意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

論存意与養気

神、意、形、力、気、法はどれも同じように重要で、練習と実際の応用時に要求を守らなくてはならない。

神は外に溢れず、意は形を表さず、形は体を破らず、力は突出せず、気は全身を貫き、法は自然に合う。基礎練習は在意と養気のためであり、意が在れば神は足り、気が足りれば力が備わり、神意が足れば形骸は自然となり、法は自ずと自然に合う。操拳は意識せずとも良い形となる。身体の外に意があるが、この意は身体の内にも存在する。自身から離れれば何も求めることはできず、自身に執着すれば永遠に正しいところはない。ただ、性と明理を見出した後に身体の外に求めるべきであり、意は宇宙の間にある。「気を持ち上げることは間違いであるが、気を沈めることも正しくない」とされている。気が全身に充満することで生命を養い、力を増加させることができる。全身の「毛穴呼吸」は特に重要で、その功用は鼻呼吸よりも大きい。

いわゆる拳とは精神気質を鍛えるための道具である。身体を動かして筋骨を伸縮させ、気血を川のように流通させることで身体を強健にする。これは気質の鍛錬に属する。筋骨がどのように動かされるかは、精神の側面に属する。身体の動用は一意の支配によるものであり、意がそれを図る。これが精神現象の総称である。意の方向にすぐに神が向かい、全身がそれによって動き、力を発し、自然に外に現れる。このことから運動の源は意から生じ、この意が全体を統一している。これを知覚し、認識し、対応することで、虚実、動静が互いに根を為し、すべて意によるものであることがわかる。この妙用を達成するためには、争力の発生と意の支配の二つの言葉を理解する必要がある。意、気、力を自分自身の外に適用するためには、それを運用する空間が必要であり、意、気、力が一所の中を守る。この空間がなければ、その妙用は成し遂げることができない。したがって、拳を習う際に、この外部の空間を運用できれば、変化の妙は尽きない。練拳は空気中で遊泳するようであり、意が身の外にあって中を守り、身体は自然に均整になるようにする。また、習拳には意があるが、自分自身から意が離れることは不合理であり、自分だけを見ることはさらに不適切である。

拳を習う際は精神と気質を集中し、養生と鍛錬を合わせることで、まさしく拳と成る。この境地に達せんとすれば、意を存する必要がある。存意について、まず習拳の一般的な病を知る必要がある。それは速効を求めることである。速効を求めれば、貪欲になる。この念が一生続くと、身心は力を振り絞り、気血の運行を阻害し、真の力を外に出すことができなくなる。過度に助長して、速を求めれば達成は不可能である。故に用力を制止することが第一要素である。制止の方法は、ただ意を存することであり、意で身を検査する。少しでも拙力を覚えればすぐに挽回する。一動によって覚え、覚えれば転じる。久しくすれば自然に帰り、全身は伸び伸びとして力のない人と同様になる。その気力は全身に通じ、適宜応じて外に発し、すべてが順調に運ぶ。このように、力を用いればかえって害があるということを、学ぶ者はよく熟思すべきである。習拳の要訣は意が先に動くことにあり、古人が万語を尽くしてきたことである。力は動くことにより生じ、争力を基盤として、取勢を主とする。静から動へ、動から静へと変わり、これは動静から生じる勢である。力を運ぶ際、勢を得れば意に随って動き、得られない力はない。これが存意であり、力を用いない真の功である。心に応じて手が動き、意が至れば成し遂げることができる。勢が左に向かえば、意識は先に右を顧みる。勢が右に向かえば、意識は先に左を顧みる。勢が上に向かえば、下に垂れることを欲する。勢が下に向かえば、上に突き上げることを欲する。いずれもその場から一方的に進むべきではない。古い拳譜には、「用力は青蚕が糸を吐くが如く」と記されている。また、「起勢は担を持ち上げるが如く、進歩は槐虫の如く」とも言われている。虚中に実を取り、勢いを以てこれを行う。変化を一つに得るためには、まず順に引き、続いて逆に送る。これが勢の字の運用である。順拖逆送、互根互用、これらは同時に行われる。

拳を習う際は来勢と去勢を知らなくてはならず、来去の二字を深く玩味して、存意を得ることができる。どのように力を用いるかを知った後に、そのように力を用いる、このような考えは誤りである。動く前に意があり、動きが止まったとしても意は以前として存在する。これは初学者への言葉であり、それ知りそれを得てそれを在るようにする道の途中である。操拳は心を使わずに行うのが良く、写意の二字は最も精妙である。意は身体の外から中に来るのではなく、内から外界に達する。身体の外にも意は存在すべきであるが、この意は身体にも存在すべきである。学ぶ者はよく理解すべきである。

