意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

孫存周手稿五篇

内勁

拳中の内勁とは、人の散乱している外の神気を、拳中の規矩、手足身体の動作によって、順中に逆を用い、丹田の内に縮回させ、丹田の元気と相交わらせ、無から有へ、微から著へ、虚から実へと、皆徐々に積蓄して成すものである。その理は動中に勁を縮め、気を合一させて丹田に帰すことに他ならない。

内勁の修練を宗とし、奇異の形や驚人の式を求めないならば、修習の法は必ず簡約となる。内家の明勁、暗勁、化勁は、気機の充実に従って漸次上達し、公尺の勁から尺の勁へ進み、さらに寸勁分勁へと進み、周身一気となる。これは力を加えずして自ずと顕著になる自然の力である。

気を養う者は竪勁に長け、気が足に沈み、一踏みすれば地力が脊から発し、双手の勁を打つことができる。気を練る者は横勁に長け、内気は丹田を出入りし、手足を貫通し、丹田の勁即ち腰力となり、腰が手足を合一させ、即ち身力となる。

一度搭手すれば身力が一横し、容易に相手の手を破り、滚動して入れば力は大蛇のようになる。これは手力が腰力に抗しきれないためである。横勁の利点は大が小を食うことで、腰が手より太いためである。竪勁の利点は意が先にあることで、竪勁を発することができれば、気が既に足に沈んでいることを示し、一発の銃声があれば地を蹬んで走り出すことができる。気が沈んでいなければ、まず身を沈めて力を蓄えてから走り出す。横勁を用いて勢を破るのは、心に応じ手に従う。竪勁を用いて敵を攻めるのは、勢が爆竹の如くである。万一横勁が阻まれ、強行できない場合は、迂回して円を描いて再び横勁を進めれば、それは又、纏絲勁となる。

谷道を縮めて丹田の気を経て聚練し、一定の能量に達し、谷道を縮めてこの処を通り、後督脉に上行し、この関を過ぎて小周天の運行に達し、体内の陰陽二気が和合し、内勁を産生する。この勁を放出すれば、驚雷のように、威力は無比だが、肝を傷つけることはない。

提肛は腰馬の合一を助け、全身の構造を一体に連ねることができる。同時に馬歩の際に脚部の筋肉を放松させることにも助けとなり、それによって全身は高度の警戒と完備の状態に達する。

入門には先ず外家を修めるのが良い。これは筋骨肌肉の力道勁道の鍛錬を指す。この基礎があれば将来内家に入っても、先ず勁道力気があり、かつ外形が強健で、身手が敏捷であり、基礎を築いた後、なお内功の一法があり、松静の中に養を求める。この時、周身は自然であればあるほど良く、拘束がなければ自然に道に入りやすい。

直接内功に入ることも不可能ではないが、修練者は直線的に成長せず、その関門は甚だ多い。故に古の武を学ぶ者は、内外家を問わず必ず先ず外功技芸を修め、数年後に内功に入り、内功が成熟円融すれば即ち内家となり、もし道心があれば更に道門に参ずる。内家功夫は必ずしも外家の硬功練法を経なければ人を打てないというわけではない。硬功を練らなければ人を打てないと考える者は、皆内家の心法を得ていない者である。

走架

走架では、重心は一脚にのみあり、全ての活動は全て足底の涌泉に導かれ、全身を全て松とする。この時、全身は快適で爽快で、気機は沸き立ち、うまくできれば、時に空山霊雨の中にいるかのようで、脚を踏み出す度に水中を踏むかのようである。

発勁の全ての動力は、足底の涌泉にのみあり、走化して腰胯を帯動し、全身を放松して些かの力も施さない。敵に応じる時、敵が推してくれば、力を足底の涌泉に導き、泥牛入海の如く、拳撃脚踢に応じては、迅速に身を前に寄せ、矢を発するように相手の門戸に突進し、相手の力量がまだ発せられない(まだ根節にある)うちに相手を発放する。

