意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

李洛能先生の著書『形意拳譜』(4)

形意摘要

一に塌腰を要し、二に垂肩を要し、三に扣胸を要し、四に頂を要し、五に提を要し、六に横順知情を要し、七に起鑽落翻の分明を要す。塌腰とは、尾閭を上提し、陽気を上昇させ督脈の理とし、また開督という。垂肩とは、肩を垂らせば気は肘に貫き、肘を垂らせば気手に貫き、気を垂らせば気は丹田に貫く。扣胸とは、胸を開いて気を順にし、任脈を通ずる良箴であり、精気を上は泥丸に通じ、中は心腎に通じ、下は気海に通じ、涌泉に至ることができる。頂とは、頭頂、舌頂、手頂である。頭頂すれば気冠に衝き、舌頂すれば獅子は吼えて象を呑み、手頂すれば力は山を推す。提とは、谷道内提である。古人は「谷道を緊りて内中に提げ、明月輝輝として頭上を飛ぶ」と云い、また醍醐貫頂といい、老いたくないのであれば、還精補脳をすべきである。横とは、起である。順とは、落である。起とは鑽であり、落とは翻である。起は鑽を為し、落は翻を為す。起は横の始めであり、鑽は横の終わりである。落は順の始めであり、翻は順の終わりである。頭頂は鑽、頭縮は翻、手起は鑽、手落は翻、足起は鑽、足落は翻である。腰も然り、起横は横を見ず、落順は順を見ず、起は去るにあり落は打つにあり、起も打ち、落も打つ。起落は水の浪が翻すようであり、これが真の起落である。如何なることがあろうとも、起鑽落翻は、往来は総て肘は肋を離れず、手は心を離れず、洞を出入りして身に緊随すべきである。手起は鋼锉のようで、手落は钩竿に似る。起は進むにあり、落は退くにあり、未だ起たざるは摘字のようで、未だ落ちざるは墜の字のようである。起は箭のようで、落は風の如く、風を追い月を赶って放松せず、起は風の如く落は箭のようである。足は七分を打ち手は三分を打ち、五営四稍は全てに合すべきであり、気は浮かび心意は時に随って用い、硬打硬碰しても遮るものがない。人を打つこと路を走るが如く、人を視ること蒿草の如く、胆上は風響のようで、起落は箭鑽に似る。歩を進めて勝てないのは、必ず敵に怯む心があるからである。これは初歩の明勁であり、形象ありて用うるものである。暗勁の時に至れば、用法は更に妙であり、起は蟄龍の天に升るが如く、落は霹靂の地を击つが如く、起これば形無く落ちれば踪無く、去意は卷地風に似て、起がなければどうして再び起を用いられるのか、落がなければどうして再び落を用いられるのか。低きの中に高きを望み、高きの中に低きを望み、打って起き、打って落ち、水の浪を翻すが如く、鑽でもなく翻でもなく、寸を以て先と為し、足は七分を打ち手は三を打ち、五営四稍は全てに合すべきであり、気は浮かび心意は時に随って用い、身勢を打破して遮るものがない。これは二歩の暗勁であり、無窮の妙用がある。

拳に拳無く意に意無く、無意の中に真意がある。拳打は三節の形が見えず、形影を見ることはできず、時に随って発し、一言一黙、一挙一動、行止坐臥、飲食茶水の間に至るまで、皆能く用いることができ、人がいても人がいなくても、用いないところはなく、故に入れば自ずから得られないことがなく、往けば其の道で得られないことがなく、寂然として動かざるに至り、感じ遂に通じ、可とするも可とせざるも無い。これは三歩の化勁であり、神化の功用である。然れども三歩功夫、虚実奇正も、専ら意を奇正虚実に用いてはならない。虚は並びに専ら彼に用うるものではなく、己の手は彼の上にあり、勁を用いて拉回し、落は钩竿の如し、之を実と謂う。彼の手は我の手に着かず、勁を用いて彼の手を拉回するを虚と謂う。並びに専ら意を虚実に用うるのではなく、人の形勢感触にあるのみである。奇正の理も然り、奇は正が無いことではなく、正は奇が無いことではなく、奇の中に正が有り、正の中に奇が有り、奇正の変化は、循環の端無きが如く、用うる所は無窮である。拳経に「拳が行っても空回せず、空回すれば奇拳ではない」とは、正にこの意である。学ぶ者はこの理を深く思い格物すれば、要義は得られる。

十六处練法

一寸、二践、三鑽、四蹴、五夹、六合、七疾、八正、九脛、十警、十一起落、十二進退、十三陰陽、十四五行、十五动静、十六虚実。

寸は足歩であり、践は腿であり、鑽は身であり、蹴は束身であり、夾は夾剪の疾きが如くであり、合は内外六合であり、疾は疾毒内外合一であり、正は直であり、斜を看れば正が有り、正を看れば斜が有り。脛は手にて内五行を摩するなり。警は四稍を警起するなり、火機が一たび発すれば、其の物は必ず落ちる。脛を摩し勁を摩すれば、意気は響き声に連なる。起落は、起は去るであり、落は打であり、起もまた打であり、落もまた打であり、起落は水の翻浪の如くにして、起落を成す。進退は、進歩は低く、退歩は高し、進退を知らざれば枉げて芸を学ぶ。陰陽は、陽を看れば陰が有り、陰を看れば陽が有り、天地相合すれば雨を下し、拳の陰陽相合すれば一気を成し、気が成れば始めて人を打って其の一塊を成す、皆陰陽の気という。五行は、内五行は動を要し、外五行は随を要する。動静は、静は本体であり、動は作用であり、若し其の静を言えば、未だその機を露わさず、その動を言えば、未だその迹を見ず、動静は正に発すれども未だ発せざるの間にあり、これを動静という。虚実は、虚は精であり、実は霊であり、精霊は皆有りて、其の虚実を成す。