問:大成拳とボクシングの違いは何ですか? どのような相違点がありますか?
答:全体的に言えば、異なる点が多く、同じ点が少ない。おそらく私の水準が限られているからか、同じ点が見つからないため、主に相違点について話そう。まず文化が異なる。大成拳は我々中国人が5000年近くの時間をかけ、無数の能人が生涯の精力を注いで作り上げた一門の拳術だ。その起源と発展は中国文化と共に成熟してきた。中国最古の文化には二家あり、一つは「武学」、もう一つは「文学」だった。先に武学があり、後に文学(口伝心授)があった。薌齋老先生は公に次のように言った。「開闢は武を首重し、小道と視るなかれ、長ずるもの集まらざれば、学術ここに始まらず。」文学には易経、内経、道学、仏学、中医薬学などが含まれる。武術は中国人が長期の実戦を通じて非常に貴重な経験を積み、さらに禽獣の長所を結合し、西方の達磨老祖の洗髄易筋之法を参考にして徐々に形成されたものだ。中国の武学と文学は共に中華民族の文化を作り上げ、中華民族の生存と発展に不朽の功績を立てた。5000年以上の歴史が証明するように、中国人が地球上で滅びずに生存してきたのは、我々の文化と大きな関係があると言わざるを得ない。特に武文化は、中国人の身体素質と知力を作り上げる面で功績は計り知れない。ボクシングはヨーロッパに起源を持つ。ヨーロッパにはヨーロッパの文化があり、ボクシングの起源と発展もヨーロッパ文化という土壌から離れることはできない。その思考方式と観念は必然的に西洋文化と直接的な関係がある。二つの文化の違いにより、大成拳とボクシングは思考方式、観念、人体に対する認知程度、訓練方法、技撃形式などの面で本質的な違いがあり、同じように語ることはできない。
上述の環境、雰囲気の違いにより、人体に対する認知程度も大きく異なる。それは力に対する認識の違いに集中的に表れている。西洋のボクシングが認知しているのは筋肉の力であり、もちろん局部的な筋骨力もある。それにも一つの動作を反復操練する訓練方法があるが、この方法で得られるのは局部的な筋骨力だけで、しかも受動的に得られるものだ。筋肉の力は比較的認識しやすく、人々は後天的な仕事や労働で力を使えば筋肉を使って力を使っている。大成拳が求める力は筋骨力であり、意中の力、つまり意力と言える。当初、達磨が東来して中国で洗髄経と易筋経を伝授し、中国の武術家がそれを学び、巧みに自身の技撃経験と融合させ、筋骨鍛錬法を創造した。達磨の東来は機会であり、中国の武術家はこの機会を掴み、自身の武文化を大きく昇華させた。この種の力は人類が認識するのは容易ではなく、相当に深い文化を備えていなければ、この種の力を開発するのは難しい。しかし、中国の武術家はそれを成し遂げた。当時の中国武術が非常に高い境地になかったなら、洗髄、易筋之法を理解することもできず、参考にすることもできなかっただろう。力に対する認知程度が異なるので、訓練方法も異なる。大成拳の訓練方法は站樁に慢練を加えたものだ。ボクシングの訓練方法は皆知っての通りだ。訓練方法が異なれば、技撃の形式も同じであるはずがない。大成拳の技撃形式は実を打つこと、即ち搭手だ。ボクシングの技撃形式は虚を打つこと、つまり相手の両手を避けて相手の急所を打撃することだ。大成拳は技撃時に相手の両手を避けず、相手の両手が防護している状態でも継続して相手の急所を打撃でき、相手を投げ出すこともできる。もちろん後者の状況は大成拳の造詣が非常に高い者のみが為せることだ。養生面でも異なる。大成拳は養生でき病気を治せる。体の弱い者も大成拳の練習を通じて身体を強くし、抗病能力を増強できる。これらはボクシング運動では為し得ないことだ。ボクシングは強者の運動で、生まれつき身体の良い人が練習するのに適している。大成拳も強者の運動だが、たとえボクシングのチャンピオンでも、大成拳を練習しようとすれば10年の苦功を重ねなければならない。
問:大成拳の発力はボクシングと違いますか? もし違うとすれば、それは何ですか?
