意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

試力(『意拳大師王斌魁講拳語録』より)

1、争力を求める:上下、前後、左右(六面)は均く争力がある。前膝と後ろの胯は争力を要し、同時に合力も要する。

2、肩部を緩めることができているかに注意する。少なくない人が肩部を緩められていない。試力は腰、手、腿の間に発生する争力に問題がある。特に両脚は力を有し、両脚の間は地を割くような意識がある。肩は意識する必要はなく、忘れてしまっても良い。

3、手は接触点であるため、試力時は手により大きく意念を用い、精神力を大とする。

4、肩部は無闇に動かす必要はなく、これは太極の病である。相手が中心線を打ってくれば、無闇に動かしても役に立たない。肩は身の一動に応じる、これが整体である。

5、試力の時は全て假借に応じながら、同時に内部の変化も考慮する。形が曲であれば力は余り、気を直に養えば無害であり、蓄えれば後に発する。

6、伸手は即ち矛盾である。手が下に体は上に、手が左に身体が右に、逆もまた然りである。矛盾的な動作、神態なしには、相手を惑わせるのは困難である。伸手は相手に錯覚を覚えさせる矛盾であり、矛盾はまた争力と呼ばれる。肢体の間、肢体と身体の間、身体と空間の矛盾などは全て理論上の認識と実践の中で会得する。

7、常に整体の力量を練習せよ。八方に空はなく、立感すれば即ち応じ、一度触れば即ち発する。本能を練習する。

8、力は空に出ず、意は空に帰らず。整体の勁、往復の勁を要し、捧、捋、擠、按は単独での使用を論じてはならない。

9、仮想の大敵と位置を争い、中心の一点を守ることを想像する。頭胸は敵の急所となる。人の勢に応じ、力を借りる。勁が断たれ意が断たれても神は連なる。重心は腰に保持する。頭項はつっぱって支え、天を頂いて地に立つの精神と方向を要する。四方には横膨れる感覚がある。忘れずに、切に記す。

10、身と手の矛盾は、試力でも表現することができる。手は前に進み、身は後に退く。手は後に退き、身は前に進む(左右、上下も同じ、逆向きに練習しても良い)。練習を重ねることで、身体はより渾円となる。

11、試力の際、意念の活動には争力があり、動作にも争力の表現が必要である。

12、身体活動の姿勢(架式)は、段々と大きくし、また段々と小さくする。大小の動きを全て練習することで、各種の複雑な状況に適応することができるようになる。

13、中国拳を研究するために西洋拳を練習せよ。「洋を以て中を用いる」。

14、物質的基礎ができた後、鍵は正確な精神(思想)による指導である。精神は本拳の鍵である。精神とは何か? それは産生的な力量の假借であり、假借は対象である。目標や対象があった時、精神により支配され、正しい意念の支配となる。

15、意、気、力は渾円でなければならない。局部、単線、上下、左右から開始するが、これらは渾円ではない。上下、左右、前後、直斜、横七竪八を有機的に結びつけること、これこそが渾円である。このような渾円は争力の中で求めることができる。一点が全身を牽引し、相手の一点を打つ時は、局部の力ではなく整体の力であり、あたかも円球が相手を打つようである。整体によって相手の局部を打ち、一体の渾円で相手の散体を打つ。

16、一般の拳術は縦勁、直勁あるいは横勁のみを持ち、渾円勁を持たない。多面力、渾円力を練習せよ。

17、試力の際は全身の各部が均等であるか、特定の部分に勁が使われていないか、空の場所が形成されていないか、あるいは過度に硬くなってこわばっていないかに注意する。意念が全身を観察できるか、もし全身を観察ができないなら局所的である。これらは試力の際の注意すべき基本的な問題である。

18、試力の際は、假借が非常に重要である。一挙一動に明確な目的が必要である。

19、站樁や試力(日常生活を含む)の際は、相手との接触点に意念を加えるようにする(全身に意念を加えるとかえって硬直してしまう)。手は最も相手に接触しやすいため、平時から双手への意念を強め。相手と接触した瞬間の手は、万力、鋼のフック、鋭い爪のようになる。手を出す時は鷹の爪に、引き戻すときは鋼のフックに似る。

