意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

劉殿琛先生の著書『形意拳術抉微』

総論は形意の各技術の根本である。戦いの道は往々にして武器を用い、素手で敵に立ち向かうことで最後の勝利を得る。つまり武術は軍の命脈である。

武術の種類は非常に多く、流派が分かれ、各々が正しいと主張する。大きく分けると内外の両派の二つになる。外派の長所は腰腿の霊活さ、投技や打撃技、防御や攻撃、跳躍などの技を練習することにすぎず、敵と戦って勝利することはできるが、その欠点は見せかけの技が多すぎ、ただ人の目を惑わすだけで実用的ではない。ただ内家拳法のみが、純粋に先天的な原理に基づき、陰陽、五行、六合、七疾、八要の理論に従って技を完成させる。これこそが根本であり、まず身につけなければならないものだ。

人は気血なくしては生きられず、気血が充実すれば精神も健康で旺盛になる。もし先天の気が不足していれば、後天的に補わなければならない。補う方法は気を充実させ、血を養うことにある。ただし気血を培養するには、まず気を丹田に集中させ、丹田の気を十分にし、その後内部では五臓に運び、外部では四肢に発し、さらに練習を重ねれば、血脈が通じ、筋骨が強くなり、内外が一体となり、手足が協調し、動静に常があり、進退に法則がある。手は虚に発せず、動けば必ず勝ち、心は妄りに動かず、動けば必ず応じる。堂々と現れ、背は満ち、四肢に及び、意のままに従い、心に応じて手に得て、百戦百勝の技を成す。以下、各項目の要点を分けて述べる。

丹田

丹田とは、陽元の本であり、気力の府である。技芸を極めようと思えば必ず丹田を健やかにし、丹田を健やかにしようと思えばなおさら技を練らねばならない。この二つは互いに因果関係にある。我々の道は全て丹田を重要視することを知っているが、先師からは口伝が多く、書き伝えられたものは少ない。後学の者が、その理由を明らかにするのは難しい。私が師から受け継いだことと、20年の経験を簡単に述べる。

技芸を極めようと思えば必ず先に丹田を健やかにすべきというのは、丹田が弱ければ気が充実せず、気が充実しなければ力が足りないからだ。五拳十二形の架勢だけでは、顧法は空虚な城のようであり、打法は弱い軍隊のようなものだ。だから敵と対峙し戦う際、常に腹部に気力が凝縮しているかのように、瞬時に腰から背中、首を通って頭頂まで貫き、目は先鋒となって観察し、心は元帥となって策を練り、あらゆる動きに応じて技を使い、龍や虎、猿や馬、鷹や熊のように変幻自在に動く。一瞬のうちに勝負が決まる。これが丹田が充実した技芸の精である。

丹田を健やかにするには必ず先に技芸を練るべきだと言うのは次のような意味である。ある人曰く、「丹田は先天的なもので、人が本来持っているものだから、自然と内に足り、外を待つ必要ない。ただ養生すれば十分だ。なぜ練る必要があるのか」。私はそうではないと考える。一般に人は色欲に溺れず、腎精を失わず、養生の方法があれば、元気は自然と充実する。このような人は寿命を延ばすことができるだろう。しかし、究極的には丹田の気力を発して絶技とすることはできない。それを絶技にしようと思えば必ず練ることから始めなければならない。練法のは一つは聚であり、もう一つは運である。聚とは、舌頂、歯扣、穀道提、三心併の諸法である。また必ず先にその隔膜を取り除くべきである。心、肝、脾、肺、腎の五臓のように層々と通過し、一つも妨げるものがないようにする。これが八要の中の「五行要順」だ。これを長く行えば後に気は完全に丹田に集まる。

しかし、それを聚であっても運ができなければ、まだ絶技とはならない。必ず丹田に集まった気力を背骨から上へ運び、胸に留め、腹に充たし、臓に満たし、両脇に凝らし、頭頂に至らせるべきである。さらに日頃練習している身体の異常な強さ、手足の異常な活動性を兼ね備え、敵の動きに応じて架勢をすぐに変え、架勢の変化に応じて気力がそれに従ってすぐに到達する。瞬時に千変万化し、言葉では表現できないものがある。これが上手く運用するということである。それを聚の運とは、要するに日頃の技芸の勤勉な練習にある。仙人のように静かに座って丹を練るようなものではない。

