意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

意拳発力的「零起動」(『問道意拳』より)

伝統武術は「瞬撃術」を強調し、意拳は「一触即発」を強調する。「瞬撃術」と「一触即発」の前提は周身が一動すれば整となること、即ち「一動すれば動かないところはない」を可能とすることである。私はこれを「零起動」と呼ぶ。一動して整であろうとすれば、身外訓練の角度から言えば、先ず精神意念の假借が真実でなければならない。具体的な訓練は以下の方面から考慮できる。

一つは意念で身体の間架が遠くの大樹や遠くの白雲を引っ張ることを想像するが、実際に大樹を引き寄せることはできず、むしろ大樹を引けなかったことで自身の間架が開かれることになる、これは一種の「被動争力」訓練である。

二つは意念で身体の間架が前方の海水を押し、同時に身後が海水の抵抗力によって開かれ、左右も海水の阻力によって開かれ、周身に阻力と牽引力の両方があることを想像する、これは一種の「主被動争力」訓練である。

三つは意念で間架を取る時、例えば球を抱く間架の時、身体の前後左右が全て海水に押されており、身体が徐々に膨張するが、身体の陰面は同時に内側に収斂することを想像する、これは一種の「主動争力」訓練である。

四つは意念で身外の空間が徐々にまたは突然に後退し、自身の陽面を大きく引っ張り、自身の陰面が収縮集束することを想像する、これは一種の「被動争力」訓練である。

五つは意念で身体が球を抱く間架の時、身体の陽面が身外の阻力を引っ張り、内側に球を抱き、押されている身体の陰面の反抗を調動し、球は引くほどに大きくなり、同時に牽引力、阻力と争力も増大することを想像する、これは一種の「主被動争力」訓練である。

身内訓練の角度から言えば、先ず自身を放松できなければならない。放松訓練を通じて、周身の勁力を身上に留めず、松沈して地に入らしめる。その後、周身に松通、松透、松空の状態を持たせ、身に滞碍なく、心に滞碍なく、この基礎の上にさらに周身の松円、松満、松整の状態を訓練せねばならない。即ち「身は鉛の如く、体整は鋳の如く、毛髪は戟の如く、筋肉は一の如く」の「四如」状態である。

「零起動」は松のみならず静をも要する。多くの人は站樁及び試力の時、心身が静まらないうちに急いで動く。実は全てが準備できていない前に、いかなる余分な動きもあってはならない。先ず静まり、そして周身のどこを多く参与させ、どこを少なく参与させ、どこを微動させ、どこを大動させ、どこを慢動させ、どこを快動させるのか、力は足から生じるのか、身外から生じるのか、同時に生じるのか、力は筋から生じるのか、骨から生じるのか、皮毛から生じるのか、気血から生じるのか、神から生じるのか、無意の意から生じるのか、同時に生じるのか……全て細心に体得せねばならない。もし周身の参与すべき箇所と調動すべき箇所を全て明確に理解せず、また組織し調動もしていないのに、この時急いで動けば、盲動となり、局部的で散乱した動きとなる。故に動きが正確でない原因は、静が正確でないためであり、また思想意識が正確でないためである。

意拳の静は間架を離れることはできない。間架のない静は武術ではない。間架は先ず合理的でなければならない。間架がある状態で、周身は先ず完全に放松できなければならない。放松した静こそが真の静である。静まった後、身体の感知はより豊かに、より深く、より精緻に、より正確に、より智慧的となる。しかし松は際限がなく、故に静も際限がない。そうであれば永遠に動けないことになる。この問題をどう解決するか。私の見解では、一層の松に一層の静、一層の静に一層の動、層々深入し、相互に検証し、相得益彰する。全体的に言えば静は動より容易である。静は波瀾不驚でなければならず、動は海溢の如くでなければならない(海溢を見たことはないが、牛乳の沸騰を見たことはある)。海溢は一動すれば整であり、周身もまたかくの如くあるべきである。常に周身が動く時を体察し、一箇所も参与しない所がないようにせねばならず、同時に一箇所も過度に参与する所がないようにせねばならない。即ち参与すべきは皆参与し、過度に参与すべきでないものは皆過度に参与しない、これによってこそ整となる。

中国伝統武術は精神意念と身体の関係を練る、即ち「内は一口の気を練り、外は筋骨皮を練る」、同時に「内三合と外三合」即ち「六合」の訓練を強調する。これは西洋の筋肉訓練方法とは全く異なる。故に西洋文化の影響を受けたボクシング及び現代搏撃等の訓練体系は、永遠に「零起動」が何であるかを知ることはない。

「零起動」の優勢は、二つの力点が勁を合わせた後、瞬時に相手を打ち出すことができ、さらなる蓄力準備を要しないことである。故に伝統武術は断点打のみならず、粘点打(接点打とも呼ぶ)も可能である。謙虚でない言い方をすれば、粘点打の面で、伝統武術は域外搏撃術と比べて、絶対的な優勢を持つ。故に伝統武術が域外及び各種非伝統武術類の拳種と搏撃する時、相手に粘れるか否かが勝利の鍵となる。技術層面から言えば、主動的に攻撃できるか否かが、粘点の成功の鍵である。主動的な攻撃を通じて相手に我々と粘点せざるを得ない状況を強いることができる。しかし我々が技撃の通家となり、既に「自然力」の水準に達し、本能的に「一触即発」できるようになれば、我々が主動的に攻撃するか否かは問題ではなくなる。相手が主動的に攻撃する時も、我々は相手と粘点できる。しかし自身が「自然力」の水準に達していない前に、相手の主動的な攻撃時にも粘点しようとすれば(接点打を実現しようとすれば)、多くの面で心を用いねばならない。例えば接点時(間接で相手の打ってきた点を止める時)自身の間架の角度は必ず講究せねばならず、原則的には「十字中に生存を求める」べきである。具体的には「直来横取」「横走竪撞」「縦進横撃」等である。

相手の勁力が起動する前あるいは充分に起動する前なら、「零起動」は相手の勁を堵き返すことができる。しかし相手が既に完全に起動してしまえば、相手の勁を堵くべきではない。さらに堵けば頭突きとなる。斜めに相手を撃つか(直来横取)、あるいは順に相手を撃つ(借力打力)べきである。我々が「零起動」の能力を具えれば、相手の目には不可思議となる。過去の人々が常に語った「神拳」、祖師王薌齋先生の言う「超速運動」は、皆「零起動」の状態と直接の関係がある。故に、「零起動」は伝統武術と非伝統武術の分水嶺である。換言すれば、伝統武術を学ぶ者が「零起動」が何であるかを知らなければ、その拳も白練となる。祖師王薌齋先生の拳学体系では、「慣性力」は「零起動」の基礎勁力であり、祖師王薌齋先生はこれを「引動力」と呼んだ。「零起動」の「引動力」がなければ祖師王薌齋先生の言う「爆発力」はあり得ない。これは一つの完全な訓練体系である。

張樹新『問道意拳』華齢出版社より