意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

站樁(『拳道中枢』より)

站樁は穏やかに立つことで有り、平均の站立である。基本樁を初めて習う時は、まず全体の構造を正しく配置することから始め、内は清虚、外は脱换し、力は抜いて自然にして、頭は真っ直ぐ、目は平行にし、体の端を真っ直ぐにし、神は雄大、力は均等に、気は沈め、息はなだらかに、意思は遠くを望み、腰は真っ直ぐぴんとして力を抜き、体の関節は僅かに曲がる意で、いかなる考えも消し去り、黙って空に対し、内念は外で遊ばず、外縁は内を侵さず、神光が頭の頂点を照らし、ただ虚霊だけがあり、全身の毛髪が真っ直ぐに伸びて立ち上がる勢いで、体の内外が激動回旋し、宝樹の上から縄で吊るされているようで、外を支え、其の抑揚は神情に寄り添いあい、空気遊泳に似ている。後に筋肉と細胞が揺れ動くのが感じられ、鍛錬は自ずと得られ、自ずと正常な運動を知る。正常とは生理の道を改造することで、貧血であれば増加させ、血圧が高ければ下降させて正常とする。運動とは何かについて論ずれば、心臓の搏動は常態を永遠に失わず、平衡に発達し、精神方面では身は溶鉱炉のように視え、溶けないものはないことを体認する。各細胞が自然と同時に働くことを観察し、いささかも無理強いすることがなく、幻想を許さず、上述の鍛錬を行えば、筋肉は鍛えずとも自ずと鍛えられ、精神は養わずとも養われ、全身が伸び伸びとして流通し、気も従って変化し、本能の自然の力が内より外に出て、自ずと少しずつ発達する。しかし心身に一切の力を用いてはならず、そうでなければ血が僅かに注がれ、松和を失い、松でなければ気は停滞し、力は板のようになり意は停まり、神は絶たれ、神が絶たれれば全体が皆誤る。站樁、試力、技撃はただ呼吸が少しでも常を失い、横隔膜が少しでも緊となれば錯誤となり、学者は慎重にこれを行い、軽視することなかれ。