意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

站樁、試力与断手運動練法之原理(『意拳拳学』より)

意拳の站樁は利己利人の鍛錬方法であり、先ず己の身を得て、要領を掌握し、一定の基礎を得た後に他人を指導する。これは仏家の衆生を済度する道理と同じである。意拳の站樁は三つの段階に分けられる。第一段階は養生段階であり、休養生息、自己医療、強身健体の基礎の段階である。第二段階は得意段階であり、即ち伸筋抜骨の訓練と体認の段階である。この段階の訓練を経た後、拳術に必要な各種の力を体認でき、即ち正しい伸筋抜骨の訓練方法の指導の下で真の意動力動の感覚を見出すことができる。第三段階は意念の発放、吞吐の段階である。第三段階においては、口伝身授でなければならず、書面表現の限界により、ここでは多言を控える。

意拳站樁の第二段階の訓練は技撃を練習目的とする学者にとって極めて重要な段階であるが、実際の訓練方法は複雑ではない。本文は主に渾円樁法及び関連する試力を例として、自己の体認と結び付け、第二段階訓練の方法、訣及び断手訓練の原理を略述し、意拳を習練する際に要領を掌握し、意拳の正道に入ることができるようにすることを主な目的とする。

まず間架構造は正しくなければならず、その要領は三夾二頂、肩撑肘横である。三夾二頂の含意については、これまでの意拳文章で詳しく紹介されているため、ここでは再述しない。肩肘横については、これまでの文章でも紹介されているが、いずれも切実に明示されていない。実際に間架を正しくするためには、肩肘の拳学の要義を真に理解しなければならない。私は幼少より舅の王国強先生に学び、また李志良、姚宗勋先生等多くの前輩の指導を受け、さらに韩嗣煌先生との同院の誼を得て、その理論の神髄を得て、後に王玉芳老師の多年の精力的指導の下で肩撑肘、手腕の真義を徐々に体会するに至った。

肩撑の要領は肘にあり、肘は「指」の意を持たねばならず、即ち双肘は他人が外へ引く(=拉)ような感覚で、肘尖は斜め外を指す。肘撑の要領は手にあり、手は「指」の意を持ち、両手は自然に分かれ、食指相対を基準とし、指は相対する。ここでの指はすべて意念運動であり、絶対化してはならない。三夾二頂、肩撑肘横の要領を行った後、身体のその他の部位は考える必要がなく、全身は自然に放松する。放松の正しい体認は「墜」感を持つべきで、下端に鉛球を吊るした紐のように、自然に下垂し、地面に松であるように見えて、実は地下に墜ちており、身体は自然に虚頂挺抜となる。

指、肘指を通じて、身体を自然に相争させ、身体の牽引感覚を徐々に体会し、伸筋抜骨の趣意を見出していく。一定期間の訓練を経た後、站樁時に身体の両側、肘の両側が自然呼吸に従って動くような感覚を感じることができ、この時両脇は自然に開き、臓腑の自然呼吸を通じて、胸膈膜の昇降は舒展有序となり、人体は自然な状態で気血が加圧され、内循環が加速し、身体の内外が相連なる。

さらなる練習により、一呼一吸の中で指、拉、撑、抱の手部各種の力を切実に感じ、前後、上下、左右の阻力感を体認することができる。さらに鍛錬を進めると、一呼一吸の中で梢節の松緊から全身の松緊の趣意を感じることができる。樁功の鍛錬でこれらの切実な体認を得た後、試力の鍛錬を行えば、事半功倍の効果がある。

試力の練習において、慢は快に勝る。慢とは試力の練習の中で站樁の感覚を見出し、站樁から得た整体の力が運動によって失われないかを見ることである。具体的な方法は、假借の方法を用いて、站樁から得た意を外界の物質と「沟通」させ、整体感を形成することである。王薌齋先生の言う「まず自身に具え、反って身外に求む」である。身体は動くようで動かず、意念は動転する方法によって、行こうとしてとすれば行かざるを得ず、止まろうとして止まらざるを得ないを体会して、行と止の間で味わい、動静の体認、動静の転換を行う。一定期間の訓練を経て、意感は疎から密へ、また密から疎へと至り、反復訓練すれば必ず得る所がある。

站樁、試力と断手運動練法の原理意拳において、試力時にも肩肘、手腕、上下の体認を行うべきであり、久しければ整体如鋳の感を得ることができる。試力時には、「意」という訓練手段を充分に運用して自身の本能を調動させ、それを徐々に大脳が受け入れ、身体が受け入れるようにする。意拳の訓練は老師の口伝身授により、学生に要領を理解させるが、これは真の掌握とは異なり、自ら着実に工夫を重ねてこそ、実学実知を得ることができ、意の空想から実践の真の功夫へと転化させることができる。

体認には三つの要点があり、それは内省、外観、検験である。この三者は一つも欠くことはできない。内省は自己観察、外観は他人による己の観察であり、内省の補充となる。検験は練功で得たものを実際に検証することである。

以下に意拳試力訓練における推拉試力を例として、上述の試力要領を詳しく紹介する。まず樁態(丁八歩)で立ち、站樁中の各種体認を得た後、徐々に両手を伸ばし、両手は形曲意直とし、体形が変わらない状況で、両手と前脚、前膝が出去できるかを体認する。「認」は意拳の術語で、出去の意念を指し、外在の物体の中に挿入するようなものである。真に認の感覚を得たかどうかは、検験することができ、他人がその伸ばした両手を上から叩き、下から支え、左右に揺らしても、その認の意念を動揺させることができなければ、得るところがあったと言える。その後、伸ばした両手をゆっくりと引き戻すが、引き戻す際は両手、膝、足になお前方を指す意があるかに注意し、なければ再びやり直し、繰り返し味わい、本能となるようにする。

次の段階では活步練習を行うべきである。活步は摩擦歩と結合して練習することができる。鍛錬時は周身均整で、失わず捨てず、左右両手を伸張する時、左手は右に奔らず、右手は左手に奔らず、平面を許さず、処処に斜面の意あり、曲がらない処はなく、手指腕を捻り、八方遇阻を体認し、また齊動の奥妙を可とし、掌を変じて拳となし、麻花を捻るようである。指間より拳曲処を指とし、各指力は嬰児の物を持つようであり、緊捏密持松緊の意念がある。肘臂は円活にして、手足相応し、肘部横撑の意を失わず、双肘は車輪の転動のように、進退相合する。歩法の変換時には、両腕が力を得ているかを体認し、立を得ないようで、肩は必ずしも松円ではない。肩松にして力は梢節に至ることを得て、呼吸を通じて一松一緊となるようにする。四腕は弾力が有るべ気で、全ての筋絡は開展する。腰胯は車輪のようで、左右に揺摆し、頭は頂であり、歯は合わせ、足根は力を蓄え、ばねの崩力があるようである。双手の単双は互換し、左右に輪換する。上述の要点を為して始めて試力入門と称するのである。

