意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

習拳述要(『拳道中枢』より)

近世の操拳を学ぶものは筋肉を曝け出し硬いところを人前に誇示している。このような運動家の表現は、奇形の発達が衛生の妨げになり、用いることができず、生理が最も忌むところで、運動の値打ちが全くないことを知らない。近年私はその事を何度も指摘したところ、理解のある士は共感してくれたが、俗の愚かな多くは心を害した。口悪く誹る者はこの真実が合わず、不平不満がある者、人類のために一人で凡そを学ぶ者、忠誠心があり聡明な者はこれを認めることができない。社会で理解するものは少なく、水準の低さが見受けられる。私は拳道の永久を計っていて、私的なことではなく、各地の諸賢に届くことを望んでいる。拳道の由来は禽獣が戦う様であり、その形を真似し、その意を取り入れ、少しずつ進めてて精神假借を一切の法則として合わせ、技として始めたのである。近代の拳術家は形は全く似ておらず、精神と意感はさらに有益になっているか? また、力を用いれば停滞し、百骸は霊とならず、衛生することができない。技撃については、力を用いれば力を失い、法を用いれば術が尽き、凡庸の方法は局部を用いた後天の人造であり、本能の学ではない。精神は統一できず、用力も真実味がない。宇宙力の呼応を利用することができず、精神の範囲は限られ、動作は裹足は前にはなく、用力は抵抗に変わり、抵抗は敵への恐れから出る。どうして相手の撃を受けても受けなくてもこのようになってしまうのか? 用力の害は誠に大きい。力を用いることと意を用いることは同じく一気から生まれ、互いを根と為す。意を用いることは力を用いることであり、意は力である。筋肉が松(訳注:緩める)でなければ、永久に伸縮、遒(訳注:取り込む)放の力を得ることは出来ない。養生と高い水準の運用がいかに得られるのかは分からない。ただ、意は形から自ずと生まれ、力は意が転じるのに随い、意は力の総帥であり、力は意の軍であることを知らねばならない。いわゆる、意は緊にして力は松、筋肉は空霊、毛髪は伸び上がり、力は棱を生む、である。これらがなければ、自然の天趣(訳注:仏教用語。天道に同じ)である意中の力を得ることはできない。本拳は20年前から存在し、一度は"意拳"の名を持っていた。意の字は精神を表し、本拳が意感と精神を重んじるという意味である。元々は人を覚醒させるという思いから名付け、正鵠を得るのではなくそこに向かわせるという覚悟であった。どんな一般の拳術家も各々私見を持ち、長期にわたって形成された悪習は改めるのが難しく、多くは賛成せず心を動かさない。短所を捨て長所を取り、どこにあるかを検討せず、古くあるものを大切に守ることを望んでおり、どうすればよいものか。遂に私の願いが叶わないのは残念だ。私は自分の智力が波に従い流され、拳道の真義が永遠に沈んでしまうことを許さず、大声で叱咤し、麻痺を奮い立たせて覚醒させることを望む。このわずかばかりの志は止むことがない。