意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

虚実(『形意武術教科書』より)

天地の大きさは、万物は全てその中に存在する。事は同じでないが、理は一致する。ただ虚実の二字で十分に包括できる。まず虚があって後に実がある。実があってこそ虚が現れる。虚がなければ実がなく、実がなければ虚もありえない。虚の中に実が宿り、実の中から虚が生まれる。さらに、始めは実であっても終わりには虚に変わり、始めは虚であっても終わりには実となる。また、見たところ虚であっても、実は実であり、見たところ実であっても、実は虚である場合もある。兵法に曰く、「虚なるものは実とし、実なるものは虚とする」。これは諸葛武郷侯先生の得意技である。虚虚実、実実虚虚と、変化は無限で、人をして何が虚で何が実かほとんど見分けがつかなくさせる。これこそが虚実をうまく使う者である。古今を通じて、全てのことがこのようであり、形意武術を練習する者も、練習しないのは虚であり、使用するのは実である。相手が虚を用いれば、我は実を用いてそれに当たり、相手が実を用いれば、我は虚心でそれを待つ。人が虚なら我は実、人が実なら我は虚となる。これは武芸を極める上で最も重要な一端であり、人は必ず虚実を理解してこそ、武芸を練習する者として恥じることがないのである。

世を治める道は、文武の二つの道を離れない。文は国を治め、武は世を救う。文人が筆を執るのは武士が武芸を練習するのと同じである。極めて筆を下すのが難しい場所に遭遇した時は、必ず先に四方から盛り上げ、そして後に実事を用いてそれを記す。これが所謂「先に虚にして後に実にする」ということである。もし一気に書き下そうとすれば、必ず文章の中で行き詰まってしまう。武士が敵と対峙する時、強大で力のある人に遭遇し、千斤の力を持ち上げられるのに対し、我が百斤も持ち上げられないなら、虚実の法を用いなければ、これは敗北を取る道である。楚漢の争いを見てみよう。項羽は百戦百勝、漢王は三戦三北で、孤身逃走し、ほとんど立つ瀬がなかった。これは漢王が虚実の道を理解していなかったためである。淮陰侯を得てからは、依然として敗北は続いたが、兵馬に損傷はなかった。これは淮陰侯が虚実の理を深く理解していたためである。項王は風雲を叱咤し、万夫の敵であった。もし力比べをすれば、卵で石を打つようなもので、必ず完敗してしまう。そのため項王は淮陰侯を見るたびに大いに罵り、「胯夫よ、敢えて三合戦うか」と言った。淮陰侯は必ず虚を装い、一戦敗北して、その鋒を避けた。これが彼が実で我が虚である。九里山の十面埋伏に至っては、一戦で成功した。これは彼が虚で我が実である。もし淮陰侯が虚実の理を深く理解していなかったら、鹿(天下)が誰の手に落ちたかわからない。武芸を学ぶ者はこれをよく考えるべきである。

第一に、進退において虚実を明らかにすべきである。術譜に曰く、「進歩は高く退歩は低く、進退を知らなければ武芸を学ぶことはできない」。進退の二字は形意武術を練習する上で最も重要な鍵であり、虚実の二字もまた形意武術の本源である。相手が進めば我は退く、これは相手の実を避けるためである。相手が退けば我は進む、これは隙を導いてその虚を打つためである。即ち武子の兵書に言う「実を避けて虚を打つ」の法である。もし虚実を理解せず、相手が進んでも我も進めば、実で実を打つことになり、力の強い者が勝ち、弱い者が負ける。大きくは国家の存亡に関わり、小さくは一身の性命に関わる。相手が退いても進むのは、さらにその虚実を察するべきである。相手が誘引の法を用いれば、我は罠に陥り、必ず身命を保つことができなくなる。術譜に「空を見ても打たず、空を見ても上がらず」とあるのは、まさにこのことを言っている。さらに、「進歩は晒打で情けをかけず」というのは、その実を言っているのであり、「退歩は地の不平を防ぐべきである」というのは、その虚を言っているのである。この虚実の二字は、形意武術を練習する者が軽視してはならないものである。また、学ぶ者が日頃から涵養に努め、真実の功があり、虚誕の勢いがなければ、一旦大敵が目の前に現れても、高下が心に明らかで、法が手に従う。これは俗語で言う「百練精化して指を巡る柔となる」というものである。