試力の基礎を得た後は老師の伝身授の下で断手訓練を行うことができる。意拳断手は一手看一手、一脚看一脚、横打縦衝を説く。剛柔相済を講じ、時に左剛にして右柔、時に右剛にして左柔、時に剛時に柔、柔退して剛進する。光線が茫茫するを方と為し、提抱含蓄中に生気を藏すを之を円と言う。出手時は、提頓撑抱兜坠鑽裹を用い、順力逆行し、方を以て円を為し、落手時は含蓄纏綿滔滔不絶を用い、円を以て方を為すを手法とする。

断手を練習する時は、自己の出手の作用点に注意すべきである。意拳断手は実を以て実を撃つことを講究し、これは一般の拳術とは異なる。実は手足であり、その手足を観て、日常の握手の原理を運用し、その出手を誘引するが、手引の方法は必ず老師の口伝身授を経てこそ明らかとなる。その手を截りてその人を撃つは、推手を通じて対方を制御した後に打撃する原理と同じである。敵に遇うての断手の要は虚実互用にあり、両足は前三後七であるが、暗に四六、二五歩を含む。両足運動は横走縦衝を原理とし、双手は霊活に運用し、執著すべきでなく、双手は永く定用が無く、大活焼身の感のようである。

厳格に意拳の幾つかの訓練段階に従って訓練を行い、実践を経て、老師の指導の下で徐々に自己の断手の風格を形成する。文章の篇幅の制限により、断手のその他の注意事項、練習方法、八法の運用等は以後改めて文を撰りて詳述する。以上述べたことは、私の練拳の体験であり、不適切な処があれば、意拳同人の指正を請う。

刘涛・李全有整理『意拳拳学』北京体育大学出版社より

別来幾春未還家(『逝去的武林』より)

李仲軒老人は生涯で弟子を取らなかったが、晩年幸いにも『武魂』に言論の場を与えられた。李老の子女の回想によると、1984年、李老は中国科学院の家族院で門番をしていた。一人の中国科学院の同志が李老のために本を出そうとしたが、李老は謝絶した。

また、この中科院の同志の紹介で、ある拳術名家の娘が李老を訪ねて来て、最終的に中科院の同志の付き添いの下、「形意同門同輩」の身分として、北京八角南街八号楼で李老と面会した。

彼女は李老に自分の所属する武術協会への参加を誘い、山を下りて拳を教えることを勧めたが、李老は婉曲に断り、「過去のことは、もう話したくない」と言った。その中科院の同志は今も健在である。

1988年、李老のある師匠の子女が北京に李老を探しに来たが、李老は何らかの理由で会わなかった。唐維禄の弟子である褚広発は死去する前、人を託して北京で李老を探したが、住所が間違っていたため見つからなかった。

李老は言う、唐維禄は北京南河沿地区で名声があり、当時崇拝者が多かったが、彼は南河沿の人々とは交際していなかった。唐維禄は言った、「誰が自分は何かができると言えるのか、形意拳なら、私はできない」と。李老はこれを座右の銘とし、練武において、適当で止めることはないと言った。

筆者は李老の祖師である劉奇蘭が「龍形搜骨」で知られていたと聞き、「龍形搜骨」とは何かと尋ねた。李老は言う、「龍形搜骨」は龍形ではなく、劈拳の中の前足を外に開く大跨歩のことである。この歩法は開天闢地、三盤を打通し、百骸を調理し、身体を成就する要である。歩法があれば功夫があり、歩法がなければ功夫もない、この歩法こそが内功である。

李老はまた言う、形意拳には龍形歩はなく、龍形も蛇形歩である。彼は「龍形歩」を見たことがあり、前脚が地を移動する時に伸展する。李老は言う、形意の脚法は一伸即縮で、小脚を伸ばす姿を見せることはなく、前脚はやはり蛇形のように籠めて収めなければならない。

足を開くだけで脚を伸ばさず、開脚の打法は敵の足を制するものだが、これも擒拿時の余裕のある場合にのみ使用する。状況が緊急で一拳が生死を分ける時は、用いることはできない。前足を開く大跨歩は、主に練法である。

唐維禄は歩法で功夫を出した。李老は言う、唐師は歩く時、歩毎に同じ長さで、定規で測るより正確であった。左歩と右歩が同じで、一歩一歩が同じであり、これは身体が高度に協調していることを示している。両足を見出せば功夫も見出せる、散歩の時に練習するのはこれである。

前足を外に開く大跨歩は形意の大歩であり、もう一つ小歩があり、それが崩拳歩である。崩拳歩は微妙で、歩は前方へのみで、両膝は挟んでいるが、足の付け根に活きた動勢があり、少し調整すれば、いつでも随意に方向を変え、勁を転換できる。そのため崩拳は微妙である。

李老は言う、「唐師は私を気に入り、私は唐師のものを容易に得た。しかし、師父のものを得るのは容易でも、自分のものを持つのは難しい。」彼らのこの一派は岳飛をあまり重視せず、主に達摩を拝した。おそらく達摩は禅宗の祖師で、悟性を代表するためだろう。

薛顛の象形術を整理する時、筆者は「象形」の意味を尋ねた。李老が言うところには、後ろにまだ二字があり、全体は「象形取意」である。形意拳のこの一脈の功夫は形質上のものだけでなく、神気上のものもある。

象形取意——この四字は極めて貴重である。漢字はこのように発明され、琴棋書画もすべてこれを行う。この道理を理解すれば、山川江河、日月星辰すべてを拳に入れることができ、象形術は特に鳥獣を取り入れることができる。

筆者は当時これを大言壮語と感じたが、李老は笑って、象形取意は真実だと言った。人は拳を練習し始めた時、本能的に「窩」を探し、自分の好む場所で練習すると。好む場所では、練習に気が入る。以後、好む場所で練習し、この好みこそが象形取意であり、人の無意識の行為である。

形意の古い作法では、練習を始めた時、昼夜を問わず、必ず東方に向かって練習する、これは絶対の規定である。太陽が東方から昇り、東方は生機勃勃である——これも象形取意である。この規定通りに練習すれば、利を得て、理解できるようになる。

人は芝居に感動し、天地万物にも感動する、感動があれば功夫がある。一旦感動すれば、拳架の中身が異なってくる。その時、琴棋書画、山河の美景、禽獣の動態すべてを借りて入象することができる。練武の人が文化を学べば、文人以上に使いこなせ、すべて身に付けることができる。

