意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

月刊秘伝2016年8月号

許傑華老師来日

  • 登場する先生
    • 許傑華
    • 長谷真介
  • 内容
    • 許傑華セミナー
    • 佐藤聖二先生の「拳学」の探求を振り返って

印象に残った言葉

30年以上(意拳を)続けていますが、重要なものは3 つか4 つですね。重要なことは内部で何をしているかであって、站樁の効果とは接触した瞬間に相手の全身をコントロール出来ているかどうかで計ることができます(許傑華)

(站樁は)推したり、引いたりしているわけではなく、常に“筋(腱)を伸ばしている”と言えば良いでしょうか(許傑華)

勁の字は『軽』と『力』に分けることができます。勁の通った打拳とはこの軽やかな霊活さと一点集中して突き通るような力を含んでいます(許傑華)

拳は強く握り込むのではなく、親指と人差し指、小指の三本の指を意識して、柔らかく包むように握ります(許傑華)

佐藤(聖二)先生が留学から帰った後(1985 年)、地下鉄に乗る為にホームで待っていた時の事、一緒におられた澤井先生が、「佐藤君、姚さん(姚宗勲老師)はこんな練習をしていなかったかね? 一緒に練習していた頃、良くこの練習をしていたよ」と言われ突然動かれたそうです。その動きは、少し歩幅の広い、所謂「神亀出水」だったそうですが、今まで一度も見たことの無かった師のその動きがあまりにも姚老師にそっくりだったので大変びっくりされた、と嬉しそうにお話しされていました(長谷真介)

勢(『大成伝習録』より)

現在の太極拳の大部分は理を講じ、理の上で法を講じている。良いものは法の上で理を講じているが、これらはどれも違う。理と法は、勢の上で講じなければならない。勢こそが主体である。なぜなら、本当に敵と対峙する時には緩急の変化があり、もし勢を講じずに、ただ理と法を講じるだけなら、いわゆる理と法はすべて立ち行かなくなる。一度動き出せば、すぐになくなり、使えなくなってしまう。敵との勢が出てきた後に、理と法を講じるべきであり、この時の理と法こそが用いることができるのである。拳を練習する際は、まず勢を提示してこそ使えるようになり、勢の基礎の上でこそ理と法を論じることができるのだ。

どこでも機と勢を得なければならないが、この機勢は無形なものであり、固定されたものではない。機勢の可塑性は非常に大きく、ある人は機勢とは身体がある状態にあるのが適切だと考えているが、実際にはそうではない。この状態は変化し拡大しなければならず、絶えず変化し続けなければならない。なぜなら、敵と対峙する時、安定した相手もいれば、機敏な相手もいるからだ。これによって自分自身を完成させる機会が与えられ、自分が前の人にも後ろの人にも適応できるようになる。だからこそ、この勢は変化するのだ。猫がネズミを捕まえる時のあの機勢を見てみると、静かに動くのを待っている。二匹の犬が喧嘩をする時のあの機勢は、乱れているようで乱れておらず、力の使い方も意の使い方も合理的だ。これは勢と勢が同じではないことを示しており、そのため勢を固定してはならない。一度固定すれば硬直し、死んだものになり、使えなくなってしまう。その時々の勢に従い、その勢を出すだけである。どのような勢を出すのか? 敵がどんな勢を必要としているかによって、その勢を出す。

勢こそが主体である。站樁と同じように、あの霊妙な状態こそが主体であり、要領が主体なのではない。なぜある人はこの樁を習得できないのか? それは彼らが自分自身を身体各部位の要領に固定してしまい、樁そのものが何であるかを掴んでいないからだ。樁そのものは、出来上がった完成品である。製造の過程において、必要なものは何でも取ってくる。まるで仕事をする時のように、ペンチやレンチが必要なら、站樁も同じだ。肩を少し沈める必要があれば、肘を少し垂らす必要があれば、これはそのペンチやレンチに相当し、道具に過ぎない。しかし今、多くの人は必要な道具を目的としてしまい、一日中これらの道具を練習している。このように練習してどうやって習得できるだろうか?

字を書くのも同じだ。人に字の書き方を教える人が、もし教え方を知らなければ、拳のわからない人が人に拳の練習を教えるのと同じで、教えることは全て間違っている。字の書き方を知らない人は、この一画をどう書くか、あの一画をどう練習するかなど、いわゆる筆法だけを教える。これらの筆画を全部書けるようになっても、一文字書かせてもまだ書けない。もし教え方を知っていれば、横は平らに、縦は真っ直ぐに書くように教える。まずこのようにさせ、このプロセスの中で、彼が書いたこの横に問題があることに気づき、それから問題を解決すればいい。主従は必ず区別しなければならない。この横が上手く書けていなければ、問題を見つけて上手く書けばいい。

站樁も同じで、まずそこに立たなければならない。立っているうちに、もしこの膝が正しくないことに気づけば、膝を調整する。ゆっくりと調整し、問題がなくなるのを待てば、自分で分かるようになる。ああ、なるほど站樁はこれをやっているのか! もしずっと正しくなく、ずっと肩はどうだ、脚はどうだ、肘はどうだと言っていれば、最後は全てこれらのことに陥ってしまう。これらは道具であり、樁を調整するのを助ける道具だ。まずそこに立ち、それからゆっくりとこれらの道具を使ってこの樁を完備する。これは形の面から言えば、さらに一歩深く言えば、そこに立ち、まず心と意を調和させ、その時に再び形を調整し、再び心を調整し、再び意を調整するなど、全体的に調整するのであり、単純に身体だけに注目するのではない。ただ身体でこのことをやっていては、主体が覆い隠されてしまう。立つ時は、意識は楽しまなければならない。楽しくなった後、足首の関節が松開し、脚が地に着き、人と地面が関係を持つようになる。一度楽しくなれば、身体も外の空気と関係を持つようになり、このような状態でなければならない。この時、どこがまだ不十分かを見て、そこを再調整する。これは全体的に一つの樁を把握するのであり、単純に最初から撑三抱七、肩撑肘横、梗着脖子、五指抓地などということではない。

先人は格物について語っている。つまり、練習しているうちに、この物事に適していると感じるようになるということだ。しかし人々はしばしばこの点で行き詰まり、格物の中で行き詰まってしまう。人々に格物致知させたいのであって、この生きた物事を固定化させたり、この生気のある物事を定着させたりしてはいけない。格物の目的は致知であり、練習しているのはあの生気に満ちた状態であって、方法ではない。

ある武術家はこの道理が分からず、拳を語る時、必ず生命力に満ちた物事を説き尽くそうとする。彼は主線を語らず、枝葉末節を語る。勢を語らず、勢の中で法理を見ることを語らない。単純に局所的なことをあれこれ語り、西洋の思考方式で中国の拳術の問題を研究しており、これは非常に幼稚だ。もし拳術を化学実験に例えるなら、彼らは生活の一時期を切り取って実験しているようなものだ。彼は この化学実験を生活全体の中に融合させない。二人の間の本当の対抗は激しい状態での対抗であり、彼らは平和な状態で、勢のない状態で、あなたのこの労宮をどのように使ったか、手の形をどのように使ったかなどを語っている。では主幹は何なのか? それは勢であり、我々が言うところの、起勢である。この物事は、どこで相手と接触しても、どこでも相手と関係を持つのであり、他のすべての場所は、相手を通り抜けて空であり、活である。