答:大成拳の発力とボクシングの発力には本質的な違いがある。ボクシングの発力の特徴は短(時間が短い)、脆である。その主な目的は相手の虚の部分を打撃することだ。大成拳の発力は長(時間が長い)で、ボクシングの発力の時間よりも数倍または十数倍長い。例えばボクシングの一回の発力が1秒だとすると、大成拳の発力は数秒または十数秒に達することがある。大成拳の発力時間が長いのは、その発力の目的と関係がある。大成拳の発力の主な目的は実を打つこと、即ち相手の力を控制し、相手の力を控制してから打撃を実施することだ。例えば技撃中に二つの力が接したとき、時には相手の腕を押さえつけてから打撃を実施する必要がある。相手の腕を押さえつけているこの間に、相手の腕は多くの相応の抗衡をする可能性がある。逃げたり、横に動いたり、縦に動いたりなどだ。相手の力の方向に応じて横竪力の原則を用いて相手の力に粘を用い、相手の力を打てもなく逃げられもしない状態にし、そうしてから打撃を実施すれば最も確実だ。この種の横竪力の運用は、ボクシングが直接虚を打つ力と比べるとはるかに長い。力が長いというのは虚点がないという意味で、虚点があれば力が断たれたことになり、力が断たれればもはや長いとは言えない。ボクシングの発力は時間が長くなりようがない。それは筋肉の力を使っており、筋肉が発する力は人が息を止めた状態で、呼吸しない発力は長続きしない。大成拳の発力の源は筋骨力で、筋骨の力の運用は呼吸の制限を受けない。力を運用する時、人の呼吸は常に正常な状態にあるので、その発力時間はやや長くなることができる。なぜ私が站樁と慢練の時に必ず呼吸を自然にするよう、どんな練習をしても呼吸は自然でなければならないと繰り返し強調するのか、今ここに表れているのだ。大成拳の発力にはもう一つの特徴がある。それは重物(相手の力の抵抗)に遭遇しても、横竪力の原則を運用して前進し続けられることだ。ボクシングの発力は重物に遭遇すると阻まれ、前進できない。レンガを投げるようなものだ。レンガを投げ出し、重物に遭遇すれば地面に落ちる。重物に遭遇せず、目標に当たらなくても自然と地面に落ちる。大成拳の発力はミサイルのようなものだ。人のコントロールを受けることができ、相手の表現に応じて力の方向をタイムリーに修正し、目標に打ち込むまでできる。ミサイルは銃弾や砲弾よりも有効性が高いが、ミサイルの製造にかかる費用と時間は砲弾よりはるかに長い。大成拳の発力は動中に静を求め、静中に動を求める。搭手せず、二つの力が接していない時は動の処、動中に搭手を求め、二力の接触を求める。二力が接すれば静となり、静で動けなければならない。これは形意拳で「動を以て静を待つに借法有り、静を以て動くに上法有り、借法は容易く上法は難しい」と呼ばれるものだ。実はボクシングだけでなく、世界のあらゆる技撃を見渡しても、それらの発力は全て一つの原理だ。拳で打つにせよ、足で蹴るにせよ、全て虚を打つもので、本質的には同じだ。最も恐ろしいのは、現在の中国武術家が皆ボクシングの発力を用いて武術の対抗を行っていることだ。このようにすることの害は、武術選手にボクシングの発力を学び運用し、筋肉の訓練を研究するよう奨励するのと等しく、我々中国武術特有の発力、筋骨力を研究する人がいなくなってしまう。このような武術の発展傾向は疑いなく中国の文化を失うことになるだろう。
問:「近ければ投げ、遠ければ蹴り、遠口なく近くもなければ拳を用いて打つ」という言葉の意味を説明していただけますか?