唐詩も象形取意である。形意を練習し、詩興が湧くように感じれば、それで良い。

李老はさらに注意して言う、象形取意は曖昧模糊としていなければならず、画面を想像するのではない。画面を明確に想像しすぎると「上火」する。朧気に少し意味があれば、筆を執れば良い詩が生まれる。この少しの意味の動力は大きい。その時、肌膚は爽快となり、熱湯での入浴より気持ちよく、体内で「シュー」という音がして、熱気と涼気が打ち合い、上伸下縮し、こめかみが膨らむ。

その後、突然人は口を開けられなくなり、息も吸えなくなり、歯は強く噛み合わさり、上から押し下から突き上げ、引き離すこともできない——この時良いことが起こり、五臓六腑、筋骨皮肉に変化が起こり、雷音がこの時に出る。

音声上も象形取意であり、後は雷音に従って境界を定め、目に見える湖光山色よりも妙なるものとなる。雷音はどこから発せられるか分からず、この時口は全く開かないため、雷音は練習できず、自然に生じるものである。

二十四法を校する時も、象形取意しなければならない。単に「発頂」を説くだけでは、身は機敏になるが、まだ足りないと感じる。師父が一言「凌雲の志あるべし」と言うと、たちまち異なり、適切となり、何かを得る。

劈拳を打つとき、架子が正しく、一収一放循環往復の動勢に少し意味が出てきた。師父が一言「雷音は轟轟のようである」と言うと、功夫は直ちに適切となる。そのため二十四法は玩味する必要があり、無趣を有趣に変えねばならず、これが形意の練法である。象形術を自修する時は、特に自分の身体に物を補うことを理解せねばならない。

李老は言う、時を審らかにし勢を測るのは人傑であり、彼は関羽を敬服する。「温酒斬華雄」の時、華雄は兵を収めた時、関羽は単騎で華雄の軍営に突入し、小兵たちは反応できず、ちょうど戦いが終わったところで、関羽が何をしに来たのか分からず、止めなかった。華雄はこの時既に馬から下りており、関羽は馬上から、一刀で彼を斬り殺し、混乱に乗じて敵営から逃れ出た。

武功だけでは損をする、頭脳が必要で、与太者の心計を知らねばならない。李老は若い頃天津で、夫人の丁志蘭と芝居を見に行った時に事があったと言う。丁家は屠夫だが、男女ともに美しかった。李老の兄は丁志涛に会ったことがあり、英俊で風格があり、重厚で礼節を重んじたと言う。

その夜、丁志蘭は与太者に狙われ、李老夫妻が黄包車に乗ると、彼らはなおも付いて来た。李老はそれに気付いて格闘の準備をしたが、後で思った、「何故格闘する必要があるのか?」彼は当時の警察の言葉を知っていたため、警察の隠語を数句叫んだ。一つの通りを曲がると、彼らは散っていった。

李老は言う、功夫が大きくても、時勢を審らかにできなければ、まだ功夫が足りないということである。功夫が本当に大きくなれば、時勢を審らかにする点で人より一枚上手となる。関羽張飛の実力がないわけではないが、この場この状況では、その必要がなかった。唐維禄は人に対して穏やかで実直だが、一旦動けば誰よりも機敏で、頭脳と眼力が人より一枚上手で、武を比べても苦労しなかった。

李老は言う、日本軍が京津を占領していた時期、唐維禄は京津両地を往来し、夜は提灯を手に持ち、関所を避けて野地を行き、時に殆ど一本の線のようになった。頻繁に通ったため、沿道で関所を設けた偽軍は遠くから見ただけで、唐師父が来たと分かり、彼らは発砲しなかった。

筆者は当時尋ねた、「もし発砲したら?」李老は言う、「発砲しても当たらない。以前発砲されたことがあるが、銃声が響くと、唐師父にはもう対処法があった」。

李老は続けて回想する。唐師は当時我々を連れて夜道を歩く時、いつも猫のように歩くように教えていた。音を立てず、人を驚かせないようにと。彼は言う、練武の者は功夫を練り出すだけでなく、鋭い眼と敏感な耳も練り出さねばならない。夜行の時は風を聴いて道を判断し、異なる風音で前方に人がいるかを判断できる。

唐師はまた一度、北京から寧河に戻った経験を話した。その時はちょうど大雪が降っており、彼は干し糧と水袋を背負い、一晩中歩き、夜明けに寧河に着いた。雪地には細長い足跡が一筋あるだけで、深い足跡はなかった。唐師は言う、「功夫を練るということは、雪中を行くように練らねばならない。非常に早く歩いても痕跡を残さない」。

李老が語る時、目は敬服の念で輝いていた。彼は言う、「唐師のこの脚功と軽身の功夫は、まさに前にも後にも比肩する者がない」。しかし彼は強調する、唐師は技芸が高超でありながら、常に低調を保ち、鋒芒を現さず、真の武林の高人であった。

李老は唐師の天津での事跡を思い出し、彼は長年津門を歩き、随従を連れずとも、誰も敢えて遮ることはなかったと言う。偽軍も土匪も唐師に対しては敬して遠ざけた。彼が単に拳脚の功夫に長けているだけでなく、さらに智慧と勇気を持って各種の局面に対応できることを知っていたからである。

ある時、唐師は人に計略で陥れられ、牢に入れられそうになった。李老は言う、「唐師はその時恐ろしいほど冷静で、力で争っても無駄だと悟り、策を用いて、彼を守衛していた者を説得し、最終的に脱することができた。」このことで李老はより深く理解した。武功は単に拳脚の功夫だけでなく、さらに智慧の体現である。

李老はまた、当年の唐維禄が最も好んだ兵器は双槍だったと言及した。李老は言う、双槍を良く練れば、近戦もでき、遠攻もできる。唐師は幾度も双槍の技法を示し、弟子たちを驚嘆させた。李老自身も銅製の双槍を一対練習し、唐師について多年学んだ。彼は笑って言う、「私がどれほど良く練習しても、唐師の火加減には及ばない。」

李老は最後に感慨深く言う、「唐師の一生は嵐のようであると言えるが、常に平常心を保っていた。彼が我々に教えたのは功夫だけでなく、さらに処世の道理である。練武は打ち合いのためではなく、身を修め性を養い、自己を高めるためである」。

筆者はこれらの往事を聞き終えて、武林の先輩たちは超凡の技芸だけでなく、さらに高尚な品徳を持っていたと深く感じた。彼らの身に伝わる精神は、形意拳の精髄だけでなく、さらに中国伝統文化における仁義、智慧と勇気の体現である。