昔の芸者は一人で無数の人に立ち向かったが、その丹田の気力がいかに充実していたかは想像に難くない。その理由を究めると、全ては勤勉に技芸を習い、それによって丹田を鍛えることから始まっている。後学の者が「丹田説」をよく理解すれば、武道に入ることができるだろう。

練気篇

武術の道において、形あるものは架勢であり、形なきものは気力である。架勢は気力を運用するためのものである。気力がなければ架勢は無用となる。故に気力は架勢の本質である。しかし、力を充実させようと思えば、必ず先に気を充実させなければならない。故に気はまた力の本質である。芸を演じる者は八要を最も重要なものとする。八要は形意拳術の根本である。内は気を練り、外は勢を表す。五拳十二形、虚実変化、起落鑽翻のいずれも、瞬時も離れることはできない。八要とは何か。一に内提、二に三心要并、三に三意要練、四に五行要順、五に四梢要斉、六に心要静、七に三尖要対、八に眼要毒である。以下に分けて論じる。

内要提とは、谷道を引き締め、その気を上げることである。これは丹田に集まり、さらに丹田に集まった気が背骨を通って頭頂まで到達させ、周りを巡って循環させることだ。即ち譜にいう「谷道を引き締め内中は提を要する」である。

三心要并とは、頂心を下げ、足心を上げ、手心を回すことである。この三つは気を一か所に集める方法である。頂心を下げなければ上の気は丹田に入れない、足心を上げなければ下の気は丹田に収まらない、手心を回さなければ外の気は丹田に縮まない。故に三心を一つにして初めて気が一つに帰する。

三意要練とは、心意、気意、力意の三つが連なって一つになることである。即ち内三合である。この三つは心を主とし、気を元帥とし、力を将とする。気が充実していなければ力は足りず、心に策があっても用いるところがない。故に気意をよく練った後、外は力意を率い、内は心意に応じることができる。三意が連なっても気を最も重要とするということだ。

五行要順とは、外五行は五拳であり、即ち劈、崩、鑽、炮、横である。内五行は五臓であり、即ち心、肝、脾、肺、腎である。外の五行の五拳は変化応用し、各々その順序に従い、規則正しく動く。気力の到達するところに架勢が従い、架勢の至るところに気力が注ぐ。故に気力が充実すれば架勢に用があり、架勢が練れれば気力はますます増す。即ち譜にいう「五行はもともと五つの関門であり、人が守らなくても自然と遮る」である。私が初めて武術を学んだ時、気を運ぶことを学んだ。肩を垂らし、首を立て、歯を合わせ、舌を上顎につけ、内提するなどだ。法の通りに習えば気は徐々に通じ、少しずつ下に形作られるが、また全身に疲労感がある。このようなことを数回繰り返し、その後初めて一度架勢を作ると気はすぐに丹田に達する。これが即ち五行を五関とする説だ。よく前進を習い、遮るものを打破しなければ、気を丹田に集め、気を四肢に運び、気が充実し力が足りた武術家になることはできない。これが五行要順というものであり、順うべき理由である。

四梢要斉とは、舌を上顎につけ、歯を合わせ、手指と足指は掴み、毛穴を引き締めることである。舌を上顎につけ上を向けば津液が上に注ぎ、気血が流通する。両歯を合わせれば気は骨髄を貫く。手指と足指を掴めば気が筋に注ぐ。毛穴を引き締めれば全身の気が集まって固まる。斉というのは即ち毎回架勢を作る時、舌を上顎につけ、歯を合わせ、手指と足指を掴み、毛穴を引き締めることを一度に行い、先後の順序がないということだ。四つのうち一つでも欠点があれば気が散って力が衰え、技を語るに足りなくなるからだ。

心要暇とは、練習する時に心中が慌てず忙しくないことを言う。慌てるのは恐れの意味があり、忙しいのは急ぐ意味がある。一度恐れれば気が衰え、一度急げば気は必ず乱れる。衰えたり乱れたりすれば手足をどうすればよいかわからなくなる。もし日頃の練習の功がなければ内部が虚弱になり、事に遭遇すれば縮こまり、敵に臨めば恐れたり急いだりせざるを得なくなる。そして心に余裕がある者は実際気を練ることと表裏一体である。