もし相手が守れば、どんな接触面でも、即ちこの接触面を用いて相手を発出する。重心を完全に一脚に置き、左右に旋転し、起落鑽翻し、龍巻風のように、水の渦のように、気は足の涌泉に沈む。重心が左脚にある場合を例にとると、身体は下へ左へと鑽り下がり、これが接地の力であり、身体は右へ上へと向かい、これが吞天の気である。この時、全身の力は足底の涌泉にのみ置かれるため、その苦しさは比べようがなく、非常に功夫を要する。全身が極めて松透しているため、打人、発人は、水や風のように、形も象もなく、招式もなく、相手は何の感覚も招式も見えないまま、風に吹き飛ばされ、水に押し流されるかのようである。

内功の訓練を経た後、走架はもはや外形の規矩を重視せず、内在の気機の鼓蕩の感応を重視する。吸気して丹田に入れ、同時に全神貫注し、気は全身に満ちて走り、気球のように膨らむ。気を蓄えて出さず、神は全身の外側の皮膚が空間の気流や温度と接触するのを感じる。吐気すると身体は体内が萎縮して丹田に向かうのを感じ、気体は各毛穴から漏れ出る。空体で気がまだ入っていない時、体内に万千の気流が体内で乱闖し各部位を探るのを感じる。呼吸を気にせず、注意力を呼吸に置き、その式は必ず空で、主に式が整っていることが重要である。

拳術の驚炸力と穿透力の基礎は全て整勁である。整勁を練る中で力気を長じるが、力気を練るために力気を練るのではない。勁を練るために勁を練れば、勁を拙くしてしまい、このように練り出された勁は大した用途がない。拳を練る時に必死に発勁したり、拳を練るのが猛烈すぎると、自分の身体を傷つけやすい。ただ動き出せば全身にその意があれば、作用するのである。

剛勁と拙力を用いること、迅猛を求めることは別物である。剛勁を練るのも自然に順う必要があり、軽松、和諧の中で技法の要求に従って、徐々に上下内外、完整一気が形成する剛勁を追求する。勁を身に含んで拳を練る感覚を体得し、孫禄堂先生の写真をよく見て、拳中の意と勁をよく体得する。拳を練るには拳理と含義を明らかにしなければならない。さもなければ体操をするのと変わらない。

根勁

内功の最も基本的なものは根勁と放松である。放松の後に根勁を出し、根勁があればさらに放松する。放松にはただ一つの方法があり、それは自信である。自分が得意とすることをすれば放松できる。人は腰腿に力があり、遠くへ跳び、高く跳び、動作が速くなれば、他人が一拳打ってきても、避けるにせよ打つにせよ思いのままで、心情はもちろん緊張しない。一度放松すれば脳を解放し、人は健康になり、思想と心態も変化する。内功は人を沈着にさせ、思考を敏捷にし、闘争に用いれば力量よりもはるかに効果的で、より貴重である。内家功夫の中の「硬碰硬」の招法の秘訣は、必ず根勁を用いることである。衝突時に骨を一転させ、見た目は二人が骨をぶつけ合っているようだが、実は私が小さく相手を打っただけである。骨を一転させれば横向きの来力を縦向きの力に変え、骨格を通して伝わらせる。縦向きに力を受ければ、どんなに大きくても骨は折れない。相手の骨がもし動かなければ、打たれて傷つくだけである。

腿の根は胯にあり、内家の高手は勁路が打通し、外形は動かず、身勢が一沈すれば腿は上がる。根本的に腿を振って加速する必要はなく、力量はなお大きい。最も重要なのは、この種の蹴り脚法は、近くは身の前を蹴り、遠くは丈外を蹴り、どんな距離でも勁を発することができ、人が阻止できないことである。

内勁を理解しない人は腿を発するのに力を用いるのが非常に難しく、力があっても腿が最終的に振り回された時だけで、それ以前に相手が一歩前に出て防げ終わりである。内家の発脚は未だ腿を上げない前に加速の過程を完了している。内家の蹴脚を止めようとする人は、どんなに近くても丁度銃口に突っ込むようなものである。

外家拳の人材は、全て実戦の中で勁路を打通する。実戦時、心は到るが手が到らず、天性腰腿に力のある人は一旦急になれば根勁を見出す。根勁が打通すれば、手の速度と力量は神助を得たかのようで、何をしても心想事成となる。功夫が身に付けば、心中に知らず知らずのうちに豪気が生じ、事に遇い敵に臨めば目は鋭く神は集中し、少しも慌てず、しばしば英雄の挙動がある。