李老は唐師の死について語り、神情は暗然となった。唐維禄は最期に病の中で静かに世を去り、誰も驚かさなかった。李老は言う、「唐師のこの一生は洒脱であり、彼は風のように来去し、名利に累されなかった。」唐師の死は一つの時代の終わりを象徴し、彼が残した武学の精神は、なお後人の心に長く存する。

これらの物語は私に深く感じさせた。真の武術は単に身を健やかにする技芸だけでなく、さらに一つの生活哲学であり智慧である。唐維禄、李仲軒、尚雲祥等の一生は、まさにこの精神の最良の解釈である。彼らは自らの生命を以て、形意拳の真諦を実践し、後人に無尽の啓示と思考を残した。

李仲軒口述、徐皓峰整理『逝去的武林』人民文学出版社より

伝授槍法(『我跟薌老学站樁:六十年站樁養生之体悟』より)

ある日、薌老は父(訳注:程志灝先生)を連れて崇文門外の河泊廠の羅耀希大夫の家に用事で行った。薌老は先ず父を羅大夫に紹介し、用事を済ませて帰ろうとした時、羅大夫は「お待ちください」と言った。彼は奥の部屋から白蝋杆を取り出し「志灝との初対面の記念に、この贈り物を」と言った。父は辞退したが、薌老はそれを受け取り、手の中で振って「なかなかよい。お前にあげるのだから、受け取りなさい」と言った。父は「私には使えません。要りません」と言った。薌老は「私が教えれば使えるようになる。受け取りなさい」と言った。父は羅大夫に感謝し、杆子を持って帰った。

家に帰ると、母が杆子を持って何をするのかと尋ねた。父は羅大夫が杆子をくれた経緯を説明した。

母は大夫の住所を確認し、翌日実家に戻って祖父に「羅大夫は志灝の師兄で、私たちの家の家屋に住んでいます」と伝えた。それ以来、祖父は大夫から家賃を取らなくなり、両家は友人となった。

父が渾元樁と走歩を練習した後のある日、薌老は「槍を練習させよう」と言い、父に槍法を伝授した。

槍法の練習は、まず上、下の勁を練習しなければならない。

薌老は父にまず渾元樁を正しく立たせ、続いて「左手を前に出し、半ば横向きに槍身を握り、掌心は鶏卵を包むように、槍身が卵を押しつぶさないようにする。右手は槍の尾の全体を握り、臍の前約一拳の位置に置く。槍先は眉より高くしない。槍先から一尺余りの槍身を固定物(大木や門枠など)に寄せ、槍先に三、五斤の重りが付いているように想像し、上下に均一な速度で滑らせる。滑らせる距離は一尺ほどで、左右交互に練習する」と教えた。

当時、薌老は一本の木を使って練習し、長年の間に、その木に瘤ができるほど磨り減らしたという。その功夫の深さは想像を超えるものだった。

ある程度の基礎ができた後、以下の十三種の勁を練習する。撥、拧、転、滚、扣、裹、刺、挑、崩、絞、推、拉、銼である。

上記の計十五種の勁にある程度の基礎ができた後、対練を始める。

薌老は父に彼の部屋の後ろから二本の白蝋杆を取り出させた。一本は羅大夫が薌老にくれたもの、もう一本は薌老自身のものだった。

薌老は羅大夫からもらった方を使い、父に自分の杆子を使わせた。父は後に私に、薌老の杆子は手に持つと他の薌とは違う感じで、扱いやすかったと語った。

薌老は「槍先は相手の前胸から額までの一尺余りの範囲から離してはならない。使用時は、十五種の勁を一つの勁に統合しなければならない」と言った。

父は「師祖父と槍を合わせると、師祖父の槍は軽く一拧、一撥するだけで、言葉では表現できない勁が私を弾き飛ばした。抵抗しようとすればするほど、より遠くへ飛ばされた」と語った。

毎回三回だけ練習し、その後薌老は「帰ってよく考えなさい」と言うのだった。

ある時、薌老が再び父に杆子を取るように言ったが、父が部屋を探しても一本しかなかった。薌老は「忘れていた。一本は人に貸したのだ。瓶に挿している払子の柄を持ってきなさい」と言った。

薌老は払子の柄を槍として使った。父は、払子の柄は柔らかくて弾力があるから、今度は弾き飛ばされることはないだろうと思った。そこで父は槍を捻って薌老の前胸を突こうとしたが、槍身が一震するのを感じただけで、遠くへ弾き飛ばされてしまった。

また別の時、父が何気なく杆子で払ったところ、思いがけず薌老をよろめかせてしまった。彼は「先生、払おうと思った時は払えませんでしたが、今の何気ない一払いで先生を動かしてしまいました。これはどういうことですか?」と尋ねた。

薌老は「思うというのは有意であり、何気ないというのは無意である。無意は本能だ」と答えた。

「いかなる器械も手腕の延長である。槍法の各種の勁は一つに統合し、槍法は臥樁と交互に練習し、槍法と拳法は一つに統合し、槍法、拳法、樁法は一つに統合しなければならない。拳を学んで槍を学ばないのは、半分の拳に過ぎない」

槍法の練習は万法を一に帰さねばならない。「一即一切、一切即一」、「一法不立、無法不容」。本能が戻らなければ、潜在能力を引き出すことはできない。万法が一に帰さなければ、それはこの拳ではない。

程岩著、程颖整理『我跟薌老学站樁:六十年站樁養生之体悟』北京科学技術出版社

薌老伝授推手(『我跟薌老学站樁:六十年站樁養生之体悟』より)

1944年の春頃、薌老は万字廊の庭で父(訳注:程志灝先生)と姚宗勲師伯に推手を教えた。まず父に教え、姚師伯に見学させ、次に姚師伯に教え、父に見学させた。

薌老は両手を父の上げた両腕に置き、わずかな動きで内側に引くと、父は後ろに数歩下がってようやく安定した。

薌老は「分かったか?」と尋ねた。

父は「分かりません」と答えた。

薌老は「もう一度」と言った。

薌老は再び軽く内側に引き、父は先ほどと同様に、後ろに数歩下がってようやく安定した。

「分かったか?」

「はっきりしません」

「もう一度」

三回目も同じだった。

薌老は「横で見ていなさい。宗勳、来なさい」と言った。

同じ動作で、姚師伯も後ろに二、三歩下がってようやく安定した。

「分かったか?」と薌老は尋ねた。

姚師伯は何も言わなかった。

「もう一度」

これも三回行った。毎回薌老は「分かったか?」と尋ね、姚師伯は常に黙っていた。

薌老は「よく考えてみなさい」と言った。

三ヶ月以上経っても、父はまだ理解できず、姚師伯に尋ねた。「師兄、理解できましたか?」

姚師伯は「お前は理解できたか?」と尋ねた。

「私は何も理解できませんでした。だから聞きに来たのです」

姚師伯は「老頭が君を教えている時、私は彼の動作を注意深く見ていた。私が教えられている時は、彼の勁を感じ取っていた。帰ってから、私は老頭の動作をスローモーションのように遅くし、映画のスロー場面のように、更に拡大して、あれこれ考えた。私は老頭が私を内側に引っ張るのではなく、『とても小さな円を描いている』ことに気付いた。私はこの『円』を拡大し、スローモーションにして、一段階ずつ理解し、体感し、練習した。一段階を体得して熟練してから、次の段階に進んだ。全てに熟練したら、この『円』を連続させ、動作を小さくし、熟練してから、速度を上げた。先日、老頭に見てもらったところ、『少し味が出てきた』と言われた」と説明した。