ある人は虚を用いないが、虚を上手く使うことができる。彼が虚を非常に上手く使う時、あなたの力が大きくても彼を打つことはできない。現在、拳術の中の良いものはますます少なくなっており、虚を使える人も今ではとても少ない。彼は平和な状態ではある程度虚を使えるかもしれず、あなたを一瞬で空振りさせたりできるが、あなたが彼に対して急になると、もうできなくなる。出勢している状況でまだ空になれる人なら、あなたは彼を打てなくなる。なぜなら、彼は出勢しているからだ。出勢は非常に重要で、出勢してこそ、虚実や陰陽、法理などのことを論じることができる。出勢し、空を用い、どこも中を守る。

人を打つ時は借勢することができなければならない。まず相手を硬直させ、相手を緊張させてこそ打つことができる。あなたが正しく行えば、相手が一度変化すれば硬直し、歩が硬直した時にあなたは彼を打つ。大成拳は主動的ではなく、力を使わず、速さを求めない。意が出た後、形は惰性である。あなたは後から発するが先に至り、相手が動かなければあなたは動かない。相手が一度動けばあなたはすぐにその勢を利用して彼を打つ。だから、あなたの身体は通達し、通暢で、障害がなければ、相手の勢を利用することができる。あなたは彼に勢を出させる勇気を持たなければならない。彼が出てこそあなたは対応できるのであり、あなたの心が通じてこそ彼に出させる勇気を持てるのだ。彼が出てくることはあなたにとって脅威ではない。なぜならそれはあなたが制御して彼を出させているからだ。

あなたが主動的に何かを使えばそれは混乱状態であり、主観的で盲目的で、惰性的である。あなたが主動的でなく、相手に主動させれば、あなたは彼の主動性を見ることでそれを見抜くことができる。これはなんと明晰なことだろうか? 受動的だと言いながら、実際にはあなたは一日24時間ずっと主動的なのだ。ただしあなたのこの種の主動性は受動的な形式で表現されるため、この種の主動性は相手には見抜けない。漁網が魚を捕らえる時、この網は主動的だと言うのか、それとも受動的だと言うのか? 見た目には網は静止していて、魚は主動的だが、網はとっくにそこで待ち構えているのだ!網の主動的な方法は静止することだ。形は静止しており、相手に自ら死なせる。あなたは何を急ぐ必要がある? 考えを持った途端、この拳は練習できなくなる。自我を持った途端、この拳は練習できなくなる。思い込みを持った途端、この拳は練習できなくなり、足の運びが滑らかでなくなる。拳の練習は道に合い、気が手まで貫けず、腰が正しく動かせず、出勢できなくなる。自分自身がこの物事を持ったらそれを外に出さなければならず、相手の背後まで出す。あなたの相手はあなたの一部分であり、あなたが一度放せば彼は出ていく。拳とは意感と自然の力であり、無意識に正しく行えばそれでいいのであり、それで十分であり、それで貫通するのだ。これが勢なのだ。

形意拳に「人を打つのは歩くようで、硬打硬進遮るものなし」という言葉がある。これも同じ意味だ。これは技法ではなく、気勢であり、勢で人を打つのだ。勢で人を打つのと技法で人を打つのは異なり、勢は防ぎようがない。勢とは何か? 勢は整体であり、勢は組織である。拳の力とは勢のことであり、出勢は、このような状態なのだ。身体というこの通道は十分に強大でなければならず、相手をこの力量と接続させることを保証できなければならない。既に通道になっていても、それでもなおそれを修練し、育成し、強大にしていかなければならない。

拳法の修練には、理、法、勢の三者が揃っていなければならない。勢は、必ず伝承されなければならない。あなたが拳を練習しても、もし勢を見たことがなければ、理が合っていても、法が合っていても、出来上がったものは違うものになる。もしあなたが絵を描くようなあの一撃を見たことがなければ、あの味わいや火加減を見たことがなければ、あなたはやはりできない。

では勢とは何なのか? それはあの弾性の状態であり、柔であり剛でもある。ふわふわとしており、ぐるぐると回っているあの物事だ。それは出ていけば戻ってこない。人を打つ時はこの物事を使って打つのであり、あなたの力が大きくてもそれに耐えられない。それは勁でもなく形でもなく、さらに力でもない。剛柔はなく、虚実はなく、速さの遅速もない。それはただ機であり、あなたが来れば、つながり、それで終わりだ。古人は急と緩について語っている。急に来れば急に応じ、緩やかに来れば緩やかに随う。なぜこのようになるのか? 鍵は機にある。中国文化とは、この機、すなわち機勢なのだ。

于鴻坤『大成伝習録華夏出版社より

月刊秘伝2018年4月号

"空手道"盧山初雄

印象に残った言葉

攻撃にも受けにも理というものがある。すべてがその理にかなっていなければいけない。理にかなえば私のように歳を取っても衰えず、かえって歳とともに円熟する(澤井健一

山岡鉄舟が語る”無敵“とは誰と戦っても負けないんじゃなくて、敵という概念を自分の心の中から無くしてしまうことだと思います。いわゆる絶対平和。強さの究極とは自分の中から不安を消し去ることでしょう。澤井先生は禅(站樁)を続けることで何も感じない、無念無想の境地に至るとおっしゃりました。この境地にいつかは至りたいと念願して稽古を続けてきましたが、最近ようやく、この道で間違いないという新たな確信を得たように感じているんです(盧山初雄

究極の到達点は同じです、入口が違うだけでね。中村先生は、徹底的に形から入り、形を掘り下げて考えて、最終的には無心になって使う。澤井先生は、最初から根をしっかりと張り巡らせれば末節は自然に出てくるということですよね。そしてそれは王向斎先生の教えとも同じです。王向斎先生も形から入って形を忘れ、無になった方ですから。入口は多少違っても到達点は同じなんです(盧山初雄

私が站樁にのめり込んだのも、王向斎先生がいった「気の力は非常に強く非常に速い」という言葉があったからです。これが中村先生の「一拳必殺」と「時速200〜300 キロのスピードを持つ手刀」に通じるものがあると思うからなんですよ(盧山初雄

そうしたら澤井先生は「キックボクシングをやっても、気持ちをしっかり持てば空手の技が衰えることはない。むしろそういう格闘技の技術を得るチャンスを、自分なりに稽古に活かせ」といわれたんです(盧山初雄

気を練る前に、まず”気を養う”ことが必要です。いわゆる『養気』です。この気を蓑うものこそ站樁(立禅)です(盧山初雄

(試力は)例えば、ただ両手を捏ねてみても意味のないことで、体の中に鉛を通すように、水飴をグワァッと練っていくみたいにやります。それも筋肉で力を込めるのではなくて、あくまでも気を重くする、もっともっと鋭くする、そういうイメージが必要なんです。イメージを抜きにしてやってみても何にも成果はないと思います(盧山初雄

当時、一週間に一度、先生と二人で朝の薄暗い中、明治神宮に行って……あれがもう楽しみで。当時は今と違って腰を低く構えて、踵も挙げて、これで15分。帰りのトイレでは脚がぷるぷる震えて(笑)、明らかに空手とは違う筋肉が使われている。鍛錬方法がまったく違うということは自分の体が分かっていますから(盧山初雄

(站樁を15分から始めて、最初に1 時間を達成した時には)当時は站樁のことも深くは知りませんでしたが、”ああ、これだけできるようになったんだな“という感慨がありましたね。それだけ自分が強くなっているという実感です(盧山初雄

