意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

意拳慢練的試力功法(『問道意拳』より)

意拳の試力訓練を行う際、動作は緩慢でなければならない。なぜなら動作が速くなると、多くのものが漠然と過ぎ去ってしまうからである。祖師王薌齋先生は試力について「慢は快に優り、緩は急に勝る」と述べている。意拳訓練の重点内容は多岐にわたるが、意拳の站樁と試力訓練の内容を具体的に挙げると、おおよそ以下のような内容がある。

(1)精神:意拳の站樁と試力訓練を行う際、自身の「精神」は真実で充実していなければならず、また「精神」を表に出さなければならない。自身の「精神」を外界と関連させながら、「精神籠罩(覆い尽くす)」の状態を持たなければならない。

(2)意感:意拳の訓練において、意念はまず切実でなければならず、意念を身体に作用させなければならない。同時に意念が身体に及ぼす作用を感知しなければならない。つまり、假想を真実の感覚として持たなければならない。

(3)自然力:意拳の訓練において、精神意識から身体の行動まで全てが自然でなければならず、一切の作為や人為的なものがあってはならない。全ての意念と身体の状態は真実でなければならず、良性の「動力定型」を確立しなければならない。初級の本能から専門化された本能へ、初級の「自然力」から専門化された「自然力」へと修練しなければならない。これは一種の「養成教育」であり、最終的に高級な本能の「自然力」を確立する。

(4)間架:意拳の訓練において、「間架」の意識は極めて重要であり、始終一瞬たりとも怠ってはならず、放棄してはならない。全ての微細な支点と力点、角度と空間、松緊と動静、および稜角の方円に至るまで、全てに注意を払わなければならない。養生の観点からは、意念が設定した情景に合致する能力が必要であり、技撃の観点からは、技撃意識と敵情観念が必要である。

(5)空間:意拳の訓練において、最大限に「空間」を占有する能力を持たなければならず、また占有した「空間」を無限に拡大し続けなければならない。身体の内部空間と外部空間のいずれもそうである。意念を用いて自身の身体を絶えず成長させ、外部空間を圧迫し、さらに精神で外部空間を占有し、精神が占有する外部空間を絶えず拡張させ、精神が及ぶ範囲をますます広大にしなければならない。また、外部空間を用いて形を作り、外部空間を借力し、外部空間を制御し、外部空間を感知し、意念上で内外の空間が「その大きさに外はなく、その小ささに内はない」でなければならない。

(6)矛盾:意拳の訓練において、至る所に「矛盾」のある身体状態を確立しなければならない。その「矛盾」には身体の争力だけでなく、「順力逆行」の運動状態も含まれる。身内から身外まで、「骨縮筋伸」から「屈寸伸尺」まで、意念から意感まで、形体から精神まで、全てに整体の矛盾観が貫かれている。「矛盾」を把握することは、祖師王薌齋先生の拳学の本旨を把握することである。

(7)不執着:意拳の訓練において、「不執着」は意図的であってはならず、作為があってはならず、力を入れてはならない。身体が「不執着」であり、心意も「不執着」でなければならない。「不執着」の状態は、功法の修養を適度にし、過不及がないようにする。そうでなければ、進退を失い、貪欲な念が生じ、生運動となってしまう。

(8)不出尖:意拳の訓練において、「不出尖」は意が形を現さず、神が外に溢れず、力に方向がなく、周身「六合」し、円満均整で、勁力が平衡し、放松して悠揚としていなければならない。祖師王薌齋先生の五字の秘訣「恭、慎、意、切、和」を実践し、「先天之功」の体系に従って修練しなければならない。

(9)外力:意拳の訓練において、勁力と意念の全ては「外力」によって引き起こされることを理解しなければならない。身体の全ての行為は、全て「外力」によって規範化され、誘導されうる。これにより、受動的に受け入れる身体の感知力を確立することができる。「因果」関係から言えば、「因」がなければ「果」はない。その「外力」が「因」であり、故に「外力」は意拳の多くの功法訓練の基礎となりうる。