薌老の伝授と姚師伯が悟った方法を通じて、父も徐々に推手の要領を掴んでいった。

姚師伯の遺著『意拳』の「推手」という文章で述べられている推手の練習法は、当時姚師伯が薌老の動作を拡大し、スローモーションにした方法であり、また推手の原理、原則、要領を説明する方法でもあると私は感じている。姚師伯が当時悟った道理から見ると、これらの動作を連続させ、縮小し、加速して、「点」において表現することこそが、この拳の推手である。

連続、縮小、加速は、体得と深い基礎功がなければできない。これが私が『意拳』を上級の啓蒙教材に過ぎず、その記述は姚師伯の真の功夫の二、三割に過ぎないと考える理由である。

程岩著、程颖整理『我跟薌老学站樁:六十年站樁養生之体悟』北京科学技術出版社

踝的地位(『拳理説与識者聴』より)

脚踝は全身の重量を支える要であり、盤架の蹲低にとってより重要なのは、落胯だけでなく、落踝である。落踝により、気は涌泉に沈むことができ、涌泉に根なければ、気には主がなく、「力学は死んで補うことができない」の状況に陥ることとなる。

脚踝の拳架における地位は、言及する者が少ないが、事実、站樁法や拳架を問わず、脚踝は重要な役割を演じている。低架において、膝を蹲めるのではなく、これは膝傷を引き起こすため、足踝を落沈させ、気を涌泉足底に帰すのである。故に、気を涌泉に沈めるには、落踝に頼ってこそ達成できるが、このような論述を提出する者は極めて少ない。

脚踝の落沈は落胯より難しい。なぜなら、この部位は、注意を払う者が少なく、平常人も脚踝が肢体活動において何のような役割を演じているかを関心を持つことが稀だからである。形意の蹬歩は、踝部の弾力に頼っている。踝部の筋は、活動及び修練の関係が少ないため、松開させるには、相当の工夫と苦心を要する。

站樁は脚の酸を練るのではなく、脚力を練るのでもなく、気を脚踝に落とし、涌泉足根に集めることである。太極拳経に「その根は脚に在り」と言うが、脚踝の松開落沈があってこそ、「その根は脚に在り」となる。これは私の練拳の体得であり、また私の見解と論述である。

蘇峰珍『拳理説与識者聴』大展出版社有限公司より

体松与腹松(『拳理説与識者聴』より)

体松というのは、身体の各部分、手足及び肢体等々を指す。腹松とは、丹田気の松浄を指し、丹田気の滞りや閉塞がないことを指す。腹松とは腹部肌肉の弛緩ではなく、歩行時、行功運気時における丹田の気の運行流通が順調であることを指す。力を用いて気を使うのではなく、硬くこわばった腹筋で気を鼓動させ、功を運ぶのではなく、腹部中の丹田気が軽やかに舒放され、気が沈落して丹田に集聚するのである。

丹田は気を聚め蔵する場所であり、太極拳内家拳を修練するには、必ず先に充実円満な丹田気を修積し、後日の行功運気に使用する。丹田の内気の聚集貯蔵は、その前提条件が気沈丹田であり、気沈丹田の前提条件が「腹松」である。

太極拳十三勢歌に曰く、「腹内松浄にして、気は騰然する」。十三勢歌は、腹内の丹田気が松になること清浄で、松が徹底すれば、丹田気は自ずと騰然すると説く。つまり、行功歩行時に、もし腹内丹田気の松浄を保持できれば、即ち気が熱く騰起することができ、これが練精化気であり、気が騰った後に凝固して筋骨の内に聚斂し、筋骨を弾性に富んだ質量で満たす。この質量が内勁の源である。

行功心解に曰く、「腹松にして、気は骨に斂入する」。行功心解は、腹が松になってこそ、気は骨に斂入することができると説く。つまり腹内の丹田気が松浄になってこそ、この気は筋骨の内に斂入することができる。気が骨に斂入することは内勁の能量を成就することであり、また内家拳の追求する究極の目標である。もし内勁能量の養成がなければ、内家拳の「発勁」はなく、故に内勁を成就していない者は、「発勁」を語ることはできず、「発勁」とは無縁である。たとえ人を遠くまで押し飛ばせたとしても、それはなお力の範疇に属し、彼を発勁の人とは言えない。

したがって、腹松は内家拳の功体を成就する重要な条件であり、また内勁を成就する最初の条件である。丹田気の腹松がなければ、気が骨に斂入することはなく、内勁も語れず、さらに発勁という事もない。

腹が松でなければ、拙力を使うことになり、「気に在れば滞る」という現象を引き起こす。行功心解に曰く、「全身の意は精神に在り、気に在らず、気に在れば滞り、気が有れば力が無く、気が無ければ純剛である」。

行功心解は、行功歩行の時、全身の精神は意念にのみ在り、気に在らずと説く。ここで言う「気に在らず」とは、気を抽くことを指し、誤って拙力を使うことにより、腹内の気に滞碍が生じ順でなくなることを指す。これが「気に在れば滞る」であり、また「気に在れば滞る」の関係で、拙力、拙気を使うことにより、内勁を成就できず、故に応用時に「力無し」の現象を呈し、力を発することができない。つまり、拳を練る時に気が松でなければ、拙滞の気を生じ、内勁を成就できず、発勁時に「気が有って力無し」を感じ、拙気の関係で内勁が生じず、勁を使うことができない。

「気が無ければ則ち純剛である」とは、腹松により、拙気がないことで、終に「腹松にして、気は骨に斂入るす」により、内勁を成就するため、「気が無ければ則ち純剛」と言う。拙気がなければ、成就する内勁は「剛」であり、その中に一糸一毫の力もなく、一種の純粋な内勁である。