ただ、澤井先生はそれを外力として発揮されていた。その衝撃は『気』というものを実感せざるを得なかった。私もそうだし、カレンバッチもそうだから、彼も澤井先生へ傾倒していったわけでしょう(盧山初雄

ここでいうエッセンスとは、威力でありスピード。それらを生み出す"瞬発力"とでもいったものです。そして、全身のバランス。それを支える軸のようなもの。その瞬発力をもっと増す練習が澤井先生の教えの中にあり、それまで学んだ空手の稽古体系には無いものだったんですね(盧山初雄

王向斎先生は”地球を持ち上げることができる“と言っていたと聞きましたが、澤井先生も”たまには、クマが来てもトラが来ても喰い殺してやるような、そういう気持ちになるんだ“と言っていました。私もいずれはそんな境地ヘ一度は行ってみたいと思っていました(盧山初雄

澤井先生のように質問したり、実際に手を交えさせていただいたということはありませんでしたが、王樹金先生は型を通じて”やっばり、この人は凄いな“と思いました。そこに居ない敵が空間に見える、三次元的な型(演武)なんですね。あの手の感じは今でも忘れないです(盧山初雄

はじめ孫立先生は『呼吸や内観は関係ない。イメージだけ』と言っていたので、やはりそうなのかと思っていたのです。それが一昨年の暮れ頃、『館長! 養気と練気。王向斎先生の本にも書いてある』って。”アンタ、いらないって言ったじゃないか"とは言いませんでしたけど(笑)、確かに孫先生がまとめた『王向斎伝』には小周天のことが書いてある。"ああ、やらなくちゃいけないな“と、それからまた試行錯誤しながら始めたんです(盧山初雄

孫先生は北京でこれ(呼吸法)を干永年先生に学んでいますが、長年、教えてはくれなかった(盧山初雄

澤井先生が『芽が出ない時はトコトン出ないが、ちょっとでも芽が出るとダァッと伸びる』とおっしゃっていましたが、私もここ数年で何か芽生えたのかもしれません(盧山初雄

月刊秘伝2015年3月号

韓氏意拳という拳学

  • 登場する先生
    • 韓競辰
  • 内容
    • 韓競辰先生インタビュー

印象に残った言葉

ご存知のように王先生は形意拳意拳に発展させました。それには必然性があったと言えます。なぜなら王先生は形意拳を学ぶ中、形意拳に限らずおよそ中国の伝統武術が失ってしまった問題に気づいたからです。それは形はあっても意がなくなったということです。そこで意に核心を見出し、姑椿によって力を勁に換えることを提唱しました(韓競辰)

その頃の王先生の教伝はどういうものだったかと言えば、姑椿だけを教えていました。趙道新や父は王先生に出会う頃には実戦経験があり、実力もありました。王先生は武術的に優れていた学生には換勁だけを教え、ときどき試力も教えました。「どう用いるか」を教える必要はなかったのです(韓競辰)

では、韓氏意拳の探求する純粋自然・自然本能とは何か。站樁を例に挙げましょう。一般的に行われている站樁は自然を求めると言いながら、概念を満足させているに過ぎません。緩んだり、緊張させたりすれば「力が強大になる」とか「具体的に実戦に近い力が養われる」と言われています。弛緩も緊張も自然と生まれるものです。だが、やろうとしてやってしまえば、それは不自然な動作です。どれほど自然を強調しようとも、それは思考を満足させることでしかありません。そうはいっても特定の力を得る目的のために姑椿をしているのですから、行えばなにがしかの結果は生まれます。それは嘘ではありませんし、現実的な真実ではあります。けれども自然の本質とは違います(韓競辰)

ところが自然界の動物はそうではありません。人を警戒しています。自然界ではいつ何が起きるかわからないからです。そうした危機感と瞬間的に動ける活力のある「状態」がないと生きていけません。人間もかつては「状態」がありました。いつでも動き出せる感じ。全身のまとまる感じ。そうした状態がないと生きていけなかったからです(韓競辰)

站樁が解決するのは自然状態の把握であり、自然本能に入るための唯一の門だ(韓競辰)

技術を学ぶなら姑椿はいらない。站樁で自分自身の生命を理解するのです。空想ではなく”状態“から探求する。これが原理原則です(韓競辰)

試力とは、蒔いた種の芽が出るようなもの。どこに向かうかは決まっていない。地中から芽が出て石にぶつかれば、それを避けて伸びる。そのとき初めて方向が発生する。そして花が開くとき、そこに正しいも間違いもない(韓競辰)

自然界の争いは生命の争いです。それが拳の本質です。技能の比べ合いではありません。危機感や切迫感、圧迫感によって運動の強度が高まります。強いものに出会えばそれに応じて強くなるように。思考やイメージが強度を強めるのではありません(韓競辰)

力を用いると自然の状態から外れます。父は健身功を『運動の中の睡眠』と呼びました。つまり自然のメカニズムが働くという意味です。それが全身全霊です。摂生とは生命を体験するのだから、やるほどに活力が湧いてきます。韓氏意拳の養生と気功やジムでの運動の違いはそこです。ただ疲れるのであれば生命の浪費でしかありません(韓競辰)

大成拳的自然力(『大成拳精典探秘』より)

中国の拳術は博大精微で、拳術に特有の力の獲得方法は様々であり、その力の描写の仕方も一様ではない。例えば少林拳の「寸勁」、形意拳の「整勁」、太極拳の「爆発力」や「弾勁」など、大成拳においては、立樁と試力を通して得られるのは本能から出た自然力であり、本能力とも呼ばれる。王薌齋先生が『大成拳論』に記されているように、「本拳の重んじるところは、精神にあり、意感にあり、自然力の修練にある」。

いわゆる自然力とは、訓練時には方法を重視し形式にとらわれず、人体の良能を発揮することを旨とし、触覚の活力を練り上げる。実用時には、自身の本能の触覚に基づき、自覚的か無自覚的かを問わず、内在する潜在力を発揮し、相手に強い穿透性や発放性のある一種の勁力を加える。全て自然に任せ、本能から出たもので、何の強要もない。

我々は、運動の過程で生み出される力は、全て肌肉の収縮に依存していることを知っている。そのため、多くの拳家は、全身を緊張させて生じる爆発力を、拳術の上級の力と見なし、一瞬の間に身体を緊にする程度が良ければ良いほど、発揮される力量が大きいと考えている。大成拳にもこのような力はあるが、本質的な違いがある上に、上級の力とは見なされていない。実戦時に生じる「爆発力」は、全身の緊張を招き、力の発揮を妨げるだけでなく、本能力の発揮をも妨げる。王薌齋先生は「試力も発力も、身体を松和に保たねばならない」と戒めている。

走行中の自動車が物体に衝突すると、大きな慣性力が働き、大きな衝撃力が生じる。これが自動車の本能力と言えるだろう。これは自動車が大きな質量と速度を持っているためである。速度が大きければ大きいほど、衝突時の慣性力も大きくなる。しかし、それは自動車の爆発によるものではない。もちろん自動車の爆発にも殺傷力はあるが、それは自動車の運動の本能力ではない。また、雄牛が突然走り出せば、牛の本能力が現れる。その大きさは、牛の質量と速度次第である。この時、牛は全身を緊張させて初めて人や壁を倒せるのではなく、本能力を発揮する際に、筋肉は緊張すべきところは緊張し、放松すべきところは放松する。意識的に控制するものではない。