横勁

横勁は一種の全体を捻転させる裹合勁である。起手の時に横があり、入手の時に横があり、身を起こす時に横があり、身を落とす時にも横があり、足を進める時に横があり、足を退く時にも横がある。

周身の横勁は先天の横である。太極では周身の掤勁と称し、内家拳を練れば即ち周身の丹田、即ち周身の太極を得ることができる。体を護り、兼ねて虚実、虚霊の用がある。即ち変じて極めて善く沾粘し、胸腰をもって吞吐し、歩をもって進退し、これ即ち善化善護の功である。

気は動けば強靭であり、相互間の運動を指す。たとえ動かなくても、敵人が快速に打ってきて、身間の架骨棱に触れれば、また鉄骨鉄壁に当たったかのようで、周身また皮革のようである(高者)。もしこの勁を拳掌臂足に用い、敵手に向かえば、少し近づくだけで傷つけることができる。

絶勁は寸勁と称される。抖勁は急剛勁、冷脆勁と称される。絶勁の主な源は亀尾の急激な転抖と丹田の気の集聚吐発にある。抖勁は臀にある。翻浪勁の理は非常に簡単で、波浪が岸を打つ勁力は非常に強いが、その勁源はその表面にはなく、大海の底部の運動に起源し、海洋の中層で活発に転化し、さらに表面に作用する。その理はまさにここにある。寸勁は外家が掌根で人を沈按し、傷つけるだけではなく、柔掌で人を発し、既に周身整勁かつ神気純粋で、身を猛烈に震わせて人を転ばせることができる。

さらに上は即ち分勁となり、功夫の火候がより純粋であるため、微かに震えるだけで猛烈な形は見えず、人を転ばせることがより妙であり、故に沾粘颤と言う。この勁は陰陽返復勁を打ち、その発人は人の双足を同時に地から離させることができる。抖震勁は一度手に触れただけで内勁で相手の手を破り、直接要害を取ることができ、しかも抖勁にはまた防守の機能があり、来力を滑らせて開くことができる。

内家功夫は松柔を本とし、混身の肌肉が一度緊張すればすぐに松となり、十秒のうち九秒は松の状態で、閑庭を歩むようで、戦えば戦うほど勇み、一晩中打っても疲れない。松は非常に練習が難しく、腰胯上の筋肉は、練習が到達していない時は感じることができず、どうやって松とすることができるだろうか。脊椎上には多くの肌肉があり、特に腰の下部と骨盤付近の筋肉は、練習に到達する前は全くその存在を知らず、到達した後に初めてそこも動かすことができるとわかり、しかも力が無限大であることがわかる。内功の力量は全てそれら数箇所の脊椎上から来ている。

人体は大きなばねであり、それはつまりそれら数箇所の脊椎上の肌肉のことを言っている。これらの骨に開合があり、動き出せば、人は胆力を生じ、虎に出会っても一噛みする勇気が出る。龍形は搜骨で、発勁は骨力を講求し、股部つまり腰椎、骨盤上の筋群に丹田はある。中節は力を発することができ、腰胯関節が開合でき、周身の骨格筋経が貫通し、丹田力が周身の各部位に順達でき、内耗がなく、勁路が打通する。

丹田区域の筋肉は腰を捻挫しない限りは、人々は普段その存在を全く感じることができない。しかし練習に到達した後は、人身上のこれらの最も固い関節の中に最強の力量が蔵されていることを体得するだろう。それは原始的な野獣の力、真の本能の力である。虎豹が獲物を追って食べる時のあの驚くべき速度、力量と協調性は、全てこれらの部位から発動される。この種の力量を後ろ盾として、文人学士も沙場で一戦を交える勇気が出る。形意拳は龍虎二気を説き、この龍と虎の最も強いのは脊椎と腰胯であり、身に龍虎の能があれば、胆力がどうして壮大でないことがあろうか。

丹田

丹田発力とは、腹腔隔膜以下、骨盤以上のこの球状空腔が、皮球のように弾力性に富み(筋膜の功)、鋼球のように堅固(骨格の功)になることを指す。故に内家一脈は、まず丹田の開合を重視し、いわゆる「一年で人を打ち殺す」というのは、最初からこの部位を強化訓練するからである。丹田の開合があってこそ、全身の骨節が協調一致して開合し、内開合があってこそ、胸背、四肢の外開合を論じることができ、丹田開合が全身内変を帯動しなければ、如何にしても滔々として絶えることのない翻浪力を作り出すことはできない。もし法を得なければ、勁を腕や脚に掛け、内部に深く入り込むのは容易ではない。

