意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

総論(拳学述要)(『拳学新編』より)

我が国の拳学は戦国時代より興り、後に達磨の洗髄易筋の二法と華佗の五禽戲とを合わせて、その技を形成することとなった。今日、多数の門派が存在するも、その淵源は一つである。どのような派閥であれ、拳の名を外れることはない。拳とはいわゆる拳拳服膺の拳である。動静の中にあり、能く守り能く用いる。これが我々の気質や本能の道である。単に套路を数えて、専ら招法を論じる拳ではない。

拳学の一道は、特別に難しいものと考えてはならない。この上ない功夫も平易から得られることを知らなければならない。歩く(=行)、立つ(=站)、座る、寝る(=卧)、いつでもどこでも功を用いることができる。まず身体を正し、意念を空洞にし、神を凝らして気を沈め、情や縁を一掃し、静寂に調息する(すなわち養気の功夫である。孟子のいうところの「勿忘の境界」に達することがなければ、真に得ることはできない。尔雅曰く「勿忘勿念」である)。内外を温養し、邪気を取り除けば、筋骨気血は練らずとも自ずと練られ、養わずとも自ずと養われ、人の本能が徐々に発達する。初めは姿勢の優劣や繁簡を論じず、ただ全体の大小の関節が上下左右前後に用を為しているか、神経支配の大意、気血の流れと調息が発する弾力がどうかを見る。最終的には力を得て、伸び伸び(=舒暢)とさせる。その神情は、雲に浮かぶ宝樹が多くの木々に支えられているようである。あるいは、気の波浪の中で泳ぐような動揺である。毛髪はゆったりと互いに頼り合い、大いに長伸の意がある。気血は巨大な海の水のようで、波が横流しになりながら絶えず回旋する勢がある。精神は大きな鋳造の炉のようで、溶かせないものはない。そして、身心は、海を渡る際の浮き袋のようで、針一つ分の隙間もない。これが身心気血の修練の要点である。このようなものは、妄念を全て取り除き、動静が自然に合致していなければ、容易に得ることはできない。しかし、どのように行うとしても、心身の力を用いることを最も忌み、力を用いれば気が漏れ、気が漏れると意が停まり、意が停まれば神は断たれ、全身が非となる。試力の均整、肩架の配備、発力の自乗(争力の作用)、三角力の螺旋など、各種の力の構造は一つの力ではない。また混元假借の原則などの一切の法則を忘れてはならない。特に全身の枢纽の松緊、面積の曲折、敵に遭遇した際の接触時間の利用などは、言葉や筆墨で形容できるものではない。学ぶ者は、持続的な心と意志力で研究し、深く考察すれば、自ずと法の海に入り、道に通じることは難しくないであろう。