人体の質量(体重)は限られているが、站樁と試力を通じて最大限に発揮できる。その際、自身の重力感を高め、速度を上げることが最も効果的な手段である。稽古の際は身体の放松に注意を払い、肌肉の緊張を排除すれば、自然と全身の重力感を体感できる。站樁と試力の段階を経るごとに、その重力感はより明確になる。試力の際は動作を緩慢均一にすることで、実戦時の加速度を大きくすることができる。手足の重力感と加速度をうまく組み合わせれば、本能の慣性力、即ち本能の惰性力を生み出せる。これこそが大成拳の自然力であり、速度が大きければ大きいほど、重力感が際立ち、その勁力も大きくなる。

速度、発力時の速度と言えば、人々は無意識のうちに緊張と結びつけがちだ。発力直前に身体を意識的に緩めた上で、出手する瞬間に全身を突然一緊させ、いわゆる「爆発力」を生み出せばよいと考える向きもある。しかし、そうしてしまえば意識の支配下に置かれ、精神的負担が増す。対手と交渉する際、いつ身体を放松させ、いつ緊張させるか気を配ることはできない。気を配ったとしても、それは本能ではない。大成拳の本能力は触覚によって支配され、突然加速度を上げる必要はあるが、全身を緊張させる必要はない。放松した状態を保つべきである。もし身体の一部が緊張しているとしても、それは意識的なものではない。本能力を発揮する際、緊張すべき部分は緊張し、放松すべき部分は放松する。松緊はその状況に任せる。

近年、大成拳の中興の祖と呼ばれる、我が国の著名な武術実戦家王選傑先生が、海内外の多くの名家と較技を行い、圧倒的な強さで勝利を収めてきた。王先生は相手を投げ飛ばす際も、力を発するときも収める際も、全て本能に従っている。全身は軽松の状態で、特別な緊張は見られない。まさに炉火純青、上上乗と言えよう。

大成拳の勁力の属性を正しく認識することは重要な問題である。この勁力の自然な本能性を認識できなければ、たとえ稽古に熱心に打ち込んでも、効果は上がらない。王選傑先生は『王薌齋与大成拳』の中で、「数十年功夫が篤実な者でも、悟性が低ければその功夫は平凡なものとなる。一方で悟性が優れていれば、たとえ2、3年の功夫でも、その造詣は上乗に達することができる」と指摘している。この悟性には拳学理論の総合的理解が含まれ、その中でも勁力の自然性の理解は重要な側面である。自然力がどういうものか分からず、つまり拙力や本力との違いが分からなければ、成果は得られない。自身の稽古だけでなく、多くの疑問を抱き、名師に質問し、他者の実作時の発力の様子を観察し、ある程度の経験者と推手や実作の稽古をするのも良い。他者に自分の身体で試させるのも良い。様々な経験を積み重ね、常に脳裏に感覚的な知識を残すことが大切だ。具体的な体験や観察の機会がなければ、站樁の時間を長くしても、逆に身体が硬直してしまう。そのため站樁は時間だけでなく、質を重視すべきである。適切な精神と意感の下で、できる限り放松することで、先天の本能を取り戻し、自然力の培養を高められる。そうすれば站樁時間を長くすればするほど良いが、そうでなければ死樁になってしまい、逆効果となる。

大成拳の自然力は、勁力の増長の科学性にも現れている。基礎の立樁では、経絡を通すことは求められず、舒適得力が重視される。全身を立体的に発達させ、肌肉を育て、「内気」を養う。次に「内気」を「内勁」に化し、自ずと気血の動きを感じ、全身の毛髪が伸び上がるようになる。そうなれば、「身体の筋骨は練らずとも自ずと練られ、神経は養わずとも自と養われ、全身が通暢となり気質も次第に発達する」。

大成拳の自然力は、実戦時の霊活多変で、無限の応感性を備えている。本能的なものであるが故に、手足の触覚の要求に応じて、様々な形、方向の勁力を自在に発揮できる。進退攻守、劈打、鑽打、順歩打、横歩打など、相手のいかなる角度でも、接触の有無に関わらず、本能的に相応しい打撃を与えられる。平常の稽古で形にとらわれていると、実戦で使えなくなってしまう。つまり本能を身につけていないということだ。初心者は相手と距離があれば勁力を出せるが、接触すると障害があり勁力が出せなくなる。これでは自然力の動的な属性を備えていない。自然力は大成拳の内在する功力の表れであり、様々な勁力の総称でもある。

その特性としては、金木水火土の五行の力がある。具体的な応用と発現形態としては、開合力、二争力、渾元力、纏綿力、弾力、梃子力、整体力、磁力などがある。これらはすべて自然力の範疇に属するが、どの勁力を応用する際も、その「自然」の特性を現さねばならない。自身は松緩柔順で「得勁」した感覚があり、相手は威圧的な気勢と、穿透力のある発放された勁力の強烈な威力を感じることになる。

李照山『大成拳精典探秘』奥林匹克出版社より

月刊秘伝2014年10月号

意拳太気拳交流セミナー

  • 登場する先生
    • 姚承栄
    • 天野敏
    • 島田道男
    • 鹿志村英雄
    • 竹田二男
  • 内容
    • 対談姚承栄 X 天野敏「兄弟流儀の再会通底する‘‘渾元”」
    • 太気拳と活法に共通する術理を示す

印象に残った言葉

私が初めて中国へ行って、姚先生にお会いしたときに最初に感じたことは、澤井先生に直接習っていた私たちよりも、姚先生が澤井先生の動きに似ていたということなんですね。そのときすでに、姚先生は渾元力とはなんであるかということを身につけていて、私はそのことに十数年経って初めて気づいたんです(天野敏)

例えば站樁や試力(姑椿で養った渾元力を動きの中で保つ動的訓練)といった意拳の要素をどうやって総合していくか、それは当然、原理原則に基づいて行われるべきですが、そこには自分の特徴を付け加えていかなければなりませんし、応用に関しては自分独自の鍛練も必要となります。王向斎先生は、相手を勢い良く飛ばしたけれども、王向斎先生の場合は身体も大きくて発力する方法は身体の小さい人のそれとは違うわけです。やり方は人それぞれ違いがあっても、効果が同じであればいいということですね(姚承栄)

まず原理原則を伝えることは必須だけれども、どのように内容を把握させるかを考えるときに、弟子が「師の言ったことだけではなく、言わない部分をどれだけ理解できているか」を見るんです。内在的なものをどれだけ吸収して鍛練できているかどうかです。普通の人が目に見える部分を把握できるのは当然で、そうでないものを把握できているかどうかが大切なんです(姚承栄)

もちろん組手をすればわかるし、しなくても、姑椿や試力をしているところを見たり、あるいは精神意識の面で内的な力が豊かかどうかを見ることでわかります。細かくいうと、動いたときに、身体の動きが統一されていてスピードがあるか、すぐに反応できるかどうか、それは見ればわかるんですよ(姚承栄)

よく澤井先生も、姚宗勲先生のことを褒めていらしたけれどね。「姚宗勲先生は手から100万ボルトの電気が出るんだ」というようなことを、私たちによく自慢気に話したことを思い出しましたね(鹿志村英雄)

どこが凄いかといえば、姚兄弟子の動きはとにかく漏れがないし、打たれる確率が非常に少ない動きだよね。無理や無駄な動きもないから、ずっと動いていても疲れないんだ(鹿志村英雄)

初めて澤井先生に会った時に見せて頂いた拳舞(探手)には鳥肌が立ちました。それまでも色々な武術をやってきましたが、そのどれとも違う、初めて見るもの凄い動き。私もこんな動きが出来るようになりたいと強く思いました(竹田二男)