拳を習う際は拳理、拳意、拳形を知らねばならない。意は身体の外にも存在し、意を身体の外からも受け取る。このようにすれば、体の法則、神理を自然に得ることができる。拳の外形のみを習い、拳理や拳意を知らぬ者は、心を疲れさせ、意を乱す。何も得ることはできず、体や心に害を及ぼす。

ただ神意が足るのを求め、形骸が似るのをなぜ求めるのだろう。意が足りれば、神が足る。動けば意に従って力を得て、求めずとも自然に合う。拳を習う際は常に考えなければならない。なぜこの一動があるのか、この一動作の目的は何か、この二語である。体認し、努力すれば成せないものはいない。習拳には存意が必要であり、意を得る者はその前の一歩の功夫と知るべきである。得ることができないのに、なぜ在すると言えるのだろうか? 意を得る前に意とは何かを知る必要がある。意の字の説明は既に述べたので、再度述べる必要はない。功夫の字は動静の変化の中でこれを求め、いかなる場合でも一動の前になぜこの一動があるのかを先に問い、この一動が需要に合致しているかを再び問わなくてはならない。大小の関節、曲折の面積、点力、それらの作用は何か。更にこの動きが時機に合っているかどうかを問い、特に全身を検査し、不動の時のように完整で伸び伸びしているかどうかを確認する。このように拳を習えば、意が得られないことはない。存意は至らないところがなく、体の動静が完整で伸び伸びとすることは意の存在がなければできない。意によって身体を検査し、身体によって意を知り、自ずと意は存し、意存は意から出ない。そうすれば拳功は微細なところに達する。脳の中で存意を願う者は、念を存することができず、このような考えから意を誤用する。故に拳を習う者は自ずと意を知り、意を得て、意を存する。さらに意を知らずして意が存するに至り、意を知り、意を得て、意を存じる境地に達することができるである。有形有意はみな本物ではなく、技が無心に至って奇が見えるとはこのことである。

先哲が拳を論じるとき、神を専ら一つに守ることを常に言っていた。これは、存意の境地に達した後の状態と作用を示している。功夫がこのような境地に達していないのであれば、自然について何と形容できようか。身動と意が互いに忘れさることで、忘れないことができ、助長の害を避けることができる。

存意については、学ぶ者はこれを誤解しやすく、存意を一種の欲望の作用と考えることが多い。助長の病は多くの場合、欲求から生じるものであり、心を放ち、忘れないように努めることで、助長を免れる。「勿念勿忘」という爾雅の言葉がその真義を解釈するのに役立つ。欲望は完全に排除される必要があり、その拳功を神化として完成させるためには、この理論は間違っていないだろう。養気に関しては、気が調和していれば妄念は消え去り、無心でありながら神が清らかであることができ、神が清らかであれば心意が定まり、心意が定まると、気が充足し、不動のようになる。そのような状態を能動と言うことができ、心が外に出ず、意が外を想像せず、神が外に溢れ出ず、情が無駄に動かない。存意と養気から始めなければならず、これを捨てれば何の役にも立たない。

拳を習う者は気功について多く語るが、意見は分かれており一概に言うことはできない。神、意、形、力、気、法を同等に重視し、とりわけ気について初めに語らねばならない。養気の方法は極めて簡単であり、自然に従い、鼻で呼吸する。呼吸は細かく均等かつ無声で、静かで自然な呼吸が要点である。今、気について語る者は、この気が炭素と酸素の呼吸を指すことを理解すべきである。拳を習い、養気、調息呼吸をすることは、呼吸によって生じる弾力を活用し、拳の妙用を最大限に引き出すことである。世間の気功の達人とは異なる。

気が満ちれば力は強くなる、これは習拳の結果である。気の順逆や実虚は壮老や勇怯と関係があり、身体の四肢や筋骨の動きの変化はこれに寄る。従って、気がなければその用を養うことはできない。これは人体の原動力であり、力を強くしたいのであれば、気を養うところから始めねばならない。これは言うまでもないことである。

養気の功夫理気功夫とも言う。呼吸の方法を用い、体内外の気を川流のように絶えず流れさせる。気は体内もしくは体外にあり、その変化は神妙で無形に至り、微細かつ無声であり、体外から引き寄せて体内に満たす。操拳の際、推測することが難しく、動きは霊妙で、静かで真剣である。これら全てで気に基づかないところはない。気を養っていない者が、どうやってこれに到達できるのか。養気の道を軽んじてはならない。

