意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

武術(うーしゅう)1994年春・冬号

尚氏形意拳

  • 登場する先生
    • 李文彬
  • 内容
    • 形意拳をどのように認識し修得するか

印象に残った言葉

下の下に唾液がたまったら、息を吐くのに合わせて飲み込み、まっすぐ丹田に送り込む。これを長く続けて、息を調えて根に帰し、意を丹田に注ぐことを練習すれば、長く続けるうちに、唾液を飲み込む時にゴロゴロと音を立ててまっすぐ下腹部へ行くようになり、腹腔がリラックスして伸ぴやかになり、気が順調で腹が充実するのを感じるようになる。時には、下腹部に熱流や気感があり、丹田の真気も次第に充満し、これによって、体が強くなり基礎が固まり内勁が中に生まれる

故に、形意拳には、「槍拳如一、拳械一体」(槍と拳は一つのもののようであり、拳と武器は一体である)という言い方があるのである。よって、形意拳を練るには、もし真に明師の教えを受け、その要訣を得、真勁を練れば、拳であれ脚であれあるいは武器であれ、いずれにも見た目は異なっても功は同じく、互いに益するという効果をもたらす。よって、槍を練ることで同じ功を収めることができるだけでなく、形意の刀、剣、棍あるいはその他の武器でもみな同じことになる

尚雲祥先生は、弟子に教える時には、拳経の、「肘不離肋、手不離心、出洞入洞緊随身」(肘は肋を離れず、手は心を離れず、身体に引きつけて口から出入りする)ということを強調していたが、それはこれが形意拳で手を出し入れする時の原則だからである

さらに、臀は、動作において、鑽、翻、擰、裏、墜など多くの勁の変化があり、全身の力を借りなくては、その技法の威力を発揮することはできない

我々のいう「硬打」とは、蛮力を用いて必死に「強硬に打つ」のではなく、相手が動であろうが、静であろうが、慣性力に頼らず、他の力に頼らず、遮られても打ち、防がれても打ち、触れれば発するのであり、そうしてこそ「硬打」ということができる

まさに尚老先生の、「どのような高度な技法であっても霊丹の妙薬ではない。いずれも人、時、地が異なれば異なる変化が生まれるものであり、場合によっては逆に他人に乗じられてしまう」「どこに触れようと、打とうと思えば発する」「拳に拳なく、意に意なく、無意の中に真意がある」という言葉の通りである。これこそが、我々の追求しなくてはならない形意拳術の真正の精華なのである