圏内で人を打ち、圏外で人を推す。いわゆる圏内とは、即ち骨盤発力の範囲であり、いわゆる圏外とは、即ち骨盤発力の範囲以外である。力量の究極の源は、即ち骨盤であり、古に腰胯と言うのは只大まかな言い方で、実際には骨盤を指し、即ち骨盤を用いてあなたを打つのである。この部位は、一人の女性でも開胯を理解し、骨盤の収束、開張乃至旋動を用いて発力し、通身の骨格を帯動して出撃すれば、その纖纖たる玉手一掌であなたを打ち殺しても不思議ではない。骨盤の発力は、外表からは見えないので、対手は手足を折られ断たれても、何事かを知らないのである。

成人の骨盤、特に男性の骨盤は、既に硬化し、その構合の隙間の軟骨も既に石灰化し、一つに連なっているので、成年後に太極を学んでも、開胯は容易ではない。二年で開胯できれば、既に速いと言える。骨盤の運動を用いて発力することを学ぶと同時に、脊骨の節々の用力、節々の貫通を学ばねばならず、骨盤で脊骨を帯動し、さらに四肢筋骨の発勁を帯動する。

真の内家発力は、内圧の集中点が腹部にあり、骨盤で下半身を帯動し、腰椎骨節で上半身の運動を帯動して全身の運動を帯動する。肝要なのは腹部の团気で、腰腹筋を均衡に収縮させ、内圧を増大させ、腰椎の内動に強力な内在の支持を提供することである。尾椎の驚乍、骨盤を輪とし脊椎を軸とする発力、腰、腹、股の肌肉が骨盤を搓動し、力量が脊椎に沿って上昇し、両手に伝わる。全体の感覚は、勁力が尾錐或いは裆内から龍巻風のように昇り、両脚の筋が引き締められ、両足が地を掴まざるを得ず、さもなければこの力量に引き上げられてしまう。このように練習を続ければ、力量が大きくなって十趾でもう地を掴めなくなるまで、『神運経』にある飛騰の功、或いは軽功と呼ばれるものが現れる。幽霊のように飄忽とし、野獣のように協調のとれた身法となる。

内家の暗脚とは、この種の力量を開発した後、地に沿って歩めば即ち歩となり、脚が地を離れれば即ち腿となり、力量の源が腰際にあることを指す。そのため前人は手足の打法を互換できた。しかしこの種の用力方式は、身体への総合的要求が極めて高く、まず周身の筋膜(胸背腰腹裆胯)の伸張量、次に骨節間関節囊の靭性強度が、内在の骨格の貫通に達していなければならない。横隔膜は下降し、裆胯は上翻し、腰椎は開き、後倚し、丹田の中空内実を形成し、まるで両胯の間に充分に空気の入った大きな皮球を挟み、この球がまた肋骨を抱いているかのようでなければならない。このようにして初めて骨盤、腰椎の運動に支えがあり、力量が上肩背に至り、四梢を貫き、身法運動が上勁を含むことができる。

招法は人により異なり、実用的でないため、勁を見出し、発勁することを強調し、自然に合致させることで、外形を順調にし、勁が中から来て、内質が中和し、気が自然に生じ、四肢百骸の気質が一に帰し、後天の拙力を排除する。どの門派の真伝の功夫も一気で成し、内勁で成すものであり、これが本質である。応用手法については、完整円融の内勁があれば、簡単な手法でも極めて妙なる手法となる。

規矩に従って操練し、徐々に上下相随、内外合一の先天真勁を見出す。人身の散乱した気を丹田に納め、周身に運び、完整一気となす。身体の中心を活動の起点とし、整体の力量を連貫して運作させ、身体の各部分が全て整体の力量を有し、対手が自分の身体のどの一点に接触しても、整体の力量の反撃を受けるようにする。整勁が自如の水準に練達していない時は、実戦時には拳を練る時の整勁の要領を放棄し、そのまま打つ。