意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

釈拳(『拳学新編』より)

近世の拳術は多数の流派に分かれ、その方法は異なるが、拳と名の付かないものはない。しかし、拳の意義についての研究は少ない。多くの論者は拳の字の意味から解釈し、あるいは手を握ることを拳とし、あるいは勇力を鍛えて素手で敵を打つことを拳とするなど、幅広い議論が存在するが、拳の真義を得た者はない。

薌齋先生は拳義の解釈について「拳とはいわゆる拳拳服膺の拳である。動静の中で守り用い、我々の気質本能の道であり、単なる套路を習って招法を数える拳ではない」と述べている。「動静の中で守り用いる」これが拳理であり、静を守り、動を用いる(静は即ち動であり、動は即ち静であり、その守用は一つである)。「拳拳服膺」を常に心に留めて失わない、それが我々の気質や本能の道である。套路を習って招法を数える拳ではないという言は、誤った道を選んでいる学者を正しい道に導くのである。

薌齋先生はさらに拳意について明らかにされた。「拳の拳とは、身体運動の形式がどうかではなく、筋骨気力の松緊の作用や、精神の指揮や心意の導きがどのように作用するかにある」。拳を習うに形式を重視するのは、本末の錯誤であり、末端を修めて根本を見失っているため、最後まで間違っている。根本を得られなければ、その実践と応用の実学を言うことはできない。故に機に応じて発し、勢によって変わり、動けばどこにも誤りがない。そのような神妙さは套路を習って招法を数えていても得られないものである。