第二に、用力において虚実を明らかにすべきである。人の用力に虚実があるのは、人が事に遭遇した時に緩急があるのと同じである。緩を急げば変が生じ、急を緩めれば図ることが難しくなる。大敵が目の前に現れた時、相手が虚の式を用いて我を誘えば、我も必ず虚の式を用いてそれを防ぐ。もしこれを理解せず、誤って実力を用いてそれに対抗すれば、相手は我の式に乗じて勝機を得る。もし相手が実力を用いれば、我は虚力を用いてそれを招く。これは太山が卵を押しつぶすようなもので、必ず数歩外に倒れてしまう。ただ相手が実で来れば我も実で往き、実で実に対し、虚で虚に対し、勢が均しく力が敵する。さらに手法の巧みさと歩法の精妙さを加えれば、これで人に勝たない者はほとんどいないだろう。そのため、少ない力で多くの功を成す者は、これである。もし学ぶ者がこれを察せず、可否を問わず、是非を論じず、虚実を窺わず、機変を明らかにせず、相手が直に来れば我も直に往き、自ら武芸の精妙さを恃み、力の大きさで人を欺くなら、「芸を恃む者は必ず芸に死す」である。聖人の言葉に「強梁なる者は其の死を得ず、勝つ者は必ず其の伴を過ぐ」とある。ただ学ぶ者がこれを書いて身に付けることを望む。

第三に、敵に遭遇した時はその虚実を察するべきである。敵が強大で力があり、体格が立派で、さらに武芸の素養があれば、これは実の中の実である。我がもし猛々しい漢として待ち構えれば、これは必ず敗北の道である。兵書に「敵を欺けば必ず亡ぶ」とあるのは、まさにこのことを言っている。もし敵の体格が弱々しく、痩せて小さく、さらに武芸の功もなければ、これは虚の中の虚である。崩や炮を用いて、一着で成功しても何ら問題はない。術譜に「人を蒿草のように見よ」とあるのは、このことを言っている。敵が虚か実か、どのように見分けるか。一度対面し、手で一引きすれば、その底を知ることができる。俗に「熟練者は一度手を伸ばせば、全てを知る」と言う。もし体は大きくても、ただの勇者であれば、我は功力を用いてそれに勝つことができ、軽視しても問題はない。もし体は小さくても、功夫や学力が我の十倍であれば、我がそれを普通に見れば、これもまた敗北の道である。兵法にも「敵を驕れば必ず敗れる」とある。総じて、人と対峙する時は、必ず心を平にし気を静めて待つべきで、心が慌てて意が乱れ、手足の置き所がなく、耳目の加える所がないようであってはならない。俗に「静であれば明を生ず」と言う。敵人の虚実を知れば、勝つのである。

第四に、法を用いる際は虚実を知るべきである。形あるものは実、形なきものは虚である。六合で論じれば、外三合は実、内三合は虚である。手と足の合、肘と膝の合、肩と胯の合、これらは形があって見えるため、実である。内三合は虚で、心と意の合、意と気の合、気と力の合、これらは形がなくて見えないため、虚である。総じて、実は虚から生まれ、虚は実に基づく。虚がなければ実がなく、実は虚から生まれる。虚がなければどうして実を生み出せようか。この二つは互いに必要とし合って用をなし、少しでも欠けてはならないものである。五行の用法に至っては全てそうである。劈崩炮鑽横は五臓の脾肺肝胆腎に属す。劈崩炮鑽横は形があり、脾肺肝胆腎は形がない。形あるものは実、形なきものは虚である。学ぶ者は、日頃から丹田の力を養い、臓腑の功を練る。一旦それを用いれば、法は心に従って生まれ、虚無の弊に陥ることなく、虚を用いて実を生み、内外が相合し、その中の真の趣を得る。もし虚を理解しなければ、どうしてこれに達することができようか。

内外において虚実を明らかにすべきである。内に含むものは虚、外に発するものは実である。上述の五行、八要、三才、六合、七疾、四稍などや、以下の十二形象のように、手足身法の功は全て丹田の用力に基づいている。そのため術譜に「丹田を養えば長命の宝となり、万両の黄金も人に与えない」とある。丹田は虚であり、五行、八要、三才、六合、七疾、四稍、十二形象などの法は全て実である。前篇で論じたように、虚は実を生み出し、実は虚から発するのである。これだけでなく、五行について言えば、それぞれに虚実の法がある。例えば、劈拳は崩拳を破ることができる。これは劈拳が実で崩拳が虚であるためである。金が水を克するようなものである。しかし崩拳も横拳を破ることができる。これは崩拳が実で横拳が虚であるためである。五行の生克の法は全てこのようであり、生むものが実で、克するものが虚である。六合では、手と足の合、膝と肘の合、肩と胯の合は、外にあって見えるため、人は皆それが実であることを知っている。心と意の合、意と気の合、気と力の合は、内にあって形がないため、人もそれが虚であることを知っている。しかし虚に真の実がなければ、外の実もまた虚に帰するのである。つまり実は虚に基づき、実を求めるなら虚から入手しなければならない。他の法も類推できる。学ぶ者はこれをよく考えるべきである。

