意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

斉執度先生の著書『国術新論(一)』

斉執度から『科学的内功拳』の著者への手紙

記者より:この原稿は拳学理論に対して、様々な検討をしている。斉さんの同意を得て、本書は学者の共同研究のために刊行された。斉さんの拳学の記録からいくつか取り出して、同じ道の仲間に代わり質問した。

先日、拳友が私のところを訪ねてきて、大著『科学的内功拳』の一書を示してこう言った。「この書は近世の拳を教えるものの錯誤を是正し、拳理を明らかにし、学者の正しい軌跡を開拓しており、拳学、有志にとってめでたいことである」。私は書を受け取り、三時間で読み終わって、心服し、驚き、また疑問を持って質問したいと感じた。

高著は「国術」の二字の命名に反対し、国境を限定することの誤りを指摘し、見えないものを見て、道でない道に入り、広文は論に至り、これは心服すべき、驚くべきものである。

陰陽五行について、ある解釈では適当ではなく、満足ではないとし、それが何であるかを知っていても、それがなぜであるかは知らないと単刀直入に述べ、自分が何であるか知らないことを拒み、自ら欺くものは道に背いて、急げば急ぐほど遠ざかっていく。このような快論は迷うものを覚醒させる。これが二つ目の心服すべき、驚くべきものである。

「胸部の緊張、肌肉の緊張、これらはすべて無意識で、この種の緊張は望ましいものではなく、無意識に部分が緊張することは往々にして多く、一般の人は認識することが難しい」「子供の胸部は緊張しておらず、緊張は苦痛や恐慌を経験した状態であり、その中の恐慌は内臓の筋肉を収縮させ、自然の位置に落とせなくなる」。以上の二つの段落は緊張の害について論じており、見地が高く、驚かせられる。しかし、「緊張」の二字は、拳学の運力中で争力の原理の作用に適用され、意、気、力に自然に応じ、内外から一致する、至るところに注がれる作用である。功夫が精に至れば、自然に出て、この種の作用は不知不覚の妙である。この境界に至れば、正拳家がいうところの「緊張が一致すれば、動は嬰児のようである」である。ここに見られる「緊張」の二字は軽率に引用してはならず、再び「胸部の緊張、肌肉の緊張、これらは無意識の緊張である」という言葉について推し究めると、吃力が緊張であると誤認しやすいが、誤りである。吃力は常人あるいは初学者が犯しやすい病態であり、当然どこに吃力があったとしても、末梢神経は刺激を受け、すぐに反応し、神経の中枢が傷つくだけではなく、気力の運用を妨げ、全身を滞りなくすることができず、生理に反するところが甚だ大きい。学ぶものは立ち入らないように、気を付けなければならない(劉文華から形意拳を長く習っていた斉経堂一族は、手足に吃力があり、終始神経が正常ではなく、古人の「一致緊張」の言葉を誤解し、緊張していた)。前に述べた「子供の...緊張していない」という言葉は、その反対である。おおよそ拳は意気力が合一することを主張し、緊とは何か、張とは何か、さらに緊張とは何か、体認と工夫を得て、自ずとその深い理を知るものである。緊張と吃力は、実質が同じではない。これが三つ目である。

「内功拳は形意拳太極拳八卦掌意拳の総称である」という言葉を読んだ時、先生は上述の各拳の認識が深くなく、そうでなければどうして意拳と他の拳を同列に扱い、「内功拳」の三字で称するだろうか。世の人が意拳の名前を知ったのは、1926年に私の師の王薌齋先生が提唱して以来である。意の名前を拳として、拳理の所在を示した。その練習方法は站樁を重んじ、各種形式の変化の套数について論じず、動静はすべて意の領導で、意気力を一つに合わせ、拳功は争力の妙用にある。王先生が「意拳」の名をつけたのはこのためで、拳学の真義であり、古今の内外の宗派の争いにならぬように、王先生が意拳の主旨を提唱し、学ぶものは同じ道をいかないように注意しなければならない。私はかつて、形意拳太極拳八卦拳の三拳を学び、その姿勢の妙用、および各々の病について認識したが、それぞれ異なっていた。王先生についてからは、練習を辞めて、人身の内外が一体であり、意と動は一致し、拳功と拳理の是非があるだけで内外の区別はないことを深く認識した。拳学を発揚させるためには、「内功拳」の三字を出せば、宗派の見方になってしまう。王先生がこの書を読めば、どのように溜息をつくか分からない。意見の相違があり、これが問い質すべき点の四つ目である。

「全身が緩んだ静止」という一節で、「内功拳の練習の前には一度全身が緩んだ静止の準備姿勢をとる必要があり、この種の準備姿勢は重要で、完全に力学的な原則に適合している」という一段がある。この段で述べられている方法、力学的支点は、王先生が教授している樁法によく似ているが、惜しいことに体の各関節、站樁の法則や作用について詳述されていない。支点と作用点は併せて解説して初めてその奥理を得て、その妙用を尽くすことができる。この書は作用点の名前を出しておらず、姿勢が静止している理由と支点の内容について詳述しておらず、人の疑問を打破できていない感がある。