答:この言葉は大成拳学の言葉ではない。まず、王薌齋は投げ(摔跤)をしなかった。薌齋先生が人を投げるのは、一度手を合わせると奪位の方法を用いて相手を根こそぎ崩すもので、上肢は柔らかくならず、表面的には人を投げ倒すように見えるが、実際には中国武術の功夫を用いており、摔跤の法ではない。大成拳の腿法も遠ければ蹴るというものではない。明拳暗腿、抬腿見えず腿、抬腿半辺空だ。大成拳の脚の使用は相手が知らない状況で脚を上げて人を蹴るものだ。もう一つの状況は、相手が進めない状況で脚を上げて人を蹴るというものだ。中国武術の大家には一人も摔跤の名手はいない。大成拳の訓練にも摔跤という言葉はない。王薌齋は弟子と手を合わせる時、よく腿を上げて人を蹴った。時には事前に腿を上げておき、弟子が防ぎきれないようにしたが、これは全て双方の功夫に大きな差がある状況で使用されたもので、少し遊びの意味合いがあった。水準が同等の相手と手を試す時、彼は軽々しく腿を上げなかった。大成拳が技撃時に表現する投げは、実際には摔跤ではなく、相手を守るためのものだ。過去の武術の大家が手を試す時は相手を傷つけないことを重視した。相手に勝とうとすれば相手を傷つけないようにしなければならず、その自信がなければ、むしろ動かない方が良く、相手を傷つけてはいけなかった。
大成拳の技撃でいつ拳を使い、いつ腿を使うかは、主に相手の運用状況を見る。大成拳は相手の力を控制することを重視し、その全ての行為は相手の力を控制するためのものだ。有形有意は皆偽であり、無形無意の法こそが真である。
問:私はよく薌齋老先生には二種類の力があったと聞きます。一つは放人の力、もう一つは打人の力で、人を放とうとすれば放人の力を使い、人を傷つけようとすれば打人の力を使うと。この二種類の力について説明していただけますか?
答:実際には一種類の力だ。人が一種類の力を練習するのもとても難しいのに、さらに二種類の力を練習するなんてどうして可能だろうか? さらに言えば、技撃は一瞬の出来事だ。どの力を使うかを考える余裕があるだろうか? 力は一種類の力で、この種の力は筋骨力であり、静力であり、自争力だ。二つの力が接した後、この種の力は速く、相手の横竪力が転換する時にそこに鑽り込む。この時、相手には抵抗力がない。これがいわゆる打人の力だ。放人の力も同じことだ。ただ打人の力よりも難しいだけだ。相手の横竪力が転換する時に鑽ることができるのに鑽らず、進むことができるのに進まず、相手を一瞬待つ。相手にある程度の抵抗力があり、しかもこの抵抗力がまだ形成されていない時に相手を打撃する。表面的には人を打つように見えるが、実際には力は相手の両腕にあり、真に力を受けているのは腕であって打撃を受けている部位ではない。これに奪位(法)を加えれば相手を放り出すことができる。このようにするのは非常に難しく、王薌齋だけができた。彼は相手の力の火加減を非常に正確に把握し、功夫も経験も持ち合わせ、非常に老練だった。早すぎると相手は打たれず、遅すぎると打ち込めない。前者の打人の力ができるだけでも非常に難しく、一般の人にはできない。武術の大家同士の手合わせでは打ち込めない。双方とも一種類の力で、どちらも速く、どちらにも虚点がなく、誰も打ち込めない。功力で相手を放り出すしかなく、人には当たらない。だから武術の大家同士の比武は勝負が見えるだけで、相手を傷つけることはない。これが自己防護能力だ。相手に放り出されるだけで、相手の拳は身体に当たらない。双方の攻防は全て腕上で完成される。
問:多くの拳譜に「伸筋抜骨」とありますが、あなたの文章では「伸筋縮骨」と言っています。結局どちらが正しいのでしょうか、それとも両方正しいのでしょうか?
答:大成拳の練習ではまず伸筋を学ぶ必要がある。筋を一定程度まで伸ばせば、骨は自然と縮んだ状態になる。伸筋は撑力、縮骨は収力で、この二つの力が対抗して引き合うことで一つの完全な力となる。収と撑も自争力を形成できる。もちろん自持力は非常に多くの接力で構成されており、収と撑が形成する自挣力はその一つだ。筋骨自争というこの言い方は確かに正しいが、結局のところ一種の感覚であり、科学的な説明ではない。将来、科学が一定の程度まで発展すれば、この現象を説明できるようになるだろう。大成拳の練習では伸筋だけを練習すればよく、骨を縮める必要はない。筋を一定程度まで伸ばせば、縮骨は自然に達成される。だから伸筋抜骨説と伸筋縮骨説は、私個人の意見では重要ではない。この概念が不明確だからといって拳の練習の質に影響することはない。最も重要なのは伸筋の方法を明確にすることで、伸筋さえ明確になれば、以下のことは自然だ。
伸筋抜骨という言い方については、こう考える。筋を一定程度まで伸ばすと一種の争力が生じ、この争力も抜骨するような感覚がある。争が一定程度に達すると自然と収力が生じる。収力が生じるのは自然なので言及せず、争力だけを言及する。もし争力だけを言って伸筋抜骨と言わなくても良い。要するに私は「伸筋抜骨」説と「伸筋縮骨」説、この二つの概念は全く異なるものではなく、拳に対する認識に影響を与えるものではなく、重要な概念ではないので、必ずしも区別する必要はないと考える。
問:王薌齋先生は拳論で「爆炸力」に言及していますが、これは爆発力のことですか?
