意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

拳道喪失之原因(『拳道中枢』より)

習拳には三つの原則がある。一つは健身、一つは自衛、一つは利群である。利群は人のなすべき職務であり、その基本の要点は心身の健康を得ることで完全となることで、不健康では精神を充足することはできず、精神が不足すれば事跡を歌うことも泣くこともできず、必ずしも身を犠牲にせず、身を捨てて義を取り、水域で溺れている人や首をつっているのを見て恐れ、萎縮して、前に進むことができず、いわんや困っている人がいれば刀を抜いて助けることができるだろうか? これに限らず、おおよそ身が弱い者は、気が小さく、情緒が悪となることが多いが、これでは器が伸びやかで、体が健康であることは不可能である。健身は人生の本であり、習拳は健身の基であり、一切の事業はこれに依り、その関係はとても大きく、どうして本物と見間違えて、天下を欺き、これを論じない者にこれを任せるのか? 拳道の最初は最も簡単であり、後に向かうにつれて複雑になり、拳道は生理の工具を改善し、良能の要決を発揮する。簡から繁に入ることができるが、繁から簡に入ることは、生理の原理原則に背き、不可能である。形意拳は当初三拳があり、三拳は一動作であり、いわゆる践、鑽、裹である。馬奔が連環するのは、一気に三種の力が合一した作用である。五行十二形はこの内に包括され、五行は原初の代名詞であり、五種の力の名詞である。十二形は十二種の動物のように各種の特徴を持ち、十二形と各種拳套を単独で集めたものではない。八卦拳もまた最初に単双換掌があり、後に浅識の者がこの真義を理解することができず、六十四掌と七十二腿という偽の方法を偽造したが、無益であり有害である。太極拳の流れもまた弊害が多く、生理方面での害は多くないが、それでも誤っており、一切の姿勢に少しも得るところがない。拳譜が論じているように、文字で正当なものと較べれば、精義は少なく凡庸なものが多く、具体的ではない病が大きく、近代の拳術は総論すれば、根本的に養生と技撃の当否について論じず、生理の要求を満たす一方すら存在しない。私は四十年余り大江南北を歩き、千万の拳家に会ったが、その均衡を得たものを見ず、まして精奥については言うまでもない。拳の本は形は簡で意は繁であり、終生習ってもその要義を明らかにすることはできない者もある。至善の境地に到達し、鳳毛麟角に属しない者は、この道の根本が不足しているのである。これは拳道の原理が難しいからではなく、一般人に平易な思想と屈強な意思が欠乏しているからである。今世は招式の方法が名をつけられないほど多いが、それは美観を得るために演じているからである。習拳がもし人を悦ばせることが目的なら、習拳を捨てて演劇をしてはどうか? 演劇中のなかも少しは本当のところがあり、一般の拳家と比べると高い水準がある。今の習拳者は若干の套と幾多の手が得意であると聞くが、ことさら不知であり、側で笑われ、しきりに嘆息されている。拳道の喪失は、拳套の方法ではなく、三百年来の歴史がすでに当たり前になってしまい、戻すのが難しく、次に習うものがこの波を推し進めている。四象五行の説、九宮八卦の論を演じ、河海の学者に及び、荒唐玄奇の文句を言い、できるだけ取り入れてこじつけ、学者が真実を明らかにできず、出鱈目なことに殺到し、原道の原理がどうして滅んでいないと言えるだろうか? この他にも套、刀、槍、剣、棍などいくつかの学があるが、これを利用して生計を立てようと欲すし、幸いに機会が得てその謀が上手く行く者、あるいは生計を立てれなかった者も機会があれば利用し、効法を争い、社会に広る、このような振る舞いは拳道の真義に背くだけでなく、義侠心も同じように廃止されてしまう。特別秀でた者を許さず、拳中の真奥を窺うことができ、長い間にできた見識とは異なり、精華を人に示そうとせず、江洋の水がなぜ人に危害を及ぼすかを知らず、見識が広がらずに小さいままになっているのはなぜか? もし学術が人類の共有であり、得るところがあれば、当然社会に公にすべきであり、どうして覆い隠して隠してしまえるだろうか? 

近頃、仏門に頼る者が増え、神や霊の話、どのように修道をし、どのように仙人に会うかという荒唐無稽な話や、邪悪で混乱した方法にさらに過激なものまで、本当に驚くべき話をしていると耳にする。実に嘆かわしいことだ。今は科学が進んでいる時代でありながら、このような間違った言説を人々に広め、新聞などに掲載するなど、このような愚かな人々は、真の恥知らずである。仏が実際に霊的な存在であるならば、このような間違った考えが広まっていることにどう思うのだろうか。生計を立てる方法は一つではない。なぜ人々を欺き、社会の弱点を利用して自分も欺くのか。これについて考えると、拳道を悲しむばかりでなく、世の中の道徳や人々の心を嘆くことになる。

拳道の衰退は、確かに罪康や雍の二帝の時代にその技を前面に押し出し、本来の道を踏襲しなかったことが原因である。しかし、同時に仲間たちの知識や認識が不足しており、根本的な性質が悪かったことで、彼らに欺かれてきた。結果として、誤った伝統が今日まで続き、真実の道を見分けることができなくなってしまった。覚醒した者もいるかもしれないが、門派を守る先入観から他者を批判する傾向が強く、拳道はさらに衰退している。拳道を正しく学べば、身心に良い影響をもたらし、一切の仕事にも役立つ。しかし、誤って学べば、品德、神経、身体、性情すべてが異常になり、生命に悪影響を及ぼすことがある。過去には、名高い拳術の達人が筋肉の不調で麻痺や萎縮を引き起こすケースが多かった。拳を習う目的は養生のためだったが、逆に命を縮める結果になることもある。拳道を国の国粹と称える人も多いが、そのような国粹が身体を壊す道具となっているのではないか? 民国十五年以降、各地に国術館が設立され、他の技能は国の一字を称するにふさわしくないとされている。しかし、この価値のない国術は我々の国だけに見られるもので、このような名前をつけるほどの人物はまだ現れていない。私はこれほど大胆な者たちが何を考えているのか、理解できない。また、運動を推進する偉い人たちが日々その利点を叫んでいるが、実際には、そのような健康的な活動をしている人たちは早死に近づいている。あぁ、なぜこんなにも盲目的に追従するのか理解に苦しむ。私は人々に真実を静かに考えるよう願っている。身体は人生で最も価値のあるものであり、盲目的に破壊することは許されるのだろうか? 師に師事して技を学ぶことは慎重に選ばなければならない。私が拳道を学ぶ際には、正しいか間違っているかの判断しかなく、門派や派閥の違いを知らなかった。拳道が再び繁栄するように、私は生涯の知識と経験を後継者に伝えることを願っている。さらに、社会のすべての人々がそれを理解することを願っている。私は、人々を家族のように思っており、師と弟子の関係を持ちたくない。門派の概念を排除することで、拳道が再び繁栄することを願っている。