活法の打法と太氣拳の代表的な打拳の技である崩拳の原理には非常に似たものがあります。人体を水袋と考え、打撃によって波紋を起こし、衝撃波を浸透させる。このイメージが感覚として身に付いてからは拳の質が変わり、軽く打っても容易に相手に効かせる事が出来るようになりました。澤井先生もこれを”鼓打ち“と称してよく指導されていました(竹田二男)

竹田師範が明治神宮で稽古に明け暮れていた頃、壮絶な組手の中で指が折れ曲がったりするような怪我をする門下生が後を絶たなかった。しかし、そんな時でも澤井師範はすぐに接骨術を用いて弟子の怪我を治してみせたという(竹田二男)

『武術をやる者は光の原点にならなければならない』と澤井先生はよくおっしゃっていました。その言葉は今でも私の中に強く残っています。太陽のように誰にでも分け隔てなく光を与えられる存在、それが私の目指す真の武術家です(竹田二男)

姚承光先生談意拳基本功

1、養生樁は独特な点がある。養生樁は意拳の基礎樁法であり、精神假借と意念誘導を採用し、人体と大脳に非常に良い休息式の鍛錬をさせ、軽松、愉快な精神状態に入らせる。さらに神経筋肉の鍛錬を通じて、身体の新陳代謝と血液循環を促進し、腰の筋肉の損傷、関節炎などの慢性疾患に非常に良い効果がある。

2、技撃樁の練習は意拳において渾円力を獲得する重要な手段である。渾円力とは人体の前後、左右、上下などの周身が渾然一体となった四面八方の非常に細やかな勁力を指す。站樁時は精神假借、意念誘導に頼り、細心に体得し、全身の神経肌肉の高度な霊敏性を調動し、人体に特殊な鍛錬をさせる。初めて摸勁を学ぶ時、身体は大動きから徐々に小動きに移行し、最後には生生不已の動きに達する。この三つの過程の訓練は渾円力を得るための根本的な手段であり、常に意念誘導の下で訓練を行う。

3、站樁時に感覚が良くても、動き出した後はどうか? そのため試力、発力の練習が必要であり、試力、発力から一目で站樁の水準の高低が分かる。

4、站樁時、身体が発緊するのは、意念が自身に執着しすぎて、完全に放出されていないからである。意念を遠くに放大し、神は物外で遊んでこそ、力は自然に生じるのである。

5、技撃樁の時、身体の運動軌跡は:動(緊)——停(松)——動(緊)であり、途中に停頓があり、この停頓は蓄勁の過程である。この松緊の転換を体得できれば、摸勁の過程も明確になる。

6、站樁時の身体の動きは局部の動きではなく、脚で地を蹴り、腿が全身を催動する動きである。脚で地を蹴る力点は足の内側にある。

7、站樁の時間が長くなると、新しい意念を注がなければ、退屈感が生じやすい。

8、意拳の站樁において放松は要求の一つに過ぎないが、站樁時は無闇に放松してはならない。放松とは站樁中に自分の身体の平衡を保ち、自分の間架を支える力を持つことを指す。より重要なのは精神仮借、意念誘導を主とすることである。そうでなければ、空樁、死樁になってしまう。あなたは物(拳術の力量)を求めたいが、物(意念中の力量、意念中の阻力感を強めて力量を強める)がなければ、どうやって求めるのか? これは意念で神経肌肉を刺激して求めるしかない。

9、技撃樁で摸勁する時は、少しずつ探るだけでなく、纏綿、均整、飽満の力を探り出さなければならない。まるで周身が粘り気のある泥の中にいるようで、必ず慢、細、均でなければならない。功夫を積みたいなら、このような摸勁の訓練を経なければならない。

10、姚宗勲先生は、意拳の松緊転換時は上下のばねに相争の意があり、松緊転換時の周身の相争は上下が最も重要だと言っている。だから何をするにしても、上下相争の意が必要である。

11、基本功の訓練を重視しなければならず、拳の真髄を知るには、整体から探さなければならない。

12、直拳の発力練習時によく犯す間違いは、打ち出した拳を収める時に一度下沈し、頭を守れず、站樁時の間架を保てないことである。正しい打ち方は、打ち出した拳が平面直線状になり、下沈の動作はあるが、この下沈は身体の上下の起伏に伴って動き、常に站樁時の間架を保ち、同時に頭を守ることに注意し、両手にはばねを引き裂く感が必要である。

13、站樁時、周身はすべて微動し、自然から人為へと移行する。站樁時(特に平步樁を站つ時、両足を開き、両かかとを一直線上に置く)、ふくらはぎが軽く震えているのを感じ、次第に太もも、腰、腹、胸などの部位まで震えが広がり、そのまま発展させると、震えはますます大きくなり、全身が大きく震えるまでになり、かかとが時には上がり、時には地面を叩き、数十分震えても疲労を感じず、かえって軽快になる。この現象が現れて十日後、健身樁中の扶按法で水中に直立していると想定し、両手の下で板を支え、手で板を押す(=按)と、身体に浮き上がる意があるように感じたら、押すのをやめる。そうすると身体に下沈の感覚があるので、再び押す。浮沈の感覚が完全に意念の支配下に置かれるまで練習し、比較的大きな震えを抑えることができるようになり、外見上は動いていないように見えるが、体内の肌肉は連続的に動いており、動きが小さいほど頻度が速くなる。これが先輩拳家の言う「大動は小動きに及ばず、小動は不動に及ばず、不動こそが生生不已の動きである」ということである。練習時は周身の肌肉に動かない部位や動きが遅い部位がないかを默察し、あれば意念誘導を用いることができ、しばらくすると動き出す。

14、試力時、意念で前膝と後胯を相争させることが非常に重要である。

15、站樁試力では、梢節と躯幹の連係に注意しなければならず、一つの整体に練り上げなければならない。しかし、整体だけを重視すると、梢節が放松してしまう。最終的に応用するのは梢節の作用である。だから梢節の作用は非常に重要である。そのため、梢節と躯幹を一つの整体に練り上げなければならない。

16、変歩発力の練習では、最初は三割の力で十分である。緩やかな找勁の中で、上身と下身の協調に注意する。一拳発するごとに、下の歩法がついていけるかどうか、後脚が勁を踏めるかどうか、これらの問題に十分注意しなければならない。同時に、変歩発拳は一方向だけに変歩するのではなく、前後に進退し、左右に迂回しなければならない。また、絶えず拳を発するだけでなく、両手で防守姿勢を取り、防守的な変歩訓練を行うこともでき、一方で防守しながら一方で攻撃し、仮想敵とさまざまな技法で格闘することもできる。緩やかな找勁の中で力量が協調していると感じたら、徐々に力量を増やし、頻度を上げ、技法の変化を強化する。

17、サンドバッグを打つ時は大無畏の精神が必要であり、どんな目標でも、この一拳で打ち抜き(=穿)、打ち破る(=透)
ことができ、拳が届く所はすべて灰飛煙滅すると考えなければならない。このようにすれば自分の精神を十分に発揮させ、自分の真実感を養うことができる。これは穿透力を練習する上で非常に重要である。