答:「爆炸力」と「爆発力」は二つの異なる概念で、この二つの概念を混同してはいけない。そうでないと大成拳の理解に影響を与えてしまう。爆炸力は筋骨の範疇に属し、中国古代武術の力が達した一つの境地で、中国の武文化だ。大成拳を非常に高い境地まで練習すると、身体に二つの部分の反応が現れる。一部分は特別に緊で、残りの部分は特別に松である。緊であるべき部分が緊であるほど、松である部分はより松になる。緊は撑力を生み出し、松は収縮力、あるいは収力を生み出す。撑力は非常に堅固な外殻のようで、いつでも外力の打撃に抵抗できる。縮力は火薬のようで、いつでも相手の比較的弱い部分を爆発的に打撃できる。この二つの力が合わさって初めて大成拳が追求する力となる。この種の力を薌齋先生は爆炸力と呼んだ。この種の力は一旦阻力に遭遇すると自然に力を発し、準備期間がなく、力を発する前にまず松にしてから、緊にして力を発する必要がない。この種の力はどんな状況でも松である、同時に緊である。力を発するときもこのように松緊を同時に備え、一部分は緩み一部分は緊張している。これが中国武文化の奥妙なところだ。薌齋先生はこの種の力を備え、自在に運用し、技撃時には言葉では言い表せないほど素晴らしかった。
形意拳もこの種の力を論じるが、爆炸力とは呼ばず、炮拳と呼ぶ。炮拳は火のようで、「力は火薬の如く拳は弾の如し、霊機が一動すれば鳥は飛ぶのも難強い」と言うのは同じことだ。この種の力は対抗の中で非常に速く、一度手を合わせ二つの力が接すれば、心で思ったことがすぐに成し遂げられる。つまり一つの考えの事で、意が至れば力が至る。搭手の時から数えれば銃よりも速い。
爆発力は筋肉の力の範疇に属し、西洋文化だ。現在、科学の指導下にある各種のスポーツは全て爆発力を体現しており、即ち筋肉の一松一緊で一種の力を生み出す。一松の時は力がなく発力の準備をし、一発力すれば緊張し、緊張すれば力が出る。一松と一緊で一つの発力を構成し、次の力を発するときはまた一度松としてから発力する。この種の発力を大成拳では断続的だと考える。松は断であり、一松すれば力がなくなる。力がなくなるということは力が断たれたということだ。力が一度断たれれば相手に乗じられてしまう。しかし相手が誰かによる。薌齋先生は「混打乱撃は有益だが、相手が誰かによる」と言った。功夫のある人に出会えば、一松しただけで敗北してしまうだろう。さらにこの種の力は控制できない。松になれば力がなくなり、力がなくなれば断たれ、力が断たれれば当然控制できなくなる。だからこの種の発力を用いると、一つの動作の中に多くの断点があり、控制できない。
問:王薌齋先生は「私の言う通りに練習すれば間違いだ、私の言う通りに練習しなければもっと間違いだ」と言ったそうですが、薌齋先生は本当にこのようなことを言ったのでしょうか? もし言ったのなら、その意味を説明していただけますか?