(10)假借:意拳の訓練において、「假借」は一種の精神力であり、また一種の意念力でもあり、さらには様々な精神、意念の長期的な誘導下で訓練された一種の身体の潜在能力でもある。「假借」を通じて、海の波の湧動力、風帆力、螺旋力、弾簧力、爆発力など多くの拳術の勁力を確立することができる。祖師王薌齋先生は精緻に論じている。「假借は無窮であり、意によって無窮の力を得る」。

(11)動静:意拳の訓練において、「動静」は極めて重要である。「動静」の因果関係を明確にしなければならない。祖師王薌齋先生の言葉を借りれば「動は何のためか、静は何のためか、一動一静はまた何のためか」である。站樁、試力、発力および技撃訓練において、すべて考えなければならない。動く前は何か、動き始める前は何か、動いている最中は何か、動いた後は何か、動いた後静止する前は何か、静止している状態は何か、動いている状態は何か、静は何か、動は何か、静の中の動は何か、動の中の静は何か、静から動への予備は何か、静即動、動即静はまた何か。これらの「動静」の功を、理解し、練習すれば、祖師王薌齋先生の拳学の世界に真に入ることができる。

(12)緊松:意拳の「緊松」訓練は、筋骨の外に形を現さない運動であり、また拳術において「悠揚」の境地を確立するための前提条件でもある。人体には作業筋と休息筋がある。「緊松」は主に休息筋の運動を調動する一種の拳術訓練である。これは普通の身体運動とは異なり、一種の拳術の内練功法である。「緊松」はまた意拳の「一触即発」の拳術発力の基本功でもある。

(13)松:意拳の訓練において、「松」の内容を深く理解し、体得しなければならない。松開、松柔、松和、松均、松静、松動、松緊、松透、松空、松無など「松」の学問を含む。これらは関連しているが、それぞれ異なる。拳術の訓練において、「松」には訓練の段階がある。「松」の水準はしばしば拳術の水準を決定する。「松」は力を入れないことでもなく、力を入れることでもない。それは特殊な一種の拳術の状態である。拳術の「松」は一般の人々が理解する「松」とは異なる。拳を打つ人だけが、拳術の「松」を練習する必要がある。拳術の観点から言えば、「松」は即ち「緊」であり、「緊」は即ち「松」である。

(14)和:意拳の訓練において、「和」の内容を深く理解し、体得しなければならない。柔和、順和、親和、浸和、平和、緩和、祥和など「和」の学問を含む。これらの「和」の内容は、功法にも関わり、意念にも関わり、さらに心境にも関わる。これらは関連しているが、それぞれ異なる。「和」は統一であり、対立ではなく、円融であり、それは一種の拳術訓練の整体観である。

(15)均:意拳の訓練において、「均」の内容を深く理解し、体得しなければならない。均匀、均細、均微、均等、均整など「均」の学問を含む。站樁と試力訓練時、身体の「均」の状態は完備であり、均整であり、潤滑であり、調和であり、活力であり、完全であり、細心であり、身体の勁は凸凹があってはならず、偏りがあってはならない。即ち「木桶」の板の高さがすべて同じように揃っていなければならず、「竹林」の中の竹がすべて同じ太さでなければならない。

(16)整:意拳の訓練において、「整」の内容を深く理解し、体得しなければならない。松整、緊整の学問を含む。意拳の訓練は始終整勁を練習する。「整」には勁力の「整」だけでなく、精神意識と意念の「整」も含まれる。身体と精神意識及び意念のどの部分にも片面的で局部的なものがあってはならない。すべての局部は整体に従わなければならない。放松は整体的に放松し、興奮は整体的に興奮し、「緊松」は整体的に「緊松」し、「緊」はさらに整体的に「緊」でなければならない。動は整体的に動き、静は整体的に静でなければならない。即ち「一動すれば動かないところはなく、一静すれば静かでないところはない」であり、さらに「静中に動を寓し、動中に静を寓す」でなければならない。最終的には「静即是動、動即是静」、「松即是緊、緊即是松」となる。

