意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

2023-10-01から1ヶ月間の記事一覧

要論四(『岳武穆形意拳術要論』より)

身や気の論から外れ、梢について進めてみる。梢とは身体の端である。身体について初めて話す際、この部分は触れられず、気についても稀にしか論じられない。捶は内から外に発し、気は身体を通じて梢に達する。故に、気の用は身体に基づいていなければ、虚で…

武術(うーしゅう)1986年7月号

これが意拳だ 登場する先生 北京意拳研究会 簿家聡 王岳銘 内容 意拳とは 簿家聡、王岳銘インタビュー 印象に残った言葉 従って、意拳では、套路を通じて、外部から新しい動きを自らの身体にしみ通す練習よりも、人間が本来持っている気の力(渾元力)を站樁…

意拳(『拳学新編』より)

第一節 意拳倡導之意義 人の身体は内外ともに一体であり、意と動は一致している。拳功と拳理には是非があり、内と外に分けることはできない。そのため、薌齋先生は内家と外家という拳の名に反対し、実用に合わない拳理や招法、套数にも反対していた。拳理を…

要論三(『岳武穆形意拳術要論』より)

要論三 気の本源は身体にあり、身体の各節には定まったところがない。三節とは上中下である。身について言えば、頭は上節、身体は中節、腿は下節である。上節について言えば、天庭は上節、鼻は中節、海底は下節である。中節について言えば、胸は上節、腹は中…

簿家聡整理:姚宗勲逸文

85年の一月に姚先生が臨終された際に、病で寝込む前に私に重大な仕事を託された。家に呼ばれたあと、所用する文字資料を整理して、後人に大事な遺産として残したいと頼まれた。恩師が亡くなられた後に、敖石鵬先生が責任者となり、承光先生が同行して姚先生…

斉執度先生の著書『国術新論(一)』

斉執度から『科学的内功拳』の著者への手紙 記者より:この原稿は拳学理論に対して、様々な検討をしている。斉さんの同意を得て、本書は学者の共同研究のために刊行された。斉さんの拳学の記録からいくつか取り出して、同じ道の仲間に代わり質問した。 先日…

要論二(『岳武穆形意拳術要論』より)

古より世には捶(=拳と同義?)について論ずる者があり、気についても論じる者もある。気は本質的に一つであるが、二つに分けることができる。二つとは即ち呼吸である。呼吸は即ち陰陽である。捶において動静が必要であり、気においても呼吸が必要である。吸…

釈拳(『拳学新編』より)

近世の拳術は多数の流派に分かれ、その方法は異なるが、拳と名の付かないものはない。しかし、拳の意義についての研究は少ない。多くの論者は拳の字の意味から解釈し、あるいは手を握ることを拳とし、あるいは勇力を鍛えて素手で敵を打つことを拳とするなど…

要論一(『岳武穆形意拳術要論』より)

散らばるものには必ず統べるものがあり、分かれるものには必ず合わさるものがある。故に天地の四方八方にある数多くの物事はそれぞれに属するところがあり、千頭万緒のように絡み合ったものもその起源を持っている。一から散じて数多くの変化が生じ、その多…

総論(拳学述要)(『拳学新編』より)

我が国の拳学は戦国時代より興り、後に達磨の洗髄易筋の二法と華佗の五禽戲とを合わせて、その技を形成することとなった。今日、多数の門派が存在するも、その淵源は一つである。どのような派閥であれ、拳の名を外れることはない。拳とはいわゆる拳拳服膺の…

姚宗勲先生の著書『站樁功的「意念活動」』

古来より先人達は「站椿」功に類似する多くの養生法を伝えており、例えば「独立守神、肌肉若一」、「以形為体、以意為用、以静為和」、「勢以意変、形簡単意繁」等と言われたものが有った。その中の「守神」、「以意為用」と「勢以意変勢」は皆、意念活動の…

韓嗣煌先生の著書『発力』

一.拳術を鍛錬する者が朝夕と求めているものは「拳勁」の運用、即ち「発力」である。拳術を鍛錬する者が言うには、「発力」は基本功訓練の総合的な体現であり、動作と力量の調子を統一した高級な表現の形式である。従って「発力」は各方面の基礎的訓練を組み…

試力(『意拳大師王斌魁講拳語録』より)

1、争力を求める:上下、前後、左右(六面)は均く争力がある。前膝と後ろの胯は争力を要し、同時に合力も要する。 2、肩部を緩めることができているかに注意する。少なくない人が肩部を緩められていない。試力は腰、手、腿の間に発生する争力に問題がある。…

論存意与養気

神、意、形、力、気、法はどれも同じように重要で、練習と実際の応用時に要求を守らなくてはならない。 神は外に溢れず、意は形を表さず、形は体を破らず、力は突出せず、気は全身を貫き、法は自然に合う。基礎練習は在意と養気のためであり、意が在れば神は…

張広玉先生の著書『拳道一体 』

多くの人々は、渾円内拳の技法を技撃や格闘技と認識するが、実際はそうではない。中国のすべての国粹と同じく、深い民族伝統と文化背景を持ち、その精髄を武術中に表現する。渾円内拳の技法の豊かな意味と哲理は、千変万化の”道”の博大なる深淵をも体現して…