18、人に発する時は掌根を相手の胸に当て、相手が後退する距離を増やすことができる。放人時の発力は上托、擠合、向前の必要がある。上托は相手の重心を崩すためであり、擠合は自分の力を一点に集中させるためであり、向前は放つ距離を増やすためである。放人する時は両掌を前に伸ばし、遠くに放ち、自分の足の先を超えなければならない。同時に臀部を下に落とし、後ろ脚のかかとを下に踏み込んで前に蹴り、上身は前に倒れ、胯と45度の角度を成す。頭は前上方に突き上げる感覚が必要であり、すなわち胯を軸として、上身と頭部が力を込めて前に突き上げ、腕を突き上げ、掌で六面の合力で目標を突き上げる。力量は脆、猛、迅速でなければならない。

19、功夫を高めたいなら、試力は非常に重要である。站樁と試力の時間配分を半々にすれば、功夫は非常に速く上達するだろう。試力は慢から快まで、快慢を組み合わせて、推手の変化のリズムに適応させる必要がある。

20、精神激発は意念による絶え間ない調整が必要である。なぜなら、意念の訓練も疲労を生じさせるからである。すなわち神経系の疲労である。意念を運用して絶えず調節してこそ、ある程度疲労を緩和することができる。どのように意念を運用して調節するのか。すなわち、意念刺激——精神激発——神経疲労——意念調整放松——意念刺激——精神再激発——神経再疲労——意念再調整放松である。このように絶え間なく循環を繰り返すことで、神経系を絶えず発揮し調整し、自身の潜在能力を開発することができる。

21.姚老師は站樁時に誰かが突然あなたの間架を叩いたら、あなたの功力の大小を試そうとしていると言っていた。彼があなたの間架を叩く時、あなたは必ず意識的に力を用いて支え(=頂)なければならない。摸勁時の松緊転換のようにである。決して放松して人に叩かせてはいけない。もしあなたが放松して人に叩かせれば、たとえあなたの功力がどんなに大きくても、必ず崩れてしまうだろう。意拳の動作意念はすべて意識的に探し、行わなければならないことを知るべきである。我々がこのような意識の中で常に訓練すれば、徐々に無意識の本能反応が形成されるだろう。つまり、意拳の訓練はすべて有意識から無意識へ、有力から無力へと進むのである。「無力」とは力を使わないということではなく、力量を無限に変化させ、人に捉えられず、見抜かれないようにすることである。意拳の站樁は、立つことを学び、功力がついたら、力を入れずに、あるいは無意識に相手の叩きに抵抗できるというものではない。このような理解は誤りである。力量は物体間の相互作用であり、站樁時に人が力を込めてあなたの間架を叩けば、あなたは意識的に支えてこそ、初めて有効な抵抗力を形成することができる。そうでなければ逆効果である。だから、何の防備もない状況で、相手が突然叩いてきた時、たとえあなたの功力がどんなに大きくても、耐えることは難しい。だから最初の練習時はすべて注意力を集中した状況で、意識的に相手の撃に抵抗すること、これが入門の正規である。

22.意拳の発力練習では、動作は大から小へと進まなければならない。大は力量の流通のためであり、小は力量が流通した後の冷、脆、快のためであり、力量の打撃時間を減らし、打撃速度を高めるためである。

23.旋法で発力する時は、下向きに、身体の側面に向かって発力し、相手を自分の側前方に旋回させ、前方への発力を利用して相手を放り出さなければならない。

24.意拳の意念は異なる段階で異なる内容を持つ。功夫を高めたいなら、意拳練習の異なる段階で意念の要求が異なる。初級の意念は定式の枠組みがあり、中級の意念は変化があるが、まだ一定の規則に従わなければならず、高級の意念は随機随勢で、無所不為である。

25.意拳の練習過程は、站樁、試力、歩行(摩擦歩、歩法の基本功)、推手、発力(固定姿勢および歩位)から始め、徐々に不固定姿勢、不定位の随意発力へと進む。

26.站樁は静止状態で「勁」を体得し、さらに意念誘導を用いて「勁」を探る。「整」は拳術の伝統的な術語で、周身の意力のことであり、平衡を保つ状態で、站樁鍛錬の初期には両手に重さ、膨張感、熱感などを感じ、さらに前伸、後拉、上抬、下压、外分、内合などの動作をすると、ある種の阻力を感じ、動きたくても動けない感覚がある(本当に動けないわけではない)。最初は両手に、徐々に周身にこの感覚が現れる(軽微から明確まで)。これがいわゆる「整」である。站樁の初期鍛錬では「意を用いて力を用いず」、放松に注意し、「松であっても怠けておらず、緊であっても硬直しない」状態を実現しなければならない。つまり「松緊が協調している」のである。試力は站樁で「勁」(身体外の阻力)を感じるが、少し動くとすぐに阻力が失われるので、試力の中で再び「それ」を感じ取らなければならない。動作は意念誘導(歩を動かさない)によるものでなければならず、要決は精神を集中し、意念を真にし、小さく、ゆっくりと、途切れることなく行うことである。阻力を感じたら、動作は小から大へ、慢から快へと進める。原則は「意を用いて力を用いない」ことである。要するに内在する勁、すなわち阻力感がなければならない。歩行(すなわち摩擦歩)は脚と腿の試力であり、阻力感があれば、手の試力と組み合わせて行う。規則的な前進後退から自由な身手歩法の変化へと進み、全身試力の段階に入る。原則は「一つ動けば全てが動く」、「一か所を牽けば全身が動く」であり、常に「整と不整の間」にいなければならない。

27.意拳でいう「発力」とは爆発力の略称で、日頃鍛錬した整勁を極めて短時間で猛烈に放出することが要求される。原則は「一触即発、一発即止」である。

28.站樁は基本の中の基本であり、站樁鍛錬の中で、絶えず要求を高め(姿勢と意念)、試力、推手、発力鍛錬の中で、自身に力量の弱さ、反応の遅さや空白があることを発見し、再び站樁の中で意念活動の誘導によって探索し、内在力を強化する。静から動へ、動から静に戻り、繰り返し相互に参照し合い、互いに助け合いながら練習を続けていけば、その境地は無限である。

29.歩行練習の中で試力を加え、意念を遠くに放大し、前後、左右、上下のすべてに阻力を持たせる。意念は軽くも重くもでき、身体各部と外界はすべて連結できる。ゆっくりと動きながら細かく体得し、快速の中でも慢中の力があるかどうか、手に試力の控制感覚があるかどうか、歩法が速く移動する時に摩擦歩中の力があるかどうかを体得する。この時、自分の頭部が虚霊挺抜しているかどうか、胸部に吞吐蓄の力があるかどうか、腰膝部に意念中の争力感があるかどうかに注意する。

30.站樁で阻力を感じた後、歩行と試力の練習を増やすことができる。歩行試力で阻力感があれば、推手練習ができる。試力練習ですべて明確な阻力感があれば、発力練習ができる。定位から不定位へ、さらに随意発力へと進み、(想定と実際の対手と)、さらに実際に、打撃と発力の両方を使う。水準が低い時は、怪我を避けるために、攻撃部位を制限したり、防護具を使ったりすることもできる。

31.意拳でいう争力とは、意念の誘導によって全身の上下、前後左右が互いに牽引し合い、一点に共に争い、ばねのように互いに呼応する意中の力を生み出すことである。この争力を備えた後、さらに試力、発力などの段階的な練習を経て、初めて争力を発揮することができる。