(17)四如:意拳の訓練において、「体整如鋳、身如鉛、毛髪如戟、筋肉如一」の「四如」の状態を体得し、確立しなければならない。

(18)舒適得力:「得力」とも略称される。意拳の訓練において、「得力」による舒適と美妙の意味を感じ取らなければならない。「得力」は一種の適切な状態であり、站樁であれ、試力であれ、発力、推手、技撃であれ、周身がすべて適切で、自然で、完璧でなければならず、受動的で、窮屈であってはならず、人に制御されてはならない。

(19)阻力:意拳の訓練において、身外の「阻力」を感知し、身体内の相応の勁力でそれに応じなければならない。過不足があってはならず、また「阻力」を通じて身外の「松緊力波」を認識し、真の外力を確立し、最終的に「宇宙力波」を借力するために奉仕し、祖師王薌齋先生の言う「宇宙の力波を借り、神助の勇を有す」を実践する。

(20)牽扯:意拳の訓練において、意念、意感および体認上で「牽扯」の状態を確立しなければならない。「牽扯」は身体間の「牽扯」であり、さらに周身と身外の「牽扯」でもある。身体間の「牽扯」には「一身備五弓」の内容が含まれ、また周身の「皮筋」の内容、および「運力如抽糸」「両手如撕綿」の内容も含まれる。周身と身外の「牽扯」には、周身と遠くの大木との牽掛、白雲との牽掛、四周の至る所にある景物との牽掛が含まれる。「牽扯」訓練を行う際は、「動」も「牽扯」し、「静」も「牽扯」し、「松」も「牽扯」し、「紧」も「牽扯」し、「剛」も「牽扯」し、「柔」も「牽扯」し、また「動微にして処牽」でなければならない。「牽扯」は周身および周身と身外に整体の争力を確立することができる。

(21)平衡:意拳の訓練において、「平衡」を極めて重要な位置に置かなければならない。「平衡」には身体の体内「平衡」と体外「平衡」および空間「平衡」が含まれる。具体的には精神平衡、意念平衡、重心平衡、勁力平衡などがあり、また訓練中の認知と方式方法の「平衡」も含まれる。「平衡」は巨大なシステム工学であり、錯綜複雑な内容がある。すべての問題は「平衡」の中で原因を見出すことができすべての成功も「平衡」と直接的な関係がある。

(22)陰陽:意拳の訓練において、人体の「陰陽」関係を理解し、認識し、確立しなければならない。まず訓練において身体を陰面と陽面に区分し、訓練中に身体の陰面と陽面を利用して文章を作らなければならない。それらは互いに相争相合し、対立し、統一する。人体の「陰陽」は拳術勁力の力源、または拳術勁力の「因果」となりうる。拳術力は「陽」を「因」とすることもでき、また「陰」を「因」とすることもできる。その「因」即ち力源であり、「陰陽」の間でまた互いに力源となりうる。勁力は相互に転化する。人体の「陰陽」関係の確立は、祖師王薌齋先生の言う「力不出尖」の前提条件である。言い換えれば、人体に「陰陽」関係があってこそ「力不出尖」となり、「陰陽」関係がなければ「力不出尖」はあり得ない。その「陰陽」訓練法は意拳の秘伝功法である。

(23)放松:意拳の訓練において、劲力の「放松」の状態を確立しなければならない。「放松」は訓練中では一種の「緊松」であり得る。外に現れるのは多方向かつ同時に具有する「吞吐」「提頓」「開合」と「分閉」の統一体である。意拳の勁力は主に細胞の「道」を体現する。身体が細胞の「放松」能力を具有した後、初めて意拳拳術力の整体力と称することができる。逆に言えば、細胞の「放松」がなければ、意拳の整体力を論じる資格はない。周身渾円争力は、意拳を学ぶ者が必ず習得しなければならない能力である。