答:薌齋先生は確かにこのような言葉を言った。常志朗先生も私に拳を教える時にこのような言葉を言った。実はこの言葉は非常に理解しやすい。薌齋先生が拳について話すのは内在的な力、つまり静力、あるいは動静合一の力のことだ。内力には一つの特徴がある。それは「像」であって、「是」ではないということだ。内力は実際には筋骨を練習した後に人体内に生じる内力で、一種の感覚だ。内力、感覚を描写するのは非常に難しく、言葉でそれを非常に明確に描写するのは難しい。近似的に、あるいはおおよそ描写できるだけで、100%正確に描写することは決してできない。例えば「空気阻力のよう」と言うのは、内力が空気に阻力があるかのようだという意味だが、決して空気に阻力があるわけではない。空気に阻力はなく、あってもごくわずかだ。拳の練習では非常に大きな力が求められ、空気の阻力と拳力を比べるとあまりに小さすぎて、力がないに等しいと見なすべきだ。もし習拳時に本当に空気の阻力を体感しようとすれば間違いだ。しかし外界の阻力を追求しなければもっと間違いだ。薌齋先生が拳について言うのは習拳者に一つの方向を示すためで、その方向に沿って進めば正しいのだ。彼が言うのは「像」であって「是」ではない。一種の内力には多くの描写方法がある。例えば「空気阻力」は一つの描写方法で、水の阻力はまた別の描写方法だ。風中の旗、淵中の魚、身外に物あり、内外牽掛などがある。形意拳では「大自然と呼応する」などと言う。どれだけ多くの描写があっても、それらが言うのは全て「像」であって、「就是(訳注:まさに〜である)」ではない。私はよく次のように言う。「もしある日本当に内力を練り出せたなら、あなたは彼らの言ったことが全て正確ではないと感じるだろう。しかしあなたに正確な「像」を言わせようとしても、あなたは言えない。結局、あなたはやはりこれらの大家の言葉を使って拳を論じることになる」と。このときこそ本当に内力を持ったと言える。誰が練習しても正しければ、練り出される内力は同じだ。内力は一種類しかないが、内力を解釈する言葉は多い。そうでなければ中国武術がどうしてあれほど多くの派に分かれることができただろうか。真の拳は一つしかない。あなたはこう解釈し、私はああ解釈する。あなたはこの角度から解釈し、私はあの方向から解釈する。そうして派が生まれる。しかし内輪の人を欺くことはできない。内輪の人は一聞いただけでそれが正しいかどうかわかる。芗斋先生が練習したのは中国古代武術だ。現代の人は生まれた時から西洋文化の雰囲気の中で成長してきたので、芗斋先生の武術思想を受け入れるのは確かに難しい。受け入れやすいのは芗斋先生の個人的魅力だ。拳を上手く練習し、功夫があり、武技の水準が高いということだ。
300年以上にわたって、中国古代の武文化は中国人の心の中でゆっくりと忘れられ、代わりに西洋文化いわゆる科学的運動が取って代わった。現在、中国の改革開放は良い結果を得て、経済的に大きな発展を遂げ、民が富み国が強くなり始めた。人々は再び中国に非常に良い文化があることに気づき、自分たちの文化を掘り起こし始めた。しかし中国古代の武文化の失伝は数年や十数年の問題ではない。回復も短期間でできることではない。中国武文化の思想が中国人に受け入れられるには長い時間が必要だ。
問:私は大成拳を長年練習していますが、王薌齋先生の拳論の中の一段落をずっと理解できません。説明をお願いします。原文は以下のとおりです。「習う時はまず節段、面積の偏倚から始め、力の均整を求め、次に点力の均整を通じて虚実の偏倚を推し量り、さらに偏倚の松緊によって発力の適当を試し、その上で適当な発力を通して神光の離合旋繞と波浪の弾力の鋒棱を利用し、次に全身の毛が道を尋ねるように一触即発の機能を実現する」。
答:「習う時はまず節段、面積の偏倚から始め、力の均整を求める」。節段とは何か? 節段は特定の関節や部位を指し、全体ではない。三節について言えば、特定の一節を指す。つまり、一つの関節、一つの部位から練り出すということで、一気に全体にはならない。面積とは何か? 大成拳では面積は曲折と正確な姿勢によって形成される。腕と脚は曲がっていて、まっすぐすぎてはいけない。一本の直線を形成してはいけない。そうでないと面積を形成できない。各部位はよく配合し、厳しくなければならない。面積を形成した後、技撃の中で厳しくなれる。まず動作の上で中線を守れるようにする。相手が私の中線を通ろうとしても、必ず私のある部位に引っかかって搭手を形成できるようにする。面積があり、かつ各点に力があってこそ真の面積だ。均整とは何か? 均整とは三節のことで、各関節、各部位、全身各所に力があれば、人は整体となる。偏倚とは動くことだ。正しい樁は偏倚しない。人が動き始めれば必然的に偏倚が生じる。大成拳では一般的に偏倚は試力を指す。この文の意味は、試力の中で一つの関節、一つの部位ずつ、少しずつ整体の力を求めるということだ。