三尖要対とは鼻先、手先、足先が相対することだ。手先が鼻先に対していなければ左に偏れば右側の守りが空虚になり、右に偏れば左側の守りが空虚になる。足と鼻についても同様である。また三者が大きく偏っていれば全身の力の使い方が均等でなくなり、必ず団結して一つになることができない。気はそれによって散漫になり、頂心を下げようとしても気は下がりにくく、足心を上げようとしても気は上がりにくく、手心を回そうとしても気は内に縮みにくい。これは自然の理だ。故に三尖が対していなければ、実際に気を練ることに大きな妨げになる。

眼要毒について、目は気を練ることとあまり関係がないように見えるが、毒には敏捷の意味があることを知らなければならない。元気が充実していなければこれを持つことはできない。かつて言われたように、我々の技芸は武人だけが習うべきものではなく、文人も習うべきだ。毎日力を練れば身体を健康にし、気を練れば精神を強くすることができる。丹田に気が凝縮し五臓が伸びれば、この人の精神は必ず霊活で、脳力は必ず充実し、耳や口、鼻などの感覚器官は必ず各々その妙を尽くし、特に目は必ず神光が輝き、人を射るような鋭い眼力を持つ。これは気がそうさせるのではないか。

この弱肉強食の時代、東西の国々が技芸を重視するのは良いことだ。射撃の遠近は全く機の良し悪しにあるが、的中するかどうかは機を扱う者の心力、手力、眼力にある。故に気力が衰えた者は、観測が正確でも射撃の時に心が震え手が揺れて的中できない。これは必ず日頃の勤勉な練習によって筋骨を強健にし、気血を充実させ、内外を一つにすることに頼るべきだ。そうすればその欠点を正すことができる。ある者が言う、「気は内に行き、力は外に現れる。あなたはなぜ気を言って、力を言わないのか」と。答えて言う、「外の人が見れば力は見やすく、我々が練れば気は理解しやすい。また気と力は本来一体で、気が足れば力は自ずと知れる」と。また別の者が言う、「あなたは専ら気力を言って架勢を軽視しているのではないか」と。答えて言う、「架勢を練れば必ず気を充実させようとし、気を練るにはなおさら先に架勢を学ぶべきだ。これは気と架勢の二つが互いに用をなすものだ。しかし、架勢は外に形として現れ、跡を辿ることができるが、気は内に運行し深くて測り難い。故に学ぶ者は常に架勢に注意して気の運行についてはしばしば軽視する。私が架勢の外に独り気力について再三意を致すのはこのためだ!」。

運動筋骨説

形意武術の運動と普通の運動は同じではない。普通の運動の力の使い方は一つの平面で活動するか、あるいは筋肉の一部を動かすだけだ。故に簡単明瞭で理解しやすい。形意武術はそうではない。全身の関節が全て複数の運動軸に沿って回転し、その筋肉の収縮の程度は張りすぎず緩みすぎず、各方面の筋肉を同時に収縮させ緩めないようにし、初めて円満に達成できる。故に進んでは攻め、退いては守り、隙を突かれることもなく、暇を見出されることもない。しかし全身の筋肉は非常に多く、部分に分けて説明しなければ詳細を期すことは難しい。故に順を追って説明すると以下の通りだ。

頭部:

目は前頭筋の収縮によって拡張し、眼孔をそのようにした後、眼輪筋が収縮緊張し、まぶたをしっかりと閉じて静かに見つめ、決して震えることがないようにすべきだ。口は口輪筋を収縮させて内側に向かって口を閉じ、歯はしっかりと合わせ、舌に力を入れて口蓋に貼り付け、わずかに後ろに巻くべきである。このようにすれば頬や顔面、下顎の皮膚は全て緊張する。首は広頸筋の収縮によって首の部分を拡張し、皮膚はさらに首の後ろの深い部分の大小直筋の作用と前述の口の部分の協力により、頭部をまっすぐに保ち、帽状腱膜を前後に緊張させ、さらに両肩を下げる力によって首の部分の面積を広げる。

胴部

肩甲骨は極力下げ、さらに前鋸筋の収縮によって上部の肋骨を引き、胸郭を広げ、同時に大胸筋と僧帽筋が前後に引っ張って肩の部分を固定して動かないようにする。臀部に力を入れて下げ、下腹部の筋肉は骨盤を前下方に引き、大腿筋も力を入れて収縮し外転大腿の勢いを作り、肛門括約筋も肛門を縮小して内上方に向かわせる。腰部は方形腰筋と横隔膜の収縮の力を用いて脊柱下部を反らせ、上半身の重心が骨盤の正中線上に落ちるようにする。