(24)悠揚:意拳の訓練において、細胞の「放松」を基礎として、体内から体外への渾円整体力を確立しなければならない。体外の空間が身体に入り、細胞の「遒放」と作用を起こした後、身体は「悠揚」の言語を持つようになる。「悠揚」は身外の言語を主導とする拳術運動であり、また「風中の旗、浪中の魚」の別の注釈でもあり、祖師王薌齋先生の「宇宙の力波を借りる」言語である。祖師王薌齋先生の言う「谷応山摇」は「悠揚」の覇気の顕現であり、即ち「悠揚」がなければ「谷応山摇」はあり得ない。「悠揚」の前提は、まず天地の外力を感応する能力を持つことであり、訓練時はまず精神を表に出さなければならない。「悠揚」の功は祖師王薌齋先生が解鉄夫老先生から得たものである。「悠揚」は祖師王薌齋先生の拳術修練における最後の段階であり、「悠揚」を得た後、祖師王芗斎先生は天下に敵がいなくなった。

(25)貫通:意拳の訓練において、「貫通」の功は、勁力の通達、通透と貫通の重要な段階である。站樁及び試力時には根節と梢節の関係を体認し、勁力を根節から身体の力梢へ滞りなく通達させ、梢節と根節を一つの完全な統一体にしなければならない。即ち梢節のいかなる力点も、根節の勁力言語を代表している。勁力の「貫通」訓練を通じて、力の無所不在から無微不至を実現することができる。「貫通」勁力は祖師王薌齋先生の言う「六力」の「慣性力」の基本功法である。

(26)離心:意拳の訓練において、身体に勁力の「離心」能力を持たせなければならない。「離心」は身体の外接線と内接線に関わるため、外接線「離心」と内接線「離心」に分かれる。「離心」が生み出す「旋摆」勁力は打撃の力度を増加させることができる。「離心」の前提は、まず自身の平衡を制御し、次に「離心」の勁力で相手の平衡を破壊することである。「離心」勁力は祖師王薌齋先生の言う「六力」の「離心力」の基本功法である。

(27)螺旋:意拳の訓練において、身体に劲力の「螺旋」能力を持たせなければならない。「螺旋」の勁力は身体の外接線と内接線及び裹と争力に関わる。祖師王薌齋先生の体系では「螺旋」勁力は半把だけ必要である。「螺旋」勁力は祖師王薌齋先生の言う「六力」の「螺旋力」の基本功法である。

(28)弾簧:意拳の訓練において、身体に劲力の「弾簧」能力を持たせなければならない。「弾簧」の勁力訓練は、意拳の撑抱樁における「陰陽」矛盾争力の訓練内容と切り離せない。また呼吸弾力の訓練内容も含み、さらに「間架」力の訓練内容と松緊力波の訓練内容も含む。「弾簧」勁力は祖師王薌齋先生の言う「六力」の「弾簧力」を生み出す基本功法である。

(29)杠杆:意拳の訓練において、身体に勁力の「杠杆」能力を持たせなければならない。勁力の「杠杆」訓練は、意拳の間架の角度変化と切り離せない。「三角予応」の間架構造を含み、さらに骨格の松緊転換と切り離せない。故に周身の骨格が松開できなければ、勁力の「杠杆」は実現できない。「杠杆」勁力は祖師王薌齋先生の言う「六力」の「杠杆力」の基本功法である。

(30)身腾骨縮:意拳の訓練において、身体に「身腾骨縮」の能力を持たせなければならない。「身腾骨縮」の勁力訓練は意拳の「緊松」の功と切り離せず、また「陰陽」矛盾争力及び「外力」の訓練内容とも切り離せない。「身腾骨縮」の功において、その骨格は収斂しているが、肌体は腾起しており、精神は爆発している。「身腾骨縮」劲力は祖師王薌齋先生の言う「六力」の「爆発力」の基本功法である。