支点と点力、これらは共に争力の作用を説明する名詞である。支点は、静止時の争力の作用を説明するものであり、点力は、敵との接触、つまり二つの力が接触する時の争力の運用作用について説明するものである。拳を習う際、これらを得ることができれば、意気力は動静一致となり、古人が言う「その環中を得る」を会得することは難しくないだろう。「一度満体弛松」という六字は、明らかに静動が異なることを示しており、この議論は賛成しがたい。なぜなら、拳法を学ぶ者の意気力の運用と争力の作用は、動きがあるか無いかに関わらず、一致しているというのが、拳学の変わらない真理であるからだ。「一度」という二字は、静止時はそうであり、動作時はそうではないと解釈されているが、動作時にそうでなければそうである必要がなく、弛松の必要性もない。この「弛松」という二字を読むと、王師が「心を放下し、全身を松開させる」という言葉で初学者に指示していたことを思い出す。これは初学者が力を使いすぎ、気を怒らせるのを避けるためのものであり、この段落で述べられている「弛松」という二字とは、全く異なるものである。静止時はそうであり、動作時はそうではないとは言えない。これが問い質すべき点の五つ目である。

「動作の際、緊張状態が胸部から腹部へ移る」ということは、胸部を寛がせて、腹部を実とすることを主張している。しかし、胸部を寛がせて、腹部を実とするという状態は、拳を習う者の常態ではない。これは敵に発力する一刹那にのみ、運用上現れる現象である。古人がいうところの、敵に応じて発力し、両頂三尖、開声吐気の時であり、動の時はこのようなものではない。また、肩を垂らし脇を支え(=撑)、心窩を微かに収め、胸部を虚にして気を調え、下腹を松円とする(この「松」という字は自然さを求めている)のが、練拳の変わらない規律である。原文にある、動の時に緊張状態が胸部から腹部へ移るというのは、胸部の吃力のことであり、それにより気は力み、下圧が腹部に至るのではないか。そうであれば、自然を失っており、運気丹田、入力丹田という偉大な論と矛盾しているのではないか? これが問い質すべき点の六つ目である。

「人の意識は外と内に同時に向かうことができず、俗に言う“心は二つに用いられない”というのは完全に確かである。外への意識と内への意識は、交互に途切れるように使われるべきである」という。人の身体の各部分の動作は、一意の支配を受けている。これが意は二つに分かれない(心は二つに用いられない)ということである。人の身体は整体であり、ある部分が動けば他の部分もそれに応じる。どの部分であれ、動静は一つの意によって統一されないところはなく、十分に配慮されている。今、外と内の意識が交互に使われると言うが、これは「心は二つに用いられない」という言葉を誤解しているのではないか。内と外が一体であること、争力の作用が明らかになっていない。しかし、実際には心得を体得した言葉である。これが問い質すべき点の七つ目である。

「意識と動作の一致、これは形意の合一である。意識、動作、呼吸の一致は、気意力の合一と称される。目光は古術においては神と呼ばれ、故に外に力を用いる際は、神気意力の合一が必要である」。この段落の主旨は明らかだが、神気意力を如何にして合一させるか、詳細が述べられておらず、これは学ぶ者への入門の方法を示していない。今、この「一」を極める道は、一意の支配にある。その功は站樁にあり、全身が一意の支配下にあり、各所で同時に交互の争力が生じる。このようにして、神気意力は自然に合一する。これが問い質すべき点の八つ目である。

「流布されてきた種々の姿勢を研究すれば、実に科学的な理由があることがよくわかる。しかし、この書籍では各種の姿勢について詳しく解説することはできない」。この段落での「各種の姿勢」とは、拳套を指している可能性がある。この論は拳套の各種の姿勢が、それぞれに非常に科学的な理由があることを認めているが、弛松で静止した姿勢や力学的な支点に関する理論については合致していないようだ。静的な姿勢は意気力の一致をもたらす、自然な発生の法であり、練習によって得られる。どのような動作であっても、その意気力の合一は静止時と変わらない。もし姿勢が変われば、意気力の運用もそれに伴って変わり、差異も生じる。それぞれが極めて優れた科学的理由を持つため、それぞれを再び解説する価値がある。このように見れば、貴著の持つ理論は、前後ともに実際には一貫して通じ難い。これが問い質すべき点の九つ目である。

全書を通覧すれば、静止した姿勢に重きを置き、力学的な支点を求め、さらに自然、適意、放心、そして神気意力の合一を説いている。坐、立、行、止、一挙一動、等しく練習し、健康の養生や病気の治療にも役立つと主張する。多くの論述は、王師が初学者に教える際の言葉や、常用されている貫言(の一部)に似ている。書中には意拳の名が再三述べられるため、筆者は王師の門徒ではないかと疑われる。しかし、昨年、王師が北へと旅行した際、そのことについて言及せず、そのため再びその真実性に疑念が生じる。もしそれが事実でないのであれば、意拳という名を述べるならば、その名前の由来について詳しく語るべきではないのか。さらに、筆者が王師の友人から間接的に王師の論を知り、それを自ら拡張したのではないかと疑う。そのため、一貫しておらず、矛盾が生じている。そうでなければ、どうして多くの似たような言葉が存在するのか。これは疑わしい点であり、問い質すべき点の十つ目である。

以上、私の拙見を述べたが、多くの誤りや誤解があるかもしれない。正確に校正していただきたく、感謝の念に堪えない。さらに、拳学においては、お互いに誠実に接するべきである。宗を分け派を別れて、勝負を争い合うのは非常に悲しむべきことである。。今日の拳学が不振で、拳理が不明なのは、この点に問題があるのかもしれない。故に、今日の学者は同じ道を求め、宗派や門派の考えを捨て、拳学の真理を共に研究することが必要である。文章の記述に関しては、本質的でない空虚な文章は避けた方が研究に便利であると考える。しかしながら、貴下がこれについてどのように考えているかは、私には知る由もない。敬意を込めて、貴方のご多幸をお祈り申し上げる。