四肢部:

一、上肢の基部は力を入れて内転し、上腕二頭筋上腕三頭筋を平均に収縮させて前後に抵抗し合わせ、肘を体の中心線に向かって捻じり、前腕と上腕が常に90度から170度の角度を成すようにし、また回前円筋の収縮によって腕の部分を側面に立てるようにする。手は深浅指屈筋の収縮により順次各指を曲げ、親指と人差し指で半円形を作り、また親指の付け根と小指の付け根を極めて近づけ、小指も他の指と均等に力を入れるようにする。

二、下肢の大腿内側の内転筋と縫工筋は内側に向かって膝関節を引き、大中小の臀筋も収縮し、大腿が外転の勢を持つようにする。大腿四頭筋大腿二頭筋も同時に収縮し、下腿と大腿が150度の角度を成すようにし、前後平均の姿勢を保持する。下腿前面は後面の腓腹筋と深層のヒラメ筋が伴って収縮し、踵と下腿後面が近づく勢いを持つようにする。後ろの大腿はさらに大腿二頭筋に力を入れて収縮し、また屈趾筋の作用により膝関節が前内方に曲がるようにする。そして両足はともに四方に向かって下に力を入れ、体重が平均に両足の中心に集まるようにする。両足の方向は常に45度の角度を成し、ただし龍形のみ90度の角度を成す。後ろ足の内くるぶしと前足の後ろ踵は必ず一直線上にあるべきだ。これが全身の力の入れ方の大まかな様子である。しかし各部の筋肉は縦横に交差し複雑に入り組んでいて、ほとんど言葉では表現できないものがある。心で悟り神で会得して精妙を極めれば、それはその人次第だ。

六合論

私は前に丹田について語った。丹田が満ちて後に技が精緻になる。さらに練気について詳しく述べた。練気が足りて丹田がますます充実する。これらは皆内に得て外に応じるものだ。六合と七疾は必ず学ばなければならない。七疾はしばらく後で論じる。六合とは、手と脚が合い、肘と膝が合い、肩と腰が合う。これを外三合という。心と意が合し、意と気が合し、気と力が合う。これを内三合という。内外が相関し、これを総称して六合という。譜に言う、「手が去って脚が去らなければ茫然とし、脚が去って手が去らなくても茫然とする」と。また言う、「上の法則は必ず先ず上半身を整えるべきだ。手足が同時に到達して初めて真となる」と。また言う、「手と脚が合わさり多くの力が一つになる」と。また言う、「脚打踩の意を留めてはならない。消息は全て後ろ足の蹴りに頼る」と。これを読んで手足が相関する意味を見るべきである。

おそらく技芸を演じる時、手が一度伸びれば、肩が肘を動かし、肘が手を動かす。脚が一度進めば、腰が膝を動かし、膝が足を動かす。手足や、肘膝や、肩腰や、その各点は皆遥か遠くで相対している。肩肘手は上にあり、腰膝足は下にあり、そして人の身体は、下が最も上の根本となる。これを大樹に例えれば、腿はその根だ。故に腰が一度動けば肩がそれに従い、膝が一度進めば肘がそれに従い、足が一度動けば手がそれに従う。ここにおいて技を演じる時、身体の法則は最も整っていることを貴ぶ。上下がつながって一つとなり、前後左右の平衡が乱れる病がない。これを整っているという。もし「整」の字を達成できれば、真に山を揺るがすのは容易く、岳家の軍を揺るがすのは難しいという勢がある。

しかし四肢の動き、果たして何を主な使い手とするのか。人は皆知っているのはそれが心であることを。心の動きこそが意である。意には去意、来意、攻意、守意の区別がある。これを心に源とし、これを意で動かす。故に言う、「心と意は必ず相合すべきである」と。そうでなければ力にならず、手足は即ち指揮を聞かず、耳目もその聡明さを発揮する所がない。意の発するところを気という。気の使うところは意に任せる。相関し相生する。故に必ず合すべきだと言う。しかし進退の時には、もちろん心意でこれを主宰し、気でこれを行使すると言う。しかし気の表現するものは力である。力を借りて表現するものは四肢である。我々は気に任せることを忌む。特に行動に就いてこれを言う。即ち我々武人が突然の事変に遭っても、むやみに気を使うべきではない。もし頭を失った蝿のように、でたらめに突進すれば、行くところ見るところその心は慌て意は乱れて力を用いる所がなく、手足はその置き所を失い、敵はすきに乗じて入ることができ、必ず敗れることは疑いない。故に心と意が合し、意と気が合し、そして気と力もなお必ず相合すべきである。おそらく合うか合わないかは全く気如何にあるのを見る。