(31)精神笼罩:意拳の訓練において、身体に「精神笼罩」の能力を持たせなければならない。「精神笼罩」の訓練はまず「情景」の確立と切り離せない。意念中の「情景」は人の潜在能力を活性化させることができる。「精神」を体外に出し、身外の「情景」と統一させ、外部空間を体内に入れさせた後、「精神」の制御力を持つことができる。神意の運用を通じて、周囲の空間を雲淡風軽にすることもでき、周囲の空間を寒意で満たすこともできる。敏感な人が我々の「精神」に反応できるようになったら、「精神笼罩」の能力を初歩的に確立したと言える。しかし、全ての人に対して「如網天羅」となれるかどうかは、自分の修練の功力次第である。

(32)単双重:意拳の訓練において、身体の「単双重」に注意しなければならない。身体平衡の状態で、身体の虚実軽重を理解し、「単双重」の原理を体察し、運用して訓練を行い、「単重不偏、双重不滞」を実現しなければならない。

(33)守中用中:意拳の訓練において、「守中用中」の拳学理念に注意し、意拳「間架」の「枢」と「環」の関係を確立し、中脈を通暢させ、身体を平衡させなければならない。站樁、試力、発力、技撃を問わず、すべて自身の「中」を守り、「形は破体せず、力は出尖しない」でなければならない。

(34)応力:意拳の訓練において、自身の身体に外界に対する「応力」能力を持たせなければならない。「応力」には「精神」の感応力だけでなく、身体触覚の感応力も含まれる。「応力」と「争力」は意拳訓練の二大主要内容である。「応力」の訓練は、まず確立した「情景」意念を基礎とし、「外力」の感知を通じて、これにより触覚反応能力の訓練を強化する。「応力」は意拳技撃の前提条件であり、「応力」がなければ技撃することはできない。「応力」がなければ、生活の中で人が視力、聴力、嗅覚、味覚などの基本的な自立能力を失ったのと同じである。意拳訓練は、祖師王薌齋先生の「渾身の肌肉は青霄に掛け、毛髪の根は暖かい風に揺れる」から始まり、すべての外界と関連する意念が、「応力」訓練の内容に関わっている。これは意拳が神経を鍛え、潜在能力を開発する主要な作業の一つである。

(35)断意:意拳の訓練において、ある訓練段階で「断意」訓練を行わなければならない。具体的には意念上で突然「牽扯」を断ち切ったり、突然平衡を失ったりする。これは瞬間的な不平衡の中で平衡を回復する訓練である。「断意」訓練は技撃の突発性を訓練することができ、身体に突発的な驚勁を持たせることができる。これは驚炸力の基礎功夫であり、また「一触即発」の具体的な訓練法でもある。しかし、技撃に熱心でない人はこれを習う必要はない。

(36)六合:意拳の訓練において、「六合」から着手し、至る所に合する勁力を理解しなければならない。具体的には:「手と足が合い、肘と膝が合い、肩と胯が合い、心と意が合い、意と気が合い、気と力が合う」である。周身が団聚し、内外一体となり、縮抱合一となる。

(37)呼吸弹力:意拳の訓練において、「呼吸弹力」訓練を行わなければならない。「呼吸弹力」即ち「試声」訓練であり、有声から無声に入る。祖師王薌齋先生の言葉を借りれば「有声は幽谷の鐘を撞くようで、無声は気が毛髪を衝く」である。

(38)気口:意拳の訓練において、「気口」は非常に重要である。「気口」は気息の位置であり、また気息の状態でもある。気息の緩急、気息位置の高低・左右・縦横、気息経路の長短、気息状態の悠揚頓挫を含む。また、站樁時の「気口」、試力時の「気口」、発力時の「気口」、推手と技撃時の「気口」はそれぞれ異なる。これらはすべて意拳(大成拳)の系統訓練の中で解決しなければならない。

(39)多面力:意拳の基礎訓練において、まだ「頓悟」できない「漸悟」型の人々に対しては、「多面力」の訓練を行わなければならない。正面、側面力、斜面力など多方面の勁力について、すべて摸勁訓練を行い、渾円力の基礎を作らなければならない。