32.争力の練習は、まず簡単な争力から始め、その後全身の整体的な争力を求める。簡単な争力であれ整体的な争力であれ、まず渾円樁法の中で探求しなければならない。

33.争力の練習法は、まず渾円樁の一、二、三のいずれかの式で立ち、前腕の手首(曲がる部分)に弾性のある縄が付いていると想像する。縄の前端は前方のある物体、例えば壁や木などに結び付け、縄の後端は自分の首の後ろ、風府穴の下あたりに結び付ける。練習時は意識的に首を少し突き出し、微かにねじる(左腕が前にある場合は左側に微かにねじり、右腕が前にある場合は右にねじる)。全身を後ろに倒し、弾力のある縄を引っ張って手首を引っ張り、手首はさらに前方の縄を引っ張る。前後の力が対称的に相殺し、手は動かないが、少し引っ張るとすぐに離れる力を感じることができる。後ろの手はまるで弾力のある球を抱えているようで、身体が前の手を引っ張る時(重点は首の後ろ)、後ろの手は意識的に球を抱き、前の手に呼応する。繰り返し練習すると、やがて松緊のある争力を体得できる。これがいわゆる「松は即ち緊であり、緊は即ち松」であり、松緊を互いに用いる意中の力である。これは王薌齋先生の言う「松緊緊松過ぎたるなかれ」の意味である。

34.整体的な争力の練習法は、絶え間ない練習を経て、争力を得た後、この基礎の上に、さらに整体的な争力を練習することができる。練習方法は、渾円樁法で立った後、頭上に弾力のある縄が繋がっていて、両足の中心点と上下に争っていると想像する。同時に、頭と後脚が上下に争い、さらに前足と斜めの角度を成し、前後と後手が左右に争い、左手と右足が斜めに争い、両肘と両膝が上下及び斜めに争い、前手と後手が左右に争い、右手と左脚、左手と右脚が斜めに争い、両肘と両膝が上下及び斜めに争い、左肩と右膝、右肩と左膝が斜めに争う。手と足、肩と肩の上下の争力は、頭と足の争いに含まれる。要するに、四面八方が一点に共に争うのだが、「松緊の中枢は上下にある」ことに注意しなければならない。練習時は形曲力直で、まるで八面から鋒が出ているようであり、さらに周身の毛穴がすべて膨らんで外界と互いに連結し、互いに牽引し合い、身体は転じないが、どこでも微動できる意を持つ必要がある。意は必ず切実でなければならないが、執着してはいけない。これが王薌齋先生の言う「上を支え、力は空霊で、身体は縄で吊るされているよう」、「力松意緊で、毛髪は戟のよう」の意である。

35.基本歩法の訓練は、ゆっくりと均一な速度で行い、目的は阻力を探ることである。阻力を感じたら(前進と後退)、意念で重さを加え、阻力を強め、さらに変化させて阻力を強める。軽重はいつでも変化させることができ、目的は摸索した力が力強くかつ霊活多変であることである。

36.阻力を摸索するのは技撃樁の方が明確で、簡単で、効果が出やすいが、健身樁でも同様に阻力を摸索している。例えば、健身樁の中で言う「揺法」、「旋法」は阻力を求めるものだが、細やかで軽快な、さらに高度な練習法である。

37.上下の争力は、前脚と首、後脚と頭頂が重点である。身体の各部分はすべて参加しなければならず、その重点は「肩は担ぐように、手は籠を提げるように」(意念)である。挺抜は上下の争力だが、非常に軽微であることが要求される。

38.前に発力する時は、まず力を後ろに向ける。つまり、身体を弓に見立て、上下の争力によって強い弦を形成し、身体の力を後ろに当てると、自然に前に跳ね返る。上下の争力のばねが強いほど、発する力量は大きくなる。上下の争力で主要なばねを作り、さらに意念でいくつかのばね(上下、前後、左右)を想定し、内と外が争い、内と内が争い、「争わないところがない」状態に達するのである。

39.(1)争力は形に表さないようにする。争力のばねには大小がある。練習時には、自分が木を引っ張っているように想像したり、木が少し動くとあちこち動くように想像したりする。さらに自分が巨人のように周囲のすべてに影響を与えるように想像する。(2)試力の動作は遅くする。身体が手を動かすのであって、手が身体を動かすのではない。

40.意拳の「整勁」とは、身体が調動した力をできるだけ全面的に調動することである。一人一人の鍛錬は異なり、どの部分をどの程度発揮できるかは異なる。発力の脚で地を蹴る問題については、形意拳論ではすでに「消息は全ては後脚の蹴りに頼る」と言っている。これは作用力と反作用力のことである。

41.発力の練習は、1)固定姿勢での発力。2)試力の練習と同じように動作の状態で、突然発力する。上記の手で摸索した内在する阻力感と重量感を、突然振り出す。そのため、発力前の手には一部の力があり、大体3、4割の力で十分である。3)発力時は周身をできるだけ放松させ、突然敵が襲ってきたと想像し、それに応じて突然発する。発力の共通の要点は、一触即発、一発即止である。

42.綿球を打つ練習の目的は、1)手の的確さ 2)全身動作の協調 3)発力の火加減(時間)、つまり拳や掌が目標に接触した時、拳と周身が突然緊張する力の掌握、一触即発である。要するに綿球を打つ時は、前進後退、回避しながら打ち、綿球を遠くに飛ばさないようにする。できれば微かに動くくらいが良く、意図的に少し遠くに打つこともできる。追撃と退却の練習ができるようにするためである。足は自然に多様に動かし、滞ったり、霊を失ってはならない。拳が到り、脚が到り、身体が到り、力が到達する。これが先人の言う「一つが到れば全てが到る」ということである。

43.争力の練習では、初めは意を用いて力を用いず、ある程度形に出すことができる。内在する力の感覚があれば良い。さらに意が到達し力が到達するようにし、争力を徐々に強め、牽引しても動かず、推しても出ない境地に達する。松緊の転換の過程は、少しゆっくりでも良いし、比較的短時間でも良い。要するに、いわゆる「松緊緊松過ぎたるなかれ。実虚虚実は互根である」ということである。

44.王薌齋先生はかつて「松緊の中枢は上下にある」と言った。具体的な練習法は、站樁時に首の後ろ(耳の下あたり)に前足の先まで斜めに伸びるばねがあると想定し、頂心は上を指し、首は同時に微かに後ろにもたれる。この勁を摸索した後、さらに頂心から後脚のかかとまで直接つながるばねがあると想像し、頂心は上を指し、後脚は下に蹴る。いずれも意を用いて求める。動作中の練習法は、摩擦歩の練習時に、前脚の先が地に着き、頭はすぐに上後方に脚先と争う。前進も後退も同様である。力量を掌握した後、さらに脚先が地に着いた後、頂点と脚が争い、一争したらすぐに止める練習をする。その後、任意の直立歩法の中で求めることができる。これは意拳の「発力」の最も基本的な練習法であり、つまり「消息は全ては後脚の蹴りに頼る」ということである。

45.意拳である程度の基礎ができた後、発展の観点から見て、さらに進歩するためには、まず技撃樁から探求する必要がある。前後、左右、上下の六面の力の基礎ができたら、この基礎の上で摸勁の順序を乱す必要がある。例えば、前推すると突然上抱し、上抱した後、左右に分け、左右に分けた後、下に落とし(=栽)、力を下に落とした後、上に回抱し、回抱した後、合力を行う。摸勁時の意念は真でなければならない。力は少しあれば良く、摸勁時の動作は遅くしなければならないが、力は小さく動かし、「意」「力」の感覚が一致していることを体得しなければならない。