今、養気について語る者が多い。また胸の中で強く呼吸して両肺を鼓蕩させ、あるいは気を腹の中に沈めて充実を求める。しかしその結果、気が滞って流れなくなる。これは養気の理を理解していないのである。養気の理は、呼吸が自然であることにある。力を用いて鼓蕩させることは許されず、意による支配も許されない。急がず、焦らず、ゆっくりと行い、自然に従う。気付かない間に呼吸すれば、全身の血流が動く。それが養気の真の功夫である。そうして古人が言った浩然の気を得て、次第に剛の奥妙を理解する。

世の中の人々は坐功を禅の秘密と考え、真理を得たと自認しているが、実際にはただの口先だけのことである。誰もが知らないが、腿を交差して座るだけで自然ではない。害はなくとも、得るものはない。ただ、一時的に精神が清らかになり、呼吸が静かなだけである。

気貫周身は養気の要訣であり、気が通じなければ、全身の関節は敏活とならない。なぜなら呼吸の運動によって全身の細胞が代謝を生じるからで、故に呼吸の運動は習拳の基本功である。この基点から派生する動作は、自ずと合理的な動きとなり、動けば自然となる。そして、自然に絶えず生まれる気を得て、その真の滋味を知るである。

全身の毛孔呼吸は、鼻呼吸と対応しており、その功能は鼻呼吸よりも優れている。しかし、多くの人々はこれを知らないため、今日の気功に関する議論では、鼻呼吸について多く語られ、毛孔の呼吸についてはあまり触れられていない。調息の際の要点は、均等で静かで自然であることであり、これにより急激で短い鼻呼吸を避け、肺活量を増加させ、毛孔呼吸と調和させる。従って、毎日の鼻呼吸を調整し、毛孔呼吸を均一にする。鼻呼吸だけを知り、毛孔呼吸を知らない者は、気力の使用に関して妙境に達することが難しい。身体内外の気の運用を理解していないからである。

肺活量を増大させるためには、肩を松として胸を虚にする。胸を怒らせて背中を押し出すのは間違いである。一度試せば自ずと知るだろう。習拳の際には、虚中から気を取る必要があり、その気は虚中の実である。動く時は、身体の外に無尽蔵の力と気を残す必要があり、全身の毛髪が戟のように直立して、気が梢に達すれば気が足りていると言える。力を見えない箇所が実際には力を持っている場所であり、呼吸を感じない時が実際には呼吸している時である。これに功夫を注ぐべきである。

神を用い、意を用い、力を用いない。こうすれば養気、調息ができる。川の流れは止まらず、神意と気を合わせ、この道の真の主宰と奥妙の機運を理解できる。前に養気では意の支配を許さずと言い、今度は神意を用いて意に重きを置くと言うのは、矛盾しているように思うかもしれないが、そうではない。意の支配で気を動かすことを許さないのは、気を滞らせ、自然を失うことを防ぐためである。意を用いるとは、気を自然に戻すための意念を持つことで、全身を均等に静かに保つことを意味する。言葉は異なるかもしれないが、意味するところは一緒である。前者は気を助けることになるが真気は乱れてしまうが、後者は用いられるなら忘れず、自然に任せることで気は整えられることを知らなくてはならない。

養気のためには調息が重要であるが、身体の外に求めず、気を用いて意図的に調えず、自ら調える。その法は遠方を見つめ、一点を定め、神と意と光を合わせる。動く時、その点も同じように動かし、その点が大きくなり、光が輪のようになる。初めはこの点を体から十丈ほど離して、眼と同じ高さで直線に置く。練習を重ねることで、この点を遠ざけたり、近づけたり、上げたり、下げたりすることができるようになる。この方法で行えば、気を養う必要がなく、自然に気が養われる。

気貫丹田、気沈小腹と、最近の拳家たちは言う。しかし、提気や気沈は間違っている。気を沈めれば自然ではなくなり、自然に任せることが最良である。先哲曰く:気を養わなければどう体を満たすのか、体を満たすとは気が全身に行き渡ることである。現代の拳家たちが言う丹田だけではない。

養気の道を得て功夫が一つ到達すると、気は自然に全身に充満して至らないところがない。ただし、腹部だけは発力する動きが異なるため、松円と実円の違いがある。松円は、気が最も静かな時であり、気が均等で、全身に気が貫き、渾噩が一致している普通の状態である。実円は、気が静から動に変わる時であり、胸は寛いで、腹が実になり、発力する瞬間の現象である。頭は頂、足は蹬、手は張、股は座として、気を腹部に注ぐ、これは変化した状態である。