腹松の中の丹田気は、内里にあり、無形無象で、肉眼では見えず、捉えがたく、意識思維で感じるしかない。これが内家拳の練習、体得の難しい所であり、故に悟性の良い者のみが、内家功夫を成就しやすい。重力練習や推樹推壁を必死に練習する蛮勇の者は、最後まで内功夫を成就できず、命を懸けた力比べの推手や、表面的な虚幻の表演功夫しかできない。

体松は、肢体、筋肉等々の有形質体を包含し、より重要なのは両腕の松沈である。両腕の松沈は勁を成就する要件であり、両腕の松浄があってこそ沈肩墜肘が体現される。

次いで胯の松沈であり、胯の松沈は上下盤の霊活周転を維持し、胯が落沈しなければ、内気も丹田に留駐することができない。故に、胯の松浄もまた極めて重要である。

さらに足首の松浄がある。これは比較的言及される者が少なく、一般に看過されがちだが、足首の松透は内家拳において極めて重要な地位を占める。また踝部が松浄であってこそ、気は足底の湧泉に聚集し、湧泉に根を持たせ、站底の安定した功夫を成就することができる。

経に曰く、「湧泉に根が無ければ、腰に主が無く、力学は死んで補うことができない」。湧泉に根が無ければ、腰に主が無く、如何に努力して学んでも、老いて死に至る時まで、終には益を得ることはできない。故に、踝部が滞怠して松沈しなければ、立つことが不安定なだけでなく、蹲ることもできず、下勢や仆歩動作が硬く、閉塞し、結滞して、窮状百出となる。

踝部の松は、形意拳の蹬勁に極めて重要な地位を占める。脚踝が松透してこそ、圧勢と弹簧の力を保持でき、折疊勁の反発に極めて大きな連鎖関係がある。形意の蹬歩が成就してこそ、撞勁を発揮でき、攻撃時に瞬間疾速で敵前に進身し、致命的な衝撃を与えることができる。また踝部の松浄により折疊性の弹簧勁を成就してこそ、「硬打硬進遮るもの無し」の効果があり、「追風趕月は放松せず」の神技がある。

胯及び踝が松でなければ、双盤静坐できず、上座すること半分も持たず、跨及び脚踝は酸痛に堪えられず、心情も浮躁となり、心は安霊を得ず、下座するしかない。双盤には安気裹勁の作用があり、両足を盤すれば、一枚の方巾の両端を包むが如く、気勁は束集包覆され、散漫や浮濫とならない。

胯及び踝の筋が松開すれば、両足双盤後に床に平臥でき、大腿及び膝蓋を平整安舒に床面に密着させることができ、これにより胯と踝の真の松浄に達する。また胯踝の松透及び双臂が真に完成した一体の松浄に達してこそ、掤勁が既に成就したと言える。

掤勁は両手双臂に限らず、全身各関節の伸縮、弾性と乗載等々を包含する。また言えば、掤勁は車の避震器の如く、弾性伸縮の中に乗載力を有し、颠簸震蕩の中で車身の安定平衡を保持し、車が活動中に外来の力勢衝撃に遭遇しても、安定と安定を保持できる。

ある大師がある夜、突然自分の両腕が断たれる夢を見た。夢覚めた後、はっと悟り、翌日、功夫が彼より優れた者と推手をし、進歩神速で、皆が非常に驚き、再三の追問により、真に松になったことを知った。これより功夫は日進千里となり、このように松の境地を悟った。

これは大師個人の松についての体悟であり、彼は両臂の維系する筋絡が人形の手臂関節の如く、一本の松緊帯の維系に依ってこそ、転折自如になれると感じた。もし両臂が既に断たれたという感覚がなければ、この松がどのような状況かを知ることはできない。

太極拳は一貫して松を重視し、特に楊家系統は「要松、要松、要松」と常に言い、さらに「松でなければ打たれる架子である」と強調する。これらの口頭禅は、楊家系統の太極拳修練の座右銘となり、また他の各派系の練拳指標となった。

言うことは正しく、松は確かに太極拳及び他の内家拳が内勁を成就する重要な要素の一つだが、各家が強調し重視する松は、肢体の松、特に手臂の松に偏っている。人々に崇拝される大師の夜の断臂の故事も、今なお人々に津々浦々で語られ、牛角尖に入り込み、臂松が主客転倒し、太極拳の主菜となり、主人の腹松、気松は逆に無視され、看過された。故に真に内勁を成就できる者も、極めて少なくなった。

手臂の松は、手の勁及び手の沈勁を成就できるが、拳を練るのに手の松沈にのみ偏り、腹部丹田気の松沈を無視、看過すれば、近きを捨てて遠きを求めることとなり、「わずかな違いが千里の誤りに陥る」の窮境に陥り、太極内家拳の甚深なる功夫を成就できない。

行功心解に曰く、「発勁は須く沈着松浄にして、専ら一方を主とする」。発勁は必ず松浄でなければならず、かつ沈着でなければならない。これは丹田気を直指したものである。勁は気の養成功夫であり、気の養成は因、勁の成就は果であり、因果は倒置錯乱しない。また気の沈淀内斂があってこそ、勁の成就が生じ、発勁という事を言うことができる。故に発勁は須く沈着松浄とは純粋に内里の丹田気を指し、手臂の松浄を指すのではなく、沈着の二字は身法を指すのではなく、無形象の意念の法である。

専ら一方を主とするとは、発勁時の気爆の処所を一処に集中し、火力全開、一処に集中爆発することを指す。これらは全て意念の指引を通じて、丹田気を瞬間爆発させねばならない。

一般の武師は、改拳、拳架の修正において、外表の形架に重点を置き、手を整え、腰腿を弄り、拳師の架子を装い、得意げになるが、実は、彼らの解するところはそれに止まる。内里の法宝、丹田気の游走、腹松、気沈丹田丹田内転等々の中上乗の功夫内涵について、彼らは口にすることができない。彼らは根本的に実証功夫を持たず、語れることは人の言を借りた虚幻の知識に過ぎない。

腹松とは、丹田気の松沈、松浄を指し、丹田気は腹内に潜蔵し、見えず、触れられず、感覚によるしかない。それでは、この状況下で、師たる者はどのようにしてこの拳を修正、調整すべきか?

