意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

論拳套与方法(『拳道中枢』より)

拳の深淵さは無窮で、たとえ学者が比類ないほど賢く、信じて疑わず行う精神を備え、一生を習得にかけたとしても、極めることは難しく、拳套の方法は人造の拳架である。清の時代から三百年、一般の門外漢が役人に表演して自己満足し、拳を生計の道具としてきた。拳を研究しようとする者はこれを習う暇があるのか? 全く無用なだけでなく、神経、肢体、脳力を妨げ、具体の一切の良能を害し、故にこれを習う者は極めて知識がなく、実用には役に立つことがなく、害が極めて多く、書き尽くすのは難しい。拳の使命からして、衛生の原則から大きくかけ離れ、根本について語らない。技を較べれば、不要な方法や拳套があり、野蛮で混ざり気のある撃でも敗けに到らないかもしれないが、もしこれを用いれば必敗は疑いがない。いわゆる五行生克の論は三尺の自動でも信じられないと思うが、誰が信じるのか? 決闘者にこれを聞いてみれば、自ずと私の言葉に偽りがないことを知るだろう。漢書の範五行識を見ると、政治、人民の需要を指し、金、木、水、火、土を開発して応用している。後に一般の不学の識のない輩が濫用して採用し、妄想で偽造し、いわゆる五行生克の秩序をもたらし、香具師がこれを口伝で言い伝えた。どうして学者がこれを読む価値があるだろうか。おおかた拳套についても、大部分は人が偽造したことが知られ、招勢と方法もまたどうして人が偽造していないだろうか? これらはみな、拳の原則である本能発揮の学ではない。よしんば純粋な功夫を忍耐強く信じ続けたとしても、その成果は残り粕に過ぎない。拳学の根本は無法で、無微無法ともいい、一度方法があれば精神は一致せず、力は篤実にならず、動作は緩慢で速くなく、一才を統一できず、良能から背くことになることを知らねばならない。法とは原理原則の法であり、板に彫った字のような型通りの取るに足らない方法ではない。それは藪医者のようであり、学ぶ者はすべからず方法と処方を患者に準備し、患者は病気を調べる、そこには否定するところがない。拳の拳套の方法はおおよそ、蛇神牛鬼ではなく大道を乱し、みな拳道の罪人である。現在の学者は探求の志があるが、経門に入る余地がない故に、私は強く説破したい。拳套の方法はいささかも無用で有害の長物であり、なぜ伝える者も習う者も気にしていないのだろうか? 知識が薄弱である人が多いために、好奇心や興味ゆえに真実を告げても理解して、行動することが難しく、拳套方法を習う者は世を跨いで人を惑わせ、拳套方法を持って人を欺き、時間を消耗することで生計を立てて、拳が何であるかの根本を理解しているのか? ゆえに止むことがなく誤って人を導き続けており、嘆かわしく、腹立たしい。あぁ、拳の一道はただ、一切の学術を感じ、大部分は奇形に発展して、自分の同類が迷い、救いがたいのを見るのは耐えがたく、故に私は長年の体認の経験を惜しまず、得たもの知ったものを繰り返し論じ、その妄想を正し、同胞を覚醒させ、妄念と不悟から回復させたい。おおよそ天地の間の高深な学術は、みな形は簡易で意は煩雑で、形勢が複雑なものは純粋なものは少なく、いうまでもなく拳の道ではない。これを同志が熟慮することを願う。