当時は拳を学…

遂将三五少年輩 登高遠望形神開:李仲軒老入答読者間(『逝去的武林』より)

問:仲軒太師爺、このようにお呼びさせていただきたいのですが、私の師承は李存義——劉云及——崔振先のこの一派です。崔振先は私の太師爺であり、彼は薛顛に入門していたので、あなたを太師爺とお呼びするのは分内のことかと存じます。我々のこの一派の教えで…

入門且一笑 (『逝去的武林』より)

李仲軒は寧河で唐維禄から拳術、医薬、道法(形意拳は内家拳で、道家を帰旨とするため、医薬、内功がある)の全ての伝承を受け、唐の伝衣鉢弟子となった。 唐維禄が形意拳の古歌訣を口伝する際、「虎豹雷音」という句があったが、詳しい説明はなかった。李仲…

総為従前作詩苦(『逝去的武林』より)

形意拳はどこまで練れるのか? 唐師は私に例えて言った。断崖絶壁から飛び降り、地面に激突しそうな時、手で岩壁を一撃すれば、人は横に飛び出し、無事であると。人と戦う時、一度搭手しただけで相手の勁を変えられる、この技は良いものと言える。さらに良い…

虚実(『形意武術教科書』より)

天地の大きさは、万物は全てその中に存在する。事は同じでないが、理は一致する。ただ虚実の二字で十分に包括できる。まず虚があって後に実がある。実があってこそ虚が現れる。虚がなければ実がなく、実がなければ虚もありえない。虚の中に実が宿り、実の中…

八要(『形意武術教科書』より)

学者は、その大をなさなければ、たとえ多くの事をしても何になるのだろう。蘇子も言っているように、文を為すことがこのようであるならば、武を習うのもまた同じである。前篇の五行で言う劈崩炮鑽横は、武術の大綱に過ぎず、その極めて重要な部分を摘んだに…

劉殿琛先生の著書『形意拳術抉微』

総論は形意の各技術の根本である。戦いの道は往々にして武器を用い、素手で敵に立ち向かうことで最後の勝利を得る。つまり武術は軍の命脈である。 武術の種類は非常に多く、流派が分かれ、各々が正しいと主張する。大きく分けると内外の両派の二つになる。外…

孫存周手稿五篇

内勁 拳中の内勁とは、人の散乱している外の神気を、拳中の規矩、手足身体の動作によって、順中に逆を用い、丹田の内に縮回させ、丹田の元気と相交わらせ、無から有へ、微から著へ、虚から実へと、皆徐々に積蓄して成すものである。その理は動中に勁を縮め、…

孫禄堂論形意拳学(『孫禄堂武学思想』より)

一、形意拳歴代伝承 形意拳は達摩祖師により創始され、名を内経と言う。宋の岳武穆に至り、始めて形意拳の名を得た。即ち『易筋』の作用であり、これを形意という。元、明の両代は書籍が無いため、ほぼ失伝した。明末清初の際、蒲東に馮氏一族があり、中でも…

李洛能先生の著書『形意拳譜』(4)

形意摘要 一に塌腰を要し、二に垂肩を要し、三に扣胸を要し、四に頂を要し、五に提を要し、六に横順知情を要し、七に起鑽落翻の分明を要す。塌腰とは、尾閭を上提し、陽気を上昇させ督脈の理とし、また開督という。垂肩とは、肩を垂らせば気は肘に貫き、肘を…

李洛能先生の著書『形意拳譜』(3)

四稍三心帰一 人の一身には四稍がある。即ち、血稍、肉稍、筋稍、骨稍である。 この四稍は一動すれば、その常態を変化させることができる。血稍を発すれば、心に属し、心が怒れば気が生じ、気が血を衝き、血輪が発転し、精神は勇敢となり、毛髪は微かでも怒…

李洛能先生の著書『形意拳譜』(2)