学生の眼神、情感、動作及びある種の雰囲気から、行家は学生のどこが不適切か、その気が順調か否か、その気が結滞しているか否か等々を察知でき、これらの動作雰囲気の中から、情報を探り、適当、適時の指正を与えることができる。これらは既に心法の伝授範囲に関わり、一般の師の及ぶところではない。

武術の伝授は、口伝、身教の他に、最も重要なのは心授である。口伝身教は容易で、それは有為の法であり、明示できる。心授は、心法を伝授し、心法は口述し難く、意会するしかなく、心領するしかない。この間には、師生間の心霊の默契が含まれ、師が僅かに眉を顰め、首を振り、手を広げるだけで、或いは默して言わずとも、学生は既に師の意を領会し、自分の誤りがどこにあるかを知る。

心法の伝授には理路があり、時節性がある。ある境地まで練習すれば、師は自然に一つの機鋒を与え、心領神会させる。魯直愚鈍な者は、ただ歩を追って兵を操り、一を挙げて三を反することができず、触類旁通することができず、このような学生は、教えるのに比較的労力を要する。

知恵のある者は、経を読み論を見て、即ち腹松が体松より重要であることを知り、無形の気の松が有形の臂松より更に重要であることを理解し、さらに内外相合し、気と体を並行して練習してこそ、大好の功夫を成就できることを知る。魯直な者は、人の大師の夜の断臂を聞き、断臂手松が既に松の全てを含むと認識し、松を手及び肢体有形体の松に局限し、腹松の重要性を無視し、無形の丹田気の松を看過し、本末転倒し、根本を捨てて枝節を求める。これは仔細に思量に値する。

蘇峰珍『拳理説与識者聴』大展出版社有限公司より

意拳訓練中的「未力」与「未」文化(『問道意拳』より)

私見では、意拳練功は、多くの場合「預」功(或いは「欲」功と呼ぶ)を練るものであり、即ち「将に」の功、「未だ発生せざる」前のその功、また「将に」発生せんとするその功である。皆が意拳の站樁において「動」の前の運動、即ち「未だ発生せざる」前のその運動を練っているにもかかわらず、この事を説明する適切な名称がない。故に私は中医の概念を借用し、特にこれに名付けて「未力」とした。

中医には非常に良い理論がある。即ち「未病」を治す理論である。「未病」という語は、黄帝内経の『素問・四気調神論』に源を発し、「未病」理論は医学介入の切り入れ点を前に移し、「已に病める人群」から「未だ病まざる人群」へと拡張した。「未病」理論は今日まで発展し、三つの面の内容を包含する。一に「未病先防」、二に「即病防変」、三に「已病早治」である。

中国の伝統文化は、実は「未」文化の特質を持つ。もし「未」の概念を「将に」或いは「予」の方向へ位置付ければ、「未」の概念を拡張することができる。意拳の訓練は、執着せざる角度から見れば、三つの「未」があり得る。力は「未力」を練る他に、推手は「未推」を練り、技撃は「未撃」を練る。

「未推」は、推手前の一切の功法と見做すことができ、站樁、試力の功法を含む。「未推」の功は、技撃時の「黏点」の技撃技術に服務する。推手前の站樁、試力等の「未推」技術の訓練を通じて、拳術勁力の使用意図を漸次理解し、整体力を建立することができる。「未推」訓練を通じて、良好な「動力定型」を建立した後に推手訓練を行えば、事半功倍となる。「未推」を論ずる所以は、私が推手の為の推手の訓練に反対するからである。推手は須く技撃に服務すべきであり、推手の技術も全て推手の中で求めるべきではなく、須く「未推」の站樁と中に建立すべきである。もし一味に推手の中で推手の技術を求めれば、則ち推手は推手の為の推手に堕落し、終に技撃の門外漢となる。

「未撃」は、技撃前の一切の功法の訓練と見做すことができ、站樁、試力、推手、空撃、発力、歩法等全ての総合訓練の功法を含む。「未撃」訓練は先ず敵情意識を持ち、技撃の「断点」と「黏点」の技術を了如指掌とし、更に「精神」訓練を要し、同死の決心を持ち、また「精神籠罩」することができねばならない。

中国絵画には「画を作る功夫は画の外にあり」、詩を書くにも「功夫は詩の外にあり」という説があり、その観点は三「未」(「未力」「未推」「未撃」)と共通する所がある。三「未」の功夫は皆功夫を当下するのではなく、切入点を前に移さねばならない。

祖師王薌齋先生の創立した意拳は、実は暗に「未」の内容を含んでいる。

意拳の養生健身理論は中医の「未病」を治す理論に極めて似ており、意拳の「病が有れば病を医し、病が無ければ身を健にする」という観点の如く、多くの疑難雑症の患者が、意拳の站樁功を練ることを通じて身体の康復を得て、病無き者は更に練って身を強くして体健となる。故に意拳の養生健身の功は、即ち「未病」を治すの内容を含み、医病健身の切入点を前に移す。

前の練「未力」の話題に戻れば、意拳拳術勁力の鍛錬方法上も、切入点を前に移す。意拳は「力」を練るに非ず、また「力」を練らざるに非ず、「予」動の「未力」を練るのである。「未力」即ち用力の前のその力である。

意拳の「予」動の「未力」とは、站樁訓練時に、身体の四肢百骸の間の架と筋骨、皮肉、毛髪が、皆勁力爆発の前の「予」動の状態にある事を指す。水泳選手や百メートル走の選手が、号令前、即ち「各自位置に着け、用意」の時の状態に極めて似る。この状態が私の言う「未力」の状態であり、それは勁力爆発前の状態である。この状態は技撃中、出拳と出腿等発力の全過程中の瞬間状態である。他の拳種はこの段階の状態を一帯而過するが、意拳は正に反対に、この段階の状態を重点として研究する。意拳の站樁と試力は、重点的にこの段階のものを練り、この段階を無数の段落に切分け、一段落一段落研究し鍛錬せねばならない。段落の切分けが多いほど、研究が精細となり、訓練が具体的となり、則ち拳術の本旨に符合する。即ち「未力」訓練が豊富で、具体的で、真実で、緻密で、完整な人ほど、水準が高い。

また、拳術の角度から言えば、意拳の「未力」訓練も一種の「蓄力」訓練であり、また一種の「触覚活力」訓練であり、また「予応力」訓練と呼び、また「応力」訓練と呼び、また一種の「争力」訓練である。それは将来の発力に服務し、「未力」の「蓄力」「応力」「争力」状態が良好で、具体的で、完整で、強大であるほど、将来の発力の状態が更に良好となる。「身は鉛を灌ぐが如く、毛髪は戟の如く、体は鋳るが如く整い、筋肉は一の如し」の「四如」境界も、「未力」の状態下で訓練を行わねばならない。もし「未力」でなければ「鉛を灌ぐ」「戟」「鋳」「一」の問題に執着し、祖師王薌齋先生の「如」字の韻意を理解しないであろう。王薌齋先生の用詞は極めて厳密で、用いるのは「如」であり、肯定句式の「是」ではない。祖師王薌齋先生の全てのものは「空霊」であり、「空霊」のものは「一羽も付け加えることができず、蝿虫も落ちることができない」であり、「人は我を知らず、我独り人を知る」であり、「敵が動かんと欲する時、我が先ず至る」であり、「超速」であり、また瞬間に「爆発」し得るものであり、僵死のものではない。もし武器を以て喩えれば、「未力」訓練で出来たものは、水雷、地雷よりも更に敏であるべきである。祖師王芗斎先生の「身体は過堂の風の如く」「毛髪悠揚」「風中の旗、浪中の魚」等の論述は、皆「触覚活力」方面の問題に渉り、また皆「未力」の為すべき功課である。もし「未力」下の訓練でなければ、則ち「鉛を灌ぐが如く、戟の如く、鋳るが如く、一の如し」は必ず僵死のものとなる。