20、行動(磨擦歩のように)の際は全身を均整として、特に頭は人を打つようにする。

21、站樁や試力(日常生活を含む)の際は自身がのびのびとすることを原則とし、全身の各部に軽重の感覚は不要である。

22、両手の掌は大小の魚が常に呼吸する必要があるのに似て、伸縮する。掌は固定、不変であってはならない。大小の魚が開閉する様子は発力と大きな関係がある。

23、一人で練習する時(力を試す時)、大敵が目の前にいるかのようで、一人で拳を練習するのではなく、体の外に人がいることを想像して、条件反射を利用する。絶対になってはならない。力は絶対ではなく、体には転折の余地があり、霊活でなくてはならない。

24、蛇纏肘は擰、裏、叨、挿、鈎、锉を同時に用いる。蛇纏肘は腰に鍵があり、单双推手で使用される。锉には大锉、小锉がある。

25、揉球式:快慢、剛柔は相済し、各種の形態で表現される:前走、後退、左、右、前後、高、低、上、下。意によって気を動かし、意、気、力が整体となって合わさる。これが最も良い練習方法である。円融に相通じ、他人に球を奪われることを恐れる。時々、球を持って外に打ったり、球と体を一緒に前進させたりする。随時球を発(発力)し、全身は調和して一致する。

26、三種(またはそれ以上)の操拳形式:栽拳、直拳(炮拳に似る)、炮拳(手を出せば拳になる)。操拳の際は体が揺れる(=蕩動)必要があり、体を揺り動かす。歩法は多様に変化しなくてはならない。

27、試力の際は、慢から快へ、軽から重へと至る。

28、試力の際には全体を試すことを求める。精神力を大きく放ち、一招一式の試力にしてはならない。全身を渾円とし、どこに触れても打つことができ、少なくとも回勁を要する。

29、歩法について、前足は冲踏し、身体は前に催し、頭は前に撞し、後足は蹬る。

30、拳は全身を打つのが法である。鈎、锉、叨、挿は揃って使用する。意念が一度動くと、身体は火が燃え上がるようになる。意拳は、精神力と意感を重視する。意が全身に行き渡る、これが具体的な精神力である。

31、假借とは唯物的な抽象であり、抽象は適切な真実を追求しなければならない。

32、具体的な動作の中から整体を求め、整体の中から具体的な物質力を求める。

33、站樁、試力、発力の際、人為的な条件反射(假借)を意念の対象とする。

34、前進後退左右転に動作は全て、局部的でなく全体の一致性を示さねばならず、単純な形体の運動のみでなく、形体と精神の一致性も求められる。

35、まず松、順、合を求め、再びもの(功夫)を求める。松、順、合自体が功夫である。

36、極度の破体の中に不破体を求める。あなたの師祖は、身体を後ろに倒して拳を操り、身体を大きく前に倒して拳を打つなど、他人から見れば中を失っているような動作をするが、師祖はそれでも力を出すことができる。

37、「内抱外発」。嬰児を抱くように、胸の前で落とさず、壊さず、同時に支撑力も有する。これを「内は嬰児を抱いて、外は発力する」と呼ぶ。

38、試力の時は、手の方向は変わらず、身体を変える。身は龍が遊ぶに似て、身形は間断しない。

39、叨手の単練は、双推手に役に立つ。試力の時は、定歩、活歩、前進後退、左右横行、常に全て練習すること。

40、技撃の各樁と試力の時は、手腕、腿、脚は上に引っ張られ、腰の中節は空にしてはならない。

41、試力の時は、神意を遠くへ向け、力を遠くへ発する。

42、形意拳の名家はこのように語った:脚が7分、手が3分、脚は提踩を要する。これは站樁、試力、発力、力の運用など、各段階における脚の重要性を示している。(その根は脚にあり、力は腿で発し、腰が主宰し、手で表現される)

43、一般的な人の力は長方形や四角形であるが、意拳の力は円や渾円であり、あたかも円球のようで、相手には点がどこにあるか感じさせない。固定点の発力、固定された姿勢からの発力、停止間の発力、運動中の発力、快歩や大動での発力など、すべてを練習する必要がある。

44、試力は上下で争拧することを求め、前後に動揺してはならない。

45、栽拳は、大栽拳と小栽拳に分かれる。小栽拳は用途が広い。円拳は中心線を超えてはならない。

46、蛇蜕壳:円形の鉄筒が腕に嵌っているかのように、突如振り放つことを要する。蛇蜕壳の樁功を練習するには:蹲襠式(又は丁八歩)とし、両手を肩より高く上げず、肩と同幅で、手指を前挿し、両腕の前に老牛の筋が引いているようにする。