また、站樁時の放松に常に注意を払う必要がある。松と緊のどちらも行き過ぎてはいけない。緊が過ぎれば力は鈍くなり、反応は機敏でなくなり、発力は脆でなくなり、人はすぐに疲れてしまうため、身体の鼓蕩力を摸索できなくなる。いわゆる鼓蕩力とは、実際には站樁時の内在する勁の松緊の相互転換によって、身体の内部に生じる極めて小さな震えのことである。それは身体の反応を機敏にし、打撃時の力を猛烈で連続的なものにし、排山倒海、大海の波濤の勢いを生み出すことができる。身体の中には常に鼓蕩と吞吐があり、これは意拳訓練の奥深い段階である。ある程度の基礎ができたら、この方向に向かって探求しなければならない。

この問題は現在多くの意拳練習者が追求しているが、正しい指導と繰り返しの探求がなければ、決して登堂入室の境地には達しない。例えば、左右上下の試力の中でも注意しなければならないのは、下に押す時は非常に浮力の大きい球を押す意念を持ち、球を持ち上げる時は非常に重い意念を持つ。大きな球を左右に回す時は、身体、両腿の間、上身、両手、胸部がすべて球と接触していることを体得しなければならない。ゆっくりと、非常に大きな阻力感を感じなければならない。前進、後退、左右、上下の試力に関わらず、身体が物体と連結していることを体得しなければならない。一か所が動けば全体が引っぱられる。これらの要求から見ると、それはそれぞれの基本功訓練と関連している。

いわゆる推手とは、站樁の六面力をそれぞれの試力の探求を通じて、ゆっくりと始め、その後推手の中で阻力と速度を高め、自分が六面力を随機随勢に発揮できるようにすることである。推手の中で随時自分が発力が的確かどうか、動く中で自分が非常に平衡を保っているかどうか、相手と推手する時に自分の速い動きと遅い動きで整体を牽引して相手を動かせるかどうか、非常に機敏に六面力で高速に鼓動吞吐できるかどうかを確認する。相手を盲人のようにし、あなたと拙力で抗衡できないようにする。このようにすれば、あなたは力を省き、巧みに使い、あなたの長所で相手の弱点を攻撃する。相手の力がどんなに大きくても、彼が平衡を失った時、あなたと強点で衝突することはできず、必ずあなたが一度発力を出せば彼は投げ出されるだろう。

46.サンドバッグで力の補助練習をすることも必要だが、サンドバッグは硬すぎてはいけない。手が力を込めて硬いものに接触すると震えて痛むからである。接触する前に無意識のうちに力を入れなければならなくなり、これが身体の放松に影響し、さらに発力の速度と力量に影響する。そのため、サンドバッグはある程度の弾力性が必要であり、打つ動作(つまり発力)では発力の要求と姿勢に注意しなければならない。サンドバッグを死物と見なすことは最も忌むべきことであり、強力な対手だと想像しなければならない。攻撃は攻撃として、退却も攻撃として、前進、後退、左、右を実際に行わなければならない。

47.二人の簡単な基本的な対練方法:甲は両手首を乙の手首の上に載せ、甲は比較的小さな力(しかし素早く)で乙の両手を突然下に押し下げ、つまり乙の胸より上の部分に向かって指し示す(ただし相手の身体に接触してはいけない)。乙は素早く反応し、甲の動作に密着して追随しなければならない(つまり両者が接触する点に密着して追随する)。熟練した後、相手の両腕を少し左右に分け、つまり前方に指し示すことができる。また、片手を分け、片手を前に指し示し、片手を下に押し下げ、片手を前に指し示すこともでき、自由に変化させることができる。両手を上下に交互に練習し、熟練した後、練習中に発力練習を試みることができる。片腕でも上述の練習ができる。

48.杆子と剣の練習について、拳術はかなりのレベルに達した後、器械の練習をしなければならない。意拳の器械においても、拳の「勁」を器械の上で発揮することが要求され、また「一触即発、一発即止」が要求される。拳術に相応の基礎がなければ、器械を上手に学ぶことは難しい。なぜなら両者は通じているからである。

49.身体の周りに阻力を感じることは、争力を摸索する初歩である。

50.仕事が忙しく、時間が少ない条件下では、站樁以外に、試力、歩行などを細分化して練習することができる。短い数分間を利用して集中的に練習することができるが、精神を集中させなければならず、緊張してはいけない。時には有意、時には無意に行うこともでき、精神にとっては積極的な休息であり、拳術にとっては随時練習していることになる。時間が経てば、その効果は自ずと現れる。少なくとも体験が深まるだろう。これは過去の王薌齋先生が言った「練る時はなく、練らない時はない」、「忘れるなかれ、助長するなかれ」という細やかな練習法である。

51.阻力の要求は、初めは軽いが、次第に重くなることである。そのため、想像する対象も次第に重くなる。初めは両手が非常に軽い球を押しているようだが、後には非常に重い球を推して動かせないような感じになる。

52.「小腹常円」とは、動作時にも心窩を微かに収め、小腹を緩んで円くし、気を上に提げたり下に押し下げたりせず、自然を維持することを指す。外形から言えば、小腹の位置は動作の中で中正の位置、つまり重心の位置を保つことである。発力時は発力の瞬間に気を小腹に貫く必要があり、以前に述べた「試声」の方法は、この時に応用されるのである。

53.争力は初めて練習する時、まず身体各部の争力を確立しなければならない。例えば、後頸と前脚、後胯と前膝、前手と後頸、前手と後手、および身体の外に争力を確立し、前手と前膝を身体前方数尺から十数尺の一点と争力を確立する。練習時、後頸を上に引き上げ、上身の重心を後腿に微かに座らせ、後胯は固定した前膝と争力を引き起こし、後頸が上に引き上げられる時、後頸と前脚の争力も至り、後胯が後ろに引っ張られて後手を引き起こし、後手と前手の争力を引き起こす。争力の動作全体はゆっくりとしなければならない(初心者はゆっくりと、掌握した後は速くなり、さらにその後は松は即ち緊であり、緊は即ち松となる)。両手の肌肉は弛緩し、身体の重心が後ろに移動することで少しずつ緊となるが、ただ少し緊になるだけで、非常に緊張するのではない。身体の重心が最後点まで移動した後、ゆっくりと前に移動し始め、肌肉も自然にゆっくりと放松する。前に移動する時、頭と後脚に上下の争力があり、重心の前後移動の距離は小さければ小さいほど良く、できれば外形から全く見えないのが最も良い。

54.站樁練習時、内に抱える力は外に支える(=撑)力より大きくなければならず、おおよそ7対3の比率である。つまり、撑と抱を互いに用い、力を蓄えて発する準備をし、発しようとしているが未だ発していない状態にある。時には全て内にあり、時には全て外にある。

55.「松緊」はあらゆる体育運動の核心的な問題であり、社会の事物においても同様である。いつ松で、いつ緊となるか。どの程度松で、どの程度緊であるか。その時々の具体的な状況を見て変化させる必要がある。いわゆる「文武の道は、一張一弛」である。張と弛はつまり松緊である。意拳では明確に「松であっても怠けず、緊であっても硬直しない」と提起されている。「緊」とは力があることだが、過度ではない。「硬直」とは過度で動きが不自由になることである。阻力感があれば、阻力の強弱は意念で想像して生じるものである。「松」の状況で練習し、「松」と「緊」の中で練習し、「緊」の状況でも練習し、松緊が繰り返し変化する中で探求する。まるで松に似て松に非ずの境地に達し、松中に緊があり、緊中に松があり、全て意念の支配下にある。