意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

意拳(『拳学新編』より)

第一節 意拳倡導之意義

人の身体は内外ともに一体であり、意と動は一致している。拳功と拳理には是非があり、内と外に分けることはできない。そのため、薌齋先生は内家と外家という拳の名に反対し、実用に合わない拳理や招法、套数にも反対していた。拳理を明らかにし、拳学を発展させるために、1926年に意拳を提唱した。拳に「意」の名を付けることで、拳理の所在を示している。その練習方法は、站樁に重きを置き、実用を求め、形式や套数の変遷を求めない。いかなる動静であろうと、常に意が領動し、意、気、力を合一して、拳功と争力の妙用を尽くす。このことから、先生がこの拳を「意拳」と名付けたことが分かる。意は宗派や内外の争いをなくし、これを以て拳学の真義を残すものである。

第二節 意拳樁法

薌齋先生は意拳の站樁法について述べられた。「拳学の樁法において、陰陽動静、虚実開合、胸腹呼吸、鼓蕩は分けて論じることができない。すべて相互に根を為して用い、外感と混ざることはなく、一意の対応がある。これが意拳である」。

第三節 意動之解釈

意は我々自身に存在する心の動きである。その作用は自己のためであり、確かに存在して疑う余地はない。拳術を習うには、まずこの意を明らかにすべきである。そうすれば、動静は理に従って結びつき、身体に益をもたらす。西洋の諺に「身体の発展は、心の発展を促進する。身体の損傷の多くは、心の損傷である」というものがある。どのようにして身体と心を損傷せずに発展させるか? それは身心動用の合一を求めることにある。身心合一の動用は健全な動用であり、望ましい動用である。どのようにして身心を合一させるか? 心の動用は意に合致し、身体の動用、すなわち身心合一の動用は、自ずと身体を発展させ、益があって損のない動用である。これは自然の需要に従うものであり、合理に基づく動用である。

意は心の動きであり、この意を達成するため、全身を司るものは脳である。脳は身心の鍵であり、脳は軍の指揮官のようなものである。故に、習拳では、まず頭を直とし、意の発動は自由な決定に従うものであり、脅迫的な感情は伴わないものである。我々の動きは自然に従い、需要に合うように行われるべきである。これは意に合意の動用であり、自由な決定、すなわち本能の作用である。このような決定と作用は個人に属し、感じて身に受けることができるのは、その個人だけであることは言うまでもない。

人身の動用は二種類に分けることができる。合意の動用は有益な運動であり、意に合致しない動用は無益な運動である。意に合致しない動用は、心理学者が衝動的な運動と呼ぶものであり、欲望から起こる運動であり、正規の運動ではない。衝動によって、この衝動は欲望として変わり、欲望は執意となり、執意によって実際の運動が引き起こされる。したがって、衝動的な運動は自然に反する運動であり、自主(自由の決意)に基づく運動ではない。これを妄動という。このような運動では、必ず吃力を使い、吃力を使うと血がその自然を失い、神経が傷つく。故に運動の結果、心は反射的な衝動を生じる。神経の端が衝動を受けると、抵抗が生じ、同時に反射的な運動が生じる。このような反射的な力は非常に強烈であり、神経の中心は刺激を受けて損傷する。このような運動は、利益をもたらすどころか、むしろ有害である。したがって、拳術の練習では、妄動や吃力を使うことを絶対に避け、衝動的な運動も許されない。

第四節 合意運動

合意の動用、心理学者はこれを本能運動と呼ぶ。これは意(運動神経の知覚能力)によって全身の需要を考察し、意の支配に従って運動するものであり、自らから生まれて自然に従うものである。故に、本能運動は身心一致したものであり、需要に合った運動であり、有益で損失のない運動である。本能運動には、有意と自動の運動がある。有意運動は、心意によって支配される運動であり、その極致に達すると自動的な動きとなり、意の支配を感じずにその運動が意に合わないものはない。拳を習うことは、本能運動を発達させる作業であり、自動運動の境地に達しなければ、力を得て、気を得て、神を得ることができず、化境に入ることができない。