王薌齋先生の著書『談談試力和試声』

試力は習拳の中で最も重要で最も困難な部分の工作をなす。試力は力がどこから来るのかを知り、力は試すことでまた知り得る。さらにこれを知ることで、その用を得ることができる。練習時は身体均正、筋肉軽霊にしなければならず、骨格毛髪はみな支えるように…

拳道喪失之原因(『拳道中枢』より)

習拳には三つの原則がある。一つは健身、一つは自衛、一つは利群である。利群は人のなすべき職務であり、その基本の要点は心身の健康を得ることで完全となることで、不健康では精神を充足することはできず、精神が不足すれば事跡を歌うことも泣くこともでき…

論点穴(『拳道中枢』より)

点穴の説は世間の人がみな奇怪に思っているが、点穴道、時間を述べる者があり、その種々の分論は止まない。それを聞けば、人生吐き飽きるが、皆そうであるわけではない。双方の技を比べるとして、敵と力が均しい時、固定の穴を打つことは容易ではない。言う…

論拳与器械之関係(『拳道中枢』より)

古くから「拳は兵器に成り、刀槍だけを習うなかれ」と言われる。拳中の真理を獲得したなら、各力の能力、面積の屈折、長短、斜正の虚実、三段九節の効用、路線の高低の方向、接触時間の火加減を回復する。意と神を理解したなら、刀槍剣棍など各種兵器に付け…

論拳套与方法(『拳道中枢』より)

拳の深淵さは無窮で、たとえ学者が比類ないほど賢く、信じて疑わず行う精神を備え、一生を習得にかけたとしても、極めることは難しく、拳套の方法は人造の拳架である。清の時代から三百年、一般の門外漢が役人に表演して自己満足し、拳を生計の道具としてき…

力之運用(『拳道中枢』より)

神意の他にも、力の運用は更に欠かすことができず、それは良能の力であって、一面の力ではない。大部分は試力によって求め、習時は偏った面積の部分ではなく力量の均整を求め、次に点の力の均整から虚実の偏りを吟味し、適切な試力と発力をもって偏った松緊…

神意之運用(『拳道中枢』より)

技撃の站樁は具体、空霊、均整を要し、精神は充実して、神は霧の中の豹のようで、意は霊犀の如く、具体は荒馬が奔放のよう、神は鳴いて噛む勢いがない。頭は頂、項は竪、頂心は按縮、全身が鼓舞され、四外は牽引され、足趾は地をつまみ、両膝の撐撥力は上を…

技撃樁法(『拳道中枢』より)

技撃樁と基本樁は神形が僅かに異なるが、依然として原則に基づき、歩は八字の形をして、丁八步と呼び、半分は丁で半分は弓矢の八である。両足の重量は前三後七、両腕は撑抱の力があり、内七外三、いつでも発力でき、力の始めは平均で、平衡が後で、火器のバ…

自衛(『拳道中枢』より)

自衛は即ち技撃である。大動は小動に及ばず、小動は不動に及ばないことを知らねばならない。不動は動いて止まない動を生むことを知らねばならない。機械の車輪や子供の捻転のように、快は外の極に到って、不動に似る。動を観るにまさに不動であり、無力の表…

試力(『拳道中枢』より)

以上の基本練習を行えば、相当の基礎ができ、一切の良能は発展し、日を追うごとに増強される。そうした後、継続して試力を学び、各項の神情の力量を体認し、真実の効用を期する。試力は拳術の練習の中で最も重要であり、最も困難な部分である。試力は力の由…

站樁(『拳道中枢』より)

站樁は穏やかに立つことで有り、平均の站立である。基本樁を初めて習う時は、まず全体の構造を正しく配置することから始め、内は清虚、外は脱换し、力は抜いて自然にして、頭は真っ直ぐ、目は平行にし、体の端を真っ直ぐにし、神は雄大、力は均等に、気は沈…

抽象虚実有無体認(『拳道中枢』より)

習拳入手の法はただの一端ではなく、結晶の妙であり、風が吹けば草の全てが動くように、神形意力が互いに一致した運用である。この種の運用は全て視れば無形で、聞けば無声で、本体も像もない。有形であるところは、勢は空中の旗のように揺らめいて定まるこ…

習拳述要(『拳道中枢』より)

近世の操拳を学ぶものは筋肉を曝け出し硬いところを人前に誇示している。このような運動家の表現は、奇形の発達が衛生の妨げになり、用いることができず、生理が最も忌むところで、運動の値打ちが全くないことを知らない。近年私はその事を何度も指摘したと…

自志(『拳道中枢』より)

拳の道は大きく、民族精神の需要を反映し、国の学術であり、人生哲学の基礎であり、社会教育の根幹である。その使命は人の心を修正し、感情をさらけ出し、生理を改造し、優れた能力を発揮させることである。これを用いるものは賢くなり、身体は健やかになり…

王薌齋先生の著書『拳之剛柔相済論』

当局が国の武術の復活を提唱して以来、学習者は日にますます増え、霞商を捕まえるが如く盛んになっている。国の武術は端的に二つの部分がある。一つは健身であり、一つは自衛である。その功は非常に偉大である。この文章の目的はこの武器について、私の一言…