呼吸合道 人は気を本とし、心を根とし、息を元とし、腎を蒂とする。天地は八万四千里離れ、人の心腎は八寸四分離れている。一呼すれば百脈はみな開き、一吸すれば百脈はみな閉じる。天地化工の流行も、呼吸の二字を出ない。呼吸の法は、三節の道理に分かれる…

李洛能先生の著書『形意拳譜』(1)

形意拳序 形意拳術の始まりは、天地の大いなる原理と造化の原理に基づいている。天地は一つの無気から始まり、万物は無知から生まれ、形意は無意から成る。無意が極まれば有意が生じ、意誠心正であれば静に至り、静であれば六脈を察候し、二気を溶暇し、静が…

交手法(『岳武穆形意拳術要論』より)

右を占めて左に進み、左を占めて右に進む。歩を発するとき、足のかかとを先に着地させ、足の指先は十趾で地を掴む。歩は安定し、身は荘重でなければならない。拳は沈実で骨力があり、去るときは手を放ち、人に着けば拳となる。拳を用いるには锩緊とし、把を…

要論九(『岳武穆形意拳術要論』より)

五官百骸の主は動にあり、実際には歩によって運ばれる。歩は身体の根源であり、運動の中枢である。故に応戦や対敵の際、全ては身体から出ているが、実際に身体の砥柱となるものは歩である。随機応変は手にあるが、手が転移するためには歩が必要である。歩が…

要論八(『岳武穆形意拳術要論』より)

身法とは何か? それは縦横、高低、進退、反側である。縦はその勢を放ち、一度往けば返らない。横は力をくるんで(=裹)、障害物があっても切り開く。高は身体を揚げ、さらに増長の勢がある。低は身を抑え、あたかも身体に攢捉の形があるようである。進む時に…

要論七(『岳武穆形意拳術要論』より)

頭は六陽の首であり、周身の主である。五官百骸で頭に頼らないところはない。故に頭が進まないということはあってはならない。手は先行し、その根は腕にある。腕が進まなければ手も前に行かず、腕が進むことは重要である。気は腕の中に集まるが、腰には機関…

要論六(『岳武穆形意拳術要論』より)

心と意が合い、意と気が合い、気と力が合う、これが内三合である。手と足が合い、肘と膝が合い、肩と胯が合う、これが外三合である。これらは六合を為す。左手と右足が相合し、左肘と右膝が相合し、左の肩と右の腰が相合する。右も左と同様である。頭と手が…

要論五(『岳武穆形意拳術要論』より)

ここまで勢によって捶を語り、気によって勢を語ってきた。人は五臓によって形を成し、五臓より気を生む。五臓は性の源であり、気の本であり、名は心、肝、脾、肺、腎として知られる。心は火であり、炎上の象がある。肝は木であり、曲直の形がある。脾は土で…

要論四(『岳武穆形意拳術要論』より)

身や気の論から外れ、梢について進めてみる。梢とは身体の端である。身体について初めて話す際、この部分は触れられず、気についても稀にしか論じられない。捶は内から外に発し、気は身体を通じて梢に達する。故に、気の用は身体に基づいていなければ、虚で…

要論三(『岳武穆形意拳術要論』より)

要論三 気の本源は身体にあり、身体の各節には定まったところがない。三節とは上中下である。身について言えば、頭は上節、身体は中節、腿は下節である。上節について言えば、天庭は上節、鼻は中節、海底は下節である。中節について言えば、胸は上節、腹は中…

要論二(『岳武穆形意拳術要論』より)

古より世には捶(=拳と同義?)について論ずる者があり、気についても論じる者もある。気は本質的に一つであるが、二つに分けることができる。二つとは即ち呼吸である。呼吸は即ち陰陽である。捶において動静が必要であり、気においても呼吸が必要である。吸…

要論一(『岳武穆形意拳術要論』より)

散らばるものには必ず統べるものがあり、分かれるものには必ず合わさるものがある。故に天地の四方八方にある数多くの物事はそれぞれに属するところがあり、千頭万緒のように絡み合ったものもその起源を持っている。一から散じて数多くの変化が生じ、その多…