「力の均整を求め、次に点力の均整を通じて虚実の偏倚を推し量る」。点力とは何か? 点力は一本の線ではなく、一つの動作全体でもない。一つの動作は一本の線を動かすことができ、一本の線は多くの点で構成される。功夫が良ければ良いほど点は多くなり、際限がない。虚実とは何か? 身外に阻力があれば実で、阻力がなければ虚だ。どの関節に阻力があればその関節は実で、そうでなければ虚だ。「点力の均整」とは、動かない時に均整がとれているということだ。例えば站樁の時は均整がとれており、これを点力之均整と呼ぶ。「虚実之偏倚」とは、運動の中で虚実を求めることだ。運動は一本の線を形成し、一本の線は多くの点で構成される。運動の中で一点一点虚実を求める。つまり、試力の中で一点一点虚実を求め、目標は試力の時に全身がいつでも阻力の中にあるかどうかだ。
「偏倚の松緊によって発力の適当を試す」。松、緊とは何か? 運動しているときに緩んでいるということで、言い換えれば緩んだ状態で力を使えるということだ。この種の力が断続しない力で、亡びないのだ。「偏倚の松緊」とは、運動の状態で、身体が緩んでいると同時に力もある状態を保つことができるということだ。この時、人体は弓を引き絞ったようで、矢は手を放せば飛び出す。骨は弓のごとく、筋は弦のごとく、拳は矢のごとく、力は火薬のごとく拳は弾丸のごとし。功夫がここまで練られれば上乗の功夫に属する。「発力の適当を試す」。適当な発力とは、二つの力が接する時、二人が接触して阻力に遭遇し、自動的に力を発することを指す。これはもはや純粋に功夫の問題ではなく、ある程度の実戦経験も必要だ。虚実転換の枢軸処、経験しなければ永遠に知ることはできない。
「適当な発力を通して神光の離合旋繞と波浪の弾力の鋒棱を利用し、次に全身の毛が道を尋ねるように一触即発の機能を実現する」。三節が徹底的に練られれば、人体は整った状態になる。整体力自体が横、竪力を備え、さらに手腕が回転し、腰が旋回でき、身体が揺れ動くことができる。これもまた一種の横竪力だ。さらに歩法、寸步、快步、整步を加えると、これもまた一種の横竪力となる。縦横交差し、横竖貫通し、まるで羅網のようだ。この種の力の混合運用は必ず神意のもの、自然のものでなければならない。「有形有意は皆偽であり、無形無意の法こそ真である」、「形が断たれても力は断たれず、力が断たれても神はなお連なる」。この種の力が非常に高い水準に達すると、全て神の運用となる。五行相表裏、内側のものが良くなれば、必然的に外側に反映されるのが形だ。この種の内外相表裏が神で、神は意力の外在的表現だ。
人の三節が徹底的に練られると、三節が互いに錯力を生み出すことができる。例えば手腕が下に力を入れ、他の二節が上に力を入れる。手腕が左右に力を入れ、身体と脚が反対方向に力を入れる。この種の力は力をより充実させることができ、この種の力もまた一種の自争力だ。薌齋先生はこの種の力を波浪力と呼んだ。人が大きな力を使う時に身体が非常に放松した状態にある。あるいは人が放松した状態で非常に大きな力を使うことができ、しかもこの種の力は非常に長く、断続しない。この状態では人は自分の毛髪が逆立っているように感じる。この種の功夫があってこそ、技撃時に「全身の毛が道を尋ねるよう」ということが可能になる。薌齋先生のこの段落は実際には試力と搭手のことを言っている。相当な桩功の基礎がなければ、この境地を追求することはできない。
まず樁上で松緊、虚実、動静などの機能を追求する必要がある。樁上で追求するものは全て点上のものだ。点上のものが基礎となる。試力で追求するのは線上のもの、正確に言えば線上と面積のものだ。線上のものができれば、さらに正しい形を加えれば面積となる。偏倚に関わるものは全て試力だ。中国古代武術の魂は樁功にある。清朝から現在まで300年以上失伝したのも樁功だ。薌齋先生の中国武術への最大の貢献は、彼が樁功を継承し、中国古代武術の魂を継承し、中国の武文化を継承したことだ。現代の人が大成拳を継承しようとするなら、必ず樁功を明確にしなければならない。樁功さえ明確になれば、大成拳は失伝しないだろう。
李栄玉『走進王薌齋』大展出版社有限公司より