起落において虚実を知るべきである。術譜に「起落の二字は明らかにすべきである」とある。一起一落は形意武術を学ぶ上で極めて重要な点である。起は虚、落は実というのが、武芸を学ぶ者の通説である。しかし起にも実があり、落にも虚がある。虚の中に実が存在し、実の内に虚が含まれている。学ぶ者もこれを講じないわけにはいかない。例えば、「起手横拳の勢は招き難い」また「起は研ぐが如く、落は鉤杆の如し」というのは、その実を言っているのである。「起は横、落は順」というのは、その虚を言っているのである。起は横を見せず、落に順を見せないのは、その虚の中に実が存在することを言っている。起は再び起こる必要はなく、落は再び落ちる必要はない。起には形がなく、落にも形がない。起は蛰龍が天に登るようで、落は霹靂が地を震わすようであるとは、これは実の中に虚が含まれているのである。また「起落二字は自身は平である」というのは、虚でないものはないということを言っている。「起落の二字は心と斉しい」というのは、実でない虚はないということを言っている。総じて、起があれば落があり、即ち実があれば虚があるのである。虚がなければその実を現すことができず、実がなければ虚もまた現れない。虚は涵養であり、実は作用である。即ち、起は去ることであり、落は収めることである。去ることがなければ収めることはできず、収めることができなければ再び去ることもできない。起落の二字は形意を学ぶ上で極めて重要な指針であり、これを理解しなければ、壁に向かって立っているような弊害を避けられない。学ぶ者はこの言葉をよく吟味し、軽々しく扱わないようにすべきである。

動静にも虚実がある。術譜の動静論に「内五行は静を要し、外五行は動を要す」とある。静は本であり、動は作用である。その静を言えばその機を見ず、その動を言えばその跡を見ない。動静の未だ発せざる所、これを動静の真の本と言う。即ち子思が『中庸』で述べた「喜怒哀楽の未だ発せざるを中という」であり、性の本体は全て虚に属す。故に性と言うのである。「発して皆中節を和と謂う」というのは、これは性から情が生じるため、実に属すのである。道を修めるのもこのようであり、身を修める者もまたこのようであるべきである。術譜にまた「虚は精なり、実は霊なり」とある。精霊が共に存在してこそ、その虚実が成立するのである。これは『中庸』の「未だ誠ではなく誠であろうと欲する者は、必ず先ず曲を致す」という論と同じである。曲から誠を求め、必ず誠であれば形となり、形となれば著れ、著れれば明らかとなり、明らかとなれば動き、動けば変わり、変われば化す。必ず至誠であってこそ化を推し進めることができる。武芸を練習する者も必ず先に虚にして後に実となることができるのである。即ち静から動が生じ、動けば必ず霊験があり、妄動とはならない。「心が動いて身が動かざれば則ち呆然であり、身が動いて心が動かざるもまた呆然である」と言われるのは、このことである。姬公寿の動静の詩に「霊根の気を養い神を養う、功を養い道を養えば天真を見る、丹田を養えば長命の宝となり、万両の黄金も人に与えない」とある。これを見れば、学ぶ者が動静の理由を理解しなければ、木に登って魚を求めるようなもので、必ずこの中の佳趣を得ることは難しいだろう。

以上の数章で論じた虚実の法は、全て一つの側面から言ったものである。形意の全体を縦観すれば、やはり虚実を離れて別の依り所があるわけではない。例えば斬截里胯挑頂雲岭、出勢虎扑、起手鷹捉、鶏腿龍身熊膀虎抱頭などの勢も、虚実の二字を離れることはできない。しかし虚の中から実が生まれ、また実の中から虚が生まれるものもあり、また虚から虚が生まれ、実から実が生まれるものもある。例えば斬截は本来虚に属すが、実がその中にある。近ければ斬を用い、遠ければ截を用いる。敵の拳が我が身に迫り、避けることができない、あるいは地勢が狭隘な場合、必ず斬法を用いてその力を殺し、相手の志を遂げさせず、我は一手を繰り出して遠くを打つことができる。これが我が術中の化法である。截も同様だが、堵法とは少し異なる。堵はその勢が出ていない時、截はその勢が既に発しているが力がまだ伸びていない時に用いる。我は截法を用いてその勢を殺す。裹胯は全て化法の中の虚勢であり、挑頂は即ち起勢で、担ぐような意味があり、虚には属さない。雲岭もまた化の中で虚から実を生じるものである。左は云で右は岭のように、人が左手で拳を持って我が胸中に打ち込んでくれば、我は左手でその腕を持ち、右手でその肘を持ち、わずかに擄の勢を作れば、相手の身が一度斜めになれば何もできなくなる。右手も同様である。出勢虎扑、起手鷹捉も全て同様である。他のものも類推できる。学ぶ者は必ず虚実が相生する法を理解すれば、形意武術の奥妙を得たと言えるだろう。

張占魁『形意武術教科書』逸文武術文化有限公司より