按ずるに気には督促の功があり、力には取捨の能力がある。故に気があって初めて力があるべきだ。武を練る者がもしその気を捨てれば、その力を必要としないのだ。我々武人は丹田を培養し、精を積み鋭気を蓄え、一旦事が起これば、敵に応じて来り、心意が一度動き、手足が相応じ、肩腰が相合し、肘膝がこれに従って到り、そして全身の気が運ばずして自ら運び、集まらずして自ら集まり、内外如一、その六合を成し、一団の凝気、精神が満ち足りて、そびえ立つことは泰山を動かようである。そして身体の法則が既に整って活きていれば、これは全く平日の練習の積み重ねに頼るのであって、ただ交手に就いてこれを言うのではない。

七疾論

七疾とは、眼要疾、手要疾、脚要疾、意要疾、出勢要疾、進退要疾、身法要疾のことである。拳を習う者がこの七疾を備えれば、完全に勝利を制することができる。所謂縦横無尽に動き、目にも止まらぬ速さで、生き生きとした龍や虎のように、人が捉えることができないのは、ただこれだけである。

一、眼要疾。眼は心の苗だ。敵の状況を察して心に伝え、そして敵の変化に応じ、勝利を得て功を成す。しかし、交手の時は瞬時に万変し、眼が速くなければ、その動静を察し、その変化を識別することができず、どうして奇策を出して勝利を制することができようか。譜に言う、「心は元帥であり、眼は先鋒である」と。おそらく心の変動は、等しく眼の速さに頼る。しかし眼の速さは実に技を練る者に必要である。

二、手要疾。手は人の翼である。防御や攻撃は全てこれに頼らないものはない。ただ交手の道は全て速さに頼る。遅い者は負け、速い者は勝つ、これは自然の理だ。故に俗に言う、「眼が明るく手が速ければ、勝ちはあっても負けはない」と。譜に言う、「起手は矢のように、落は風のように、風を追い月を追って止まらない」と。また手法が敏速で、その備えのないところを攻め、その意外なところから取り、その身体が大きく力が強いことを恐れず、一動で即ち敗れることを言う。

三、脚要疾。脚は身体の基である。脚が安定して立てば身体も安定し、脚が前進すれば身体もそれに従う。形意拳では渾身の力が整い、一か所も偏重することはない。脚が進めば身体も進み、直ちに敵の位置を奪えば、相手は自ずと倒れる。譜に言う、「手と脚が合わさり多くの力が一つになる」と。また言う、「脚打踩の意を留めてはいけない。消息は全て後脚の蹴りに頼る。脚で中門を踏み、相手の位置を奪う。そうすれば神手も防ぐことは難しい」と。また言う、「脚七分を打ち、手三分を打つ」と。これによって見れば、脚の速さはさらに手の速さよりも速くあるべきだ。

四、意要疾。意は体の帥である。前に言う目には監察の精があり、手には抜転の能があり、脚には行程の功がある。しかしその遅速緩急は全て意の従うところである。立意が一度速ければ、眼と手足は等しくその要領を得る。故に眼が明らかに秋毫を察するのは、意がそうさせるからである。手が出て空回しないのは、拳の精緻さ、意がそうさせるからである。脚の素早さも、また意がそうさせるのである。そうであれば意が速くないはずがあるだろうか。

五、出勢要疾。内に存するものは意であり、外に現れるものは勢である。意が既に速ければ、出勢はさらに速くなければならない。事変の目前で、必ず勢は意に随って生じ、機に随って変化に応じ、敵をして迅雷急襲に耳を覆うに及ばず、慌てふためいて対応の策がないようにさせ、そうして初めて勝利を制することができる。もし意の変化が非常に速くて勢が足りずにそれに従わなければ、応対が乖離し、その敗れることは必定である。故に意と勢が相合すれば、成功は決定的で、意が速くて勢が緩ければ必ず負けることは疑いない。技を習う者はこれに意を加えないわけにはいかない。