意拳の訓練は、有力は誤りであり、一旦力量を使用すれば、勁力は極めて出尖して執着し易いが、無力も誤りであり、無力は練功していないに等しく、そこで時間を無駄にするのみである。身体が将に有力であろうとするも未だ真に用力していない状態にある時、即ち「未力」の状態にある時のみ、既に功を練って執着と出尖がない。拳論中ではこの状態を「意中力」と呼び、或いは「假借力」と呼び、また「形松意緊」の力と呼び、また「無穷の意を假借し、無穷の力を得る」の力と呼び、また「静中の動こそが真動」の力と呼ぶ。前輩らのこれらの論述は、実は皆「予」動の「未力」を論じている。

完整に見れば、武術訓練は、「無力」から「未力」そして「有力」への過程である。私見では、真に功夫を下して訓練すべきは正にこの「未力」である。また、意拳は実は「有力」を論じない。「有力」は笨力であり、技撃を解せざる人の身上の力である。意拳は「得力」を論じ、即ち意拳は人と技撃するに「有力」を要せず「得力」を要す。故に意拳の理論体系中には、「未力」と「得力」の学問のみがある。

技撃時、一拳を打ち出すか一脚を蹴り出した後、旧力が已に尽きて新力未だ生ぜざる状態が現れる。この時最も危険であり、この時極めて敵手の攻撃を受け易く、身体の「青黄不接」の如くである。しかしこの時もし身体が「未力」の状態にあれば、問題は無い。なぜなら、「未力」の状態は、無力ではなく、また執着の有力ではなく、一種の「蓄力」状態であり、一種の「予」動の待発状態である。この時の周身は触れれば「爆発」し、また「一触即発」と呼ぶ。故に「未力」は発せず、また発しないでもなく、「一触即発」である。意拳の技撃訓練は、即ち「一触即発」の訓練上に功夫を用いねばならない。「一触即発」の訓練は「未力」体系を離れることができず、身体が時時に「未力」の「予」動状態中にあり、且つ長期の訓練を経て、本能と成った後、将来「一触即発」の「爆発力」を有し得る可能性がある。

これにより何故他の門派も「一触即発」を論じ、意拳門内の多くの人も「一触即発」を論じるも、真に「一触即発」の人の出現を見ることは極めて稀なのかを理解できる。それは多くの人が皆「予」動の「未力」上に功夫を用いたことがないからである。

この種の「予」動の「未力」は、整体も局部も持っている。局部から言えば、まず、我々は手の「未力」を訓練しなければならない。意拳の訓練のように、親指と小指の間の牽引の力を確立しなければならないが、実際に力を用いれば誤りとなり、牽引力が無いのも誤りである。解決の方法は即ち「未力」、即ち親指と小指の間を、力量を使用しようとする前のその状態に置かせ、また「予」の状態と呼ぶ。親指と小指の牽引訓練の他、残りの指も牽引を要する。俗語「十指が綿を裂くように」及び「手が糸を引くように」、その「綿を裂く」と「糸を引く」は全て実際に力を用いるのではなく、また力を用いないのでもなく、「未力」である。

また、意拳が「球を抱く」と「樹を抱く」の「形」と「意」の訓練を行う時も同様に、力を用いてはならず、また力を用いないのでもなく、「未力」である。具体的に手の「撑抱」も、実際に力を入れて「抱く」べきではなく、また「抱か」ないのでもなく、「未力」の「抱」である。手指間の「球を挟む」意念も同様に、実際に力を入れて「挟む」べきではなく、また「挟ま」ないのでもなく、「未力」の「挟」である。

一を挙げて三を知れば、全身のあらゆる四肢百骸の訓練、あらゆる筋骨、皮肉、毛髪の訓練、あらゆる整体と局部の訓練は、訓練の大部分の時間内に、全て一種の「未力」状態の訓練であるべきである。懐中の「球を抱く」は「未力」の「抱」であるべく、身体の「樹を抱く」も「未力」の「抱」であるべきである。

また、祖師王薌齋先生の「毛髪は戟の如し」は、多くの人が外への膨張力と理解するであろうが、実は、「毛髪戟の如し」は依然として内「抱」の状態にて訓練を行う必要がある。我々の見たハリネズミのように、ハリネズミは一団に縮こまった時のみ、全身の刺が支えることができる。故に内「抱」状態にて練り出した「毛髪戟の如し」は矛盾力であり、外「撑」にて練り出した「毛髪戟の如し」は矛盾を欠くが故に単向力となり、単向力は尖り、また執着であり、また方向を持つものである。故に「毛髪戟の如し」は「未力」の状態下にて内「抱」の「毛髪戟の如し」を練り成すべきであり、外「撑」の「毛髪戟の如し」ではないのである。

総じて、「未力」の角度より訓練を行えば、我々は老先生らが以前に言った「用力は誤りであるが、不用力も誤りである」、「力を使わずして力は自ずとある」、さらには意拳祖師王薌齋先生の言う「己の身を離れれば求めるものはなく、己の身に執着しては永遠に得るところはない」は何事を言うのかを理解することができる。私見では、王薌齋先生の「己の身を離れれば求めるものはなく、己の身に執着しては永遠に得るところはない」というこの理論は、極めて大きな部分で「未力」訓練の具体的内容を含んでいる。或いは「未力」はこの理論の具体的体現であると言える。

「未」の理論体系、特に「未力」理論は意拳所独有の理論であり、その意拳訓練中の三「未」、即ち「未力」「未推」「未撃」訓練は、意拳の強大な実戦能力と奇特な養生健身の功効を成就することができる。「未」の思維方式と訓練方法は、武学文化中において矛盾にして弁証法的であり、また吊詭的である。これは武文化が他の文化と区別される所であり、また意拳訓練体系中の核心内容の一つである。

張樹新『問道意拳』華齢出版社より