意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

李洛能先生の著書『形意拳譜』(1)

形意拳

形意拳術の始まりは、天地の大いなる原理と造化の原理に基づいている。天地は一つの無気から始まり、万物は無知から生まれ、形意は無意から成る。無意が極まれば有意が生じ、意誠心正であれば静に至り、静であれば六脈を察候し、二気を溶暇し、静が極まれば動が生じ、動けば四肢を震発し、百骸に貫通する。これを先天は静に存し、後天は動に蔵すと言う。故に意は体であり、形は用であり、静は陰に属し、動は陽に属する。体用動静は陰陽消長生生の功を得て、真一の気が生じる。孔子曰く、「冬至にはその陽を養い、夏至にはその陰を養う。吾はよく浩然の気を養う」。これは皆、正気を修養することを言うのである。形意拳の原理は、天一の道を培養し、後天から先天に達することである。陽を重んじて陰を重んじなければ、太剛は必ず折れ、陰を重んじて陽を重んじなければ、過柔にして堅口ならない。剛柔相済すれば、乾坤の道は成る。古の斯術を伝えた者は、多く心法を口授し、記載が少なく、後学者を茫然とさせ、途径を知らず、正気を涵養することを先とし、序とすべきである。

又序

体育の道は、達摩老祖師に創られ、宋朝岳飛に至り、また内経の意義を精研し、五行十二形の原理を化生し、形意拳と名づけられ、五綱十二目を総合し、全体の功用を統一した。内は意、外は形であり、この術は修身の原本であり、明心見性還元の大道であり、陰陽の造化を内包し、乾坤の枢機を転じ、誠に強身の捷径である。

十二形は実に天地万物化生の理に基づき、世間の禽獣の特能を取り、その性能を妙効し、長く模倣すれば、自ずと精神が体に入る。

形意拳術は実に衛生と関係が深く、長く習えば、病者は癒え、弱者は強くなり、男女老少がみな練習でき、腰を折り膝を屈する苦痛もなく、跳び上がり険を冒す危労もなく、室内や敷地でも長衣緩帯で演習でき、武術に属するが、文雅に近い。

練習時、身体は陰陽に分け、前心を陰、脊背を陽とし、手心を陰、手背を陽とし、大指を上に向けると陰陽掌となり、右肩を前にするか左肩を前にすると、皆陰陽身となり、拳の虎口を上に向けると陰陽拳となる。

初学入門規矩

拳術を練習するには、固執して通じないようにしてはならない。力を求めれば、凝滞して霊でなくなり、重さを求めれば、沈重で活発でなくなり、気を求めれば、拘泥して通じなくなり、専ら軽浮を求めれば、神意が涣散する。要するに、身外の形が順なる者は、無形中に自ずと力気が増し、身内が中和なる者は、無形中に自ずと霊気が生じる。功が深く円満に練り至れば、神を丹田に凝らせば、身体は泰山より重く、神を虚空に化せば、身体は鵝の羽毛のように軽くなる。故に練習は一端に固執してはならない。果してその妙道を得れば、有るようで無く、実のようで虚であり、忘れず助けずの意であり、免れずに中にあり、思わずに得て、従容として中道にあり、無形中に生じ、誠に神奇である。

練習三害

初めて武術を学ぶ者は、三害を切に記すべきである。三害が明らかでなければ、身を傷つける。明らかであればは自ずと道を得ることができる。三害とは、一に拙力、二に努気、三に挺胸抜腹である。拙力を練れば、四肢百骸、血脈は流通せず、筋絡は舒暢せず、全身が拘り、手足は活発でなくなり、身は拙気に滞り、滞る所に病が生じる。練習時に努気すれば、太剛は折れやすく、胸内は気が満ち、肺は気に排挤され、満悶肺炸などの症状が生じやすい。挺胸抜腹すれば、気は逆上し、終に丹田に帰することができず、両足は根のない浮き草のようになる。例えば心君が和さないと、百官は必ずその位を失う。拳法も然りで、中和を得なければ、万法も中立の地歩に至ることができない。故に練習の時は、三害を記し、力を以て活気を順にし、虚胸実腹にして道心を生じさせ、これを練れば、久しく之を行えば、自ずと化境に練り至ることができるのである。