六、進退要疾。この節で言うのは縦横往来進退反側の法則だ。進むべき時は則ち進み、その力を尽くして直前し、退くべき時は則ち退き、その気を統べて回転する。進退の適切さに至っては則ち敵の強弱を察すべきである。強ければ則ちこれを避け智をもって取るべきで、弱ければ則ちこれを攻め力をもって対抗すべきである。要は速やかに進み、速やかに退いて敵人がその隙に乗じることができないようにすることにある。高低随時、縦横因勢というのはこれだ。

七、身法要疾。形意武術中の五行六合七疾八要十二形象などの法則は全て身法を本とする。譜に言う、「身は弩弓のように、拳は矢のように」と。また言う、「上の法則は必ず先ず上半身を整えるべきだ。手足が同時に到達して初めて真となる」と。故に身法は形意拳術の本質だ。腕を揺らし腰を活かし、全身を転じ、身を傾けて進み、前に屈んだり後ろに合わせたり左に歪んだり右に斜めになったりしてはいけない。進めば則ち直出し、退けば則ち直落する。最も必要なのは手と足が合い、肘と膝が合い、肩と腰が合すこと(即ち外三合)で、全身が団結し、上下が一つになるよう努め、進退しても破綻しないようにすることだ。故に必ず速くて散らばらないことを達成し、そうして身法の速さが完成を見る。特に速勝遅負の空理だけではないのだ。

起落鑽翻横竪弁

五拳十二形の起落鑽翻横竖の六字は、学ぶ者が最も混同しやすく、教える者も未だ容易に明白に指示し難い。おそらく一手が瞬時の間に、六字が全て備わるのだ。譜に言う、「起は横にして横を見ず、落は順にして順を見ず」と。また言う、「起に形無く、落に跡無し」と。神のような者の技の巧妙さは跡形もなく、これを受ける者とこれを見る者は共にその理由を知ることができない。しかし学ぶ者に初学の時、どれが起落で、どれが鑽翻で、どれが横竪かを判別させなければ、力を用いる処をどこから着手し、心をどこから理解すべきか。これらの点について教える者は急いでこれを判別すべきだ。

私見では手が一度動くのを起とし、動いて直ちに上に出すのを鑽とし、鑽の後腕がやや捻れるのを横とし、捻れて手の虎口が上を向く時を翻とし、既に虎口が完全に上を向けば則ち竪となる。竪に至れば落に近いが、しかしまた必ずしも遂に落ができるわけではない。或いは敵から離れることがやや遠ければ再び手を前に出してこれを迫る。この前出の時が即ち順となる。譜中の鑽翻横竪起落の外にまた「落順にして順を見ず」の順の字が即ちこれだ。つまり学ぶ者が既に精誠を尽くして神のような者の捉えがたいところがあっても、ただ初学の時は則ち逐条分別して詳細にこれを言うべきではない。譜に言うように、「身を束ねて起き、身を蔵して落ちる」と。これは即ち一身の伸縮変化を言うのだ。「起は風のように、落は矢のように、打ち倒してなお遅きを嫌う」と。またこれは一身と手足と人を打つことを並べて言うのだ。また言う、「鑽翻もない一寸を先とする」と。おそらく敵が既に身に迫り、時機が切迫し、鑽翻する暇もなく且つ歩を変える余裕もなく、且つ何をもってこれを攻めるべきか。曰く、手を直出するにあるのみである。しかし手を直出しても全身の力はまた恐らくは整わないだろう。故に寸歩を先とする。寸歩とは即ち後ろ足が一度踏み前足が直ちに出て、警戒して四肢を起こすことである。このようであれば則ち全身奮い立つ力が全て鑽翻ではない手に注ぎ、敵人は初めて数歩外に仰向けに倒れる。以上は全て順の字の効果である。

樁法

目は前を向いて見て、身は斜めに45度、前腕は約170度、後ろ腕は約110度、両腿は約150度、前脚は直、後ろ脚は斜めに45度、前手は心臓と平行に、後ろ手は臍と平行に、両肩は平とする。

樁法の必要事項:頭頂、項豎、肩垂、抱胯、前膊裏肘、提膝、提肛、手心回縮。