47、站樁と試力の際、口中には珠を含むかのようにする。

48、技撃樁と試力の時は、首と脚はゴム紐を引っ張るかの如くである。

49、樁功や試力においては常に松静合を求めなくてはならない。

50、站樁は蓄力であり、全身に水銀を注いでいるようである。試力は水銀を活発にする。発力は水銀を鼓荡させて、体外の物体に打ち込んで、その効用を発揮する。

51、具体的な打法を具体的に練習する。四肢と身体が合わず、攻撃に致命的な殺傷力(重量)がない。具体的な練習中に精神力を強化し、具体的な打法の練習が完了すれば、それを運用できる。運用は法を述べず、思考せずに行う。具体的な打法を総合して運用し、連続して発力し、相手がどのように打とうと一気に攻める。相手が戦闘能力を失って止まるまで続ける。

52、千変万化は「円」から離れない。おおよそすべての動力は「円」から離れない。神円、意円、気円、力円。形骸が似るのを求めず、神意が足るを求める。「足る」とは円である。

53、伸手は脈を探り、道を尋ねるかのようである。

54、弾、抖、潑、揚の四種の力を練習する。弹には冲弹と坐弹の二つがある。

55、極めて緩やかで、極めて均整である。ほどけるものは開き、合うものはまとめられる。迅速に合わせ、具体的に合わせる。

56、拉手はオルガンのようである:行動中に力を運用する。

57、身法は手法と伴って動き、手法は身法と伴って動く。身体と手は一体である。

58、意は自ずと形より生まれ、形は意が転じるのに随う。

59、站樁や試力を行う際、精が満ちて身体が渾円であるようにする。精を練って気と化し、精がなければ気はなく、気がなければ力もない。神は内側に収まり、目を見開いてはならない。内部を感じ、全身の毛髪が戟のように立つ。これは精が満ちて渾円であることの表れである。

60、指の力の鍛錬を強化する。支点や直点の練習を多くする。静練と動練ともに、もの(意念)を支え、支点は破体を多く行う。

61、挂打の練習を多くする。左右の側面の挂打の多く練習すれば、推手への効果が大きい。単手で馬を引く動きの練習を多くする。偏った時には、走順の勢、単操の練習をする。

62、三頂:頭頂、手頂、脚頂を単独で練習せよ。

63、樁功と試力は三つの段階に分けられる:

第一の段階では、松静自然、精神愉快、舒展開闊、呼吸自然である。息を止めず、力も入れない。

第二の段階では、身体が均整で充実する。内部の実力が増加したことを感じる。

第三の段階では、試験時には恐れずに、用いることができる。技巧が配合され、神意力が充実している。拳学において既に小さな獲得があり、入門している。複雑な試力を深く研究し、実践を徐々に深める。拳術における中成である。大動から小動に至り、小動から不動に至る。これで拳学における大成となる。この「拳は無拳、意は無意」ができれば、巨大な作用を発揮できる。

64、試力の段階では、簡単から複雑へ、力と意の面は小さくて簡単で実行しやすい。大動から小動へ、極松から極緊へ向かう。

65、身体の練習を多く行い、荡動させる。先師曰く:「身体の動きは山が飛ぶように、力は海が溢れるように」。

66、ただ身体を鍛えるだけではなく、単に假借するだけでもなく、外界と本体が結合させる。無形によって有形を支配する。動静を結合し、まず無形(站樁)を鍛錬し、徐々に有形(試力)を鍛錬し、微動から大動へ、有形から再び無形を体得する。何年も日々反復すれば必ず成功する。

67、興奮と抑制を平衡させる必要がある。沈、提、推、拉、分、閉の間に力量を求める。神意力は統一し、合わせる。出収の間、行停止の間、竪、直、横、斜の交替の中で力を探る。拳を練習する際、縦、直、横、斜の四字を理解し、すべての動作をこの四字の中で体験する。二人が対立するときも、縦、直、横、斜の四字の中で動く。

68、脚と腿は錐のように、腰は車輪に似る。手、腕、身体、頭部はすべて螺旋勁を要する。

69、出手、出足は、蛇が舌を突き出すようである。様々な歩法を練習し、歩法と操拳を組み合わせて練習する。操拳は拳頭の上での力量の運用である。