意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

抽象虚実有無体認(『拳道中枢』より)

習拳入手の法はただの一端ではなく、結晶の妙であり、風が吹けば草の全てが動くように、神形意力が互いに一致した運用である。この種の運用は全て視れば無形で、聞けば無声で、本体も像もない。有形であるところは、勢は空中の旗のように揺らめいて定まることがなく、風力に応じる、いわゆる大気応合である。また浪の中の魚のようで、起伏は方向を定めず、触れることで縦横往還を触れることで聴き、機を見て感じたままに動き、発しては虚霊となり、沈黙を守る精神である。虚無を以て有となし、有のあるところに無が存在し、誠と老荘、仏釈は無為を有為となし、万法はみな空即実であり、一才の学理も僅かに似たものを称している。俏逸の絵画において天地が無窮であることも同じことである。その機と趣は無形と神似の間で完成する。これは意が求めるところである。習う時は鏡の前で動作を行うことを戒め、形を求めることを恐れる。そうなれば、内は虚になり、神は散ってしまう。習うときは三尺の外、七尺の内、四周に大刀、斧を持った敵と猛獣、毒蛇がうねうねと来ると想定し、その中で生き抜く情景があり、須く敵なし恐れることのない精神で、虚中に実を求める。強大な敵が林立する中で、我は無人の境地で周りを旋回し、実中に虚を求める。日々深く修養を体認し、全ては抽象の中から獲得する。いわゆる神意が足ることを求め形が似ることを求めずであり、対象が存在することを許さず、一切から解脱する。習う時は次のようなことを心に刻まなくてはならない。即ち、慢を要して神は速く、手は空とならず、意は空回りせず、微細な点の力と動作は具体で応じないところがなく、内外は相連し、虚実は求めあって一貫し、いついかなる時も技撃の感(本能)がないことがない。もし速度を求めれば、一切の経過は滑落し、何から体認の作用を得るのだろうか? 故に初学は須く站樁を基礎と為し、徐々に会得してから、神形意力を一貫させ、また四心(頂心、本心、手心、脚心)を相合させ、神経を統一し、一度動けば動かないところはなく、微かなところは合わず、四肢百骸はその中にあり、執着せず止まらず、大気に再び呼応し、各点の松緊はお互いを用となす。己の身から離れれば何も求めることはできず、己の身に執着すれば何も得ることはできない。この言葉を細心に会得すれば、拳の道の奥をおのずと伺うことは難しくないだろう。