「走步」は運動中の身法、歩法の整体練習であり、「处中」「守中」「持中」の総合練習であり、また運動中の整体試力である。
「走步」の練習はおおよそ三段階に分けられる。一、「起歩は泥を抜くようであり、進歩は席を巻くようである。二、「戦戦兢兢として、薄氷を履むようである」。三、「深淵に臨むように、実処に落とす」。
一、起歩は泥を抜くようであり、進歩は席を巻くようである
歩行練習の予備姿勢は矛盾樁であり、踝まで泥の溜まった池に立っていることを意想し、両手は正面の固定物上のある点(敵方統帥の鼻と想定可)と、牛筋で繋がり、牽引状態となる。
(一)進歩練習。頭が全身を導き、身体の重心を舒適得力の位置まで前に移し、泥池中の後脚を地面と平行に「抜き」上げる。
頭上に水を満たした碗を載せ、脚下には泥池中に平らに敷かれた席があると意想する。後脚を地面と平行に前足の踝まで「推行」する過程で、水をこぼさず、肩が上下せず、平衡を保たねばならない。頭が全身を導き、身体の中線を軸として、均一に、緩慢に、旋回しながら前へ「推行」し、頭は身体の旋回に伴って旋回せず、双眼は常に「遠方の固定物上のその点」を注視し、同時に足下の席を巻き筒のように前進させる。
前進過程では「抜」「推」「巻」および「行こうとして止まり、止まろうとして行き、さらに行かざるを得ずして止まり、止まらざるを得ずして行く」の動揺、変化を体認し、さらに意識の統帥下で、「意力」の方向が相反し、大きさが相等しい状態と作用を体認せねばならない。
後足を前へ「推」する動力がやや大きく、後脚が前足の踝と平行になった時、身体を捻り(=拧転)、後脚を前脚に転換し、続けて席筒を巻きながら前へ「推」す。後足が実地に落ちた時、頭が全身を導いて「抜き」上げ、前足が後足となり、「抜き」上げる時の身心息の変化状態を体認せねばならない。
歩行の全過程は提、抜、推、巻、旋、巻、推、落、踏である。
上述の練習が熟練した後、身体が安定し、平衡で、均整で、協調的に前進できるようになったら、次の段階の練習に進む。
(二)退歩練習。練習の要領は進歩練習と同じだが、前後の方向が相反する。
(三)気場を体認する。進退歩が熟練した後、体内と体外の気場の状態を体認する。
体認の内容は薌老の言葉の通り「全体の意力は円満か? その意力は随時随所に応感して出せるか? 全身は宇宙の力と感応し合えるか? 假借の力は果たして事実となり得るか否か?」
(四)「一触即応」練習。以上の練習が純熟した後、直歩、跨歩、垫歩、横歩、斜歩、错歩等の各種身法、歩法練習を行い、最後に各種身法、歩法を乱して、「一触即応」の能力を鍛錬する。
(五)干渉排除練習。練習時には微小な外力が突然己身に加わった時、身心がどのように感応し、どのように「外力」を瞬時に排除し、自身が依然として「処中」「守中」「持中」状態を保つかを意想せねばならない。
(六)進階練習。さらに進んで、相手を自己の気勢範囲内に置き、「無的放矢中の有的放矢」の精神、意感、自然力を持つ。
二、戦戦兢兢として、薄氷を履むようである
歩行練習の各歩は華にして実なきものであってはならない。各歩は「泥池」中の進行であり、即ち「足腕は泥のよう」で、力の動揺、変化を体認せねばならない。特に意念中の手と遠方の固定点を「牛筋」で牽引する弾力が自身の勁力に及ぼす影響、作用を体認せねばならない。
「足腕は兜泥のよう」の意念に「薄氷を履む」の意感を加え、「氷窟の端の薄氷に落ちた時どうするか」を想わねばならない。戦戦兢兢として、薄氷を履むが如く、専心致志、小心翼翼として、「自然」の基礎上で身心息の「舒適、得力、平衡、均整」の状態を体認する。如何なる状況が現れても、「書生や女郎の態のようである」神態を保たねばならない。
三、深淵に臨むように、実処に落とす
進歩練習時、後脚が前脚に転換し、着地する時には以下の意念が必要である:
断崖の端に落ちた時どうするか? 転がる丸石の上に落ちた時どうするか? 種々の不利な場所に落ちた時どうするか? 着地には「路を出て尋ね問う」「深淵に臨む」の意感がなければならない。地に「一触」する時、得力の処に落ちたかどうかの感覚を持ち、一旦得力しないと感じたら、直ちに足を引き戻し、他の得力の実処を探さねばならない。この時の身心状態を仔細に体認し、身心は放松し、緊張してはならない。
脚が確実に得力の実処に落ちた時、前足はさらに半足ほどの距離を踏み出さねばならない。この時は「踏」であり、奔馬の前蹄が地を踏むが如くで、これは「発力」の一瞬前の状態である。
四、小結
歩行は「精神放大」練習後の動態練習であり、「精神放大」の基礎上に、身は利箭のようで、敵群に射入し、直ちに上将の首級を取る精神状態を持ち、さらに六路を観察し、八方を聴き、我を阻む者は死に、我を遮る者は亡び、「一触毙敌」の意感と「身形は水の流れのようであるべき」の無孔不入の自然力を持たねばならない。時時刻刻、随時随所に、「目(心)中物無く」、自己を「円心」として、全ての頑敵を自己の混元渾厚な気場、勢力範囲内に笼罩し、その逃げ場も隠れ場もなくしてしまう。
自己の混元渾厚な気場、勢力範囲内で、さらに「無的放矢中の有的放矢」の触覚活力の本能を持たねばならない。
これらは全て平歩樁、矛盾樁の練習を通じて深厚、堅固な基礎を築かねばならない。さもなければ、歩行は充其量「形を重んじ意を軽んずる」形式主義に過ぎない。
程岩著、程颖整理『我跟薌老学站樁:六十年站樁養生之体悟』北京科学技術出版社