(40)力無侧重:意拳の訓練において、意から形まですべて「力無側重」でなければならない。意は執着せず、力は尖らせず、周身渾円である。また、訓練上では「削長」の意識を持ち、さらに「忘れず助長せず」でなければならない。

(41)細節:意拳の訓練において、ある訓練段階では「細節」訓練を行わなければならない。意から形まで訓練のあらゆる段階を細分化しなければならない。手を例にとれば、手の訓練法、指の訓練法、各指の訓練法、指先の訓練法、各指先の訓練法、指先前端意念の訓練法、各指先前端意念の訓練法などがある。手だけでなく、頭、足、身体の各部位についても同様である。銅銭ほどの大きさの面積から針先よりも小さな面積まで、すべて訓練しなければならない。これは意拳の一種の補充訓練であり、細部訓練の不足を補うことができる。しかし、この細部訓練は、欠けているものを補うという原則に基づき、必要な時にのみ訓練すべきであり、時々行うだけにとどめるべきである。さもなければ、局部的な型にはまってしまう。

(42)異なる勁力:意拳の訓練において、ある訓練段階では、具体的な「異なる勁力」の研究と訓練を行い、周身の裹鑽翻兜卷旋摇など多種の勁力の能力を確立しなければならない。私は拳術の「異なる勁力」について系統的な研究を行った。祖師王薌齋先生は以下の十五種の異なる拳術勁力を提起した。蓄力、弾力、驚力、開合力、重力、定中力、纏綿力、撑抱力、惰性力、三角力、螺旋力、杠杆力、輪軸力、滑車力、斜面力である。站樁、試力、発力などの訓練段階で、これらの勁力を一つずつ摸勁訓練することができる。

(43)感恩:意拳の訓練において、「感恩」の心を持たなければならない。師長に感謝し、家族や友人に感謝し、社会に感謝し、天地に感謝し、また自分の身体に感謝し、四肢百骸及び臓腑器官の辛労に感謝しなければならない。「感恩」は言うは易く行うは難しであるが、実際には身体の健康と長寿の秘訣であり、さらに武学の天機を洞察する秘訣でもある。

(44)無意之意:意拳の訓練において、最終的には「無意之意」を本とし、一切の妄念と執着を捨て去り、最終的に祖師王芗斎先生の言う「無意之意こそが真意である」の「真意」を成就しなければならない。

上述のこれらの内容は、すべて站樁及び試力の中で、徐々に一つずつ習得しなければならない。これらの内容は、一動一静の中で、すべて具備していなければならない。動作が速くなると、成立しなくなる。静止の中で探すと、身体の中でいくつかのものを見落としてしまうが、もし速く動けば、さらに多くのものを見落としてしまう。これは少し走ることに似ている。数十人全員が整然とした隊列で走ろうとすれば、速く走ることは本当にできない。また、すべての細部を吟味し、すべてを適切に練習しようとすれば、速くはできない。したがって、意拳の站樁と試力は、そこに立っているだけで何もしていないのではなく、また任意にゆっくり動いているのでもなく、物事を育て、探索し、確立しているのである。訓練の過程で、誰がより多くのものを見つけ、誰がより多くのものを確立したかで、その人の水準が決まる。例えば、あなたが30項目のものを見つけたとすれば、他の人が20項目しか見つけていないよりも水準が高い。しかし、一旦動き始めると、站樁時に見つけたばかりの30項目のものが、おそらく10項目程度しか残らないだろう。特に速く動き出すと、おそらく1項目か2項目しか残らないだろう。例えば、「精神」も忘れ、「意感」もなくなり、「間架」も散り、「空間」も考慮する余裕がなくなり、「外力」も失い、「阻力」もなくなり、「牽扯」も具有せず、「矛盾」も備わらず、周身も均整ではなくなり、「四如」の境地と「悠揚相依」はなおさらである。このようでは、試力も何の意味もなくなってしまう。

意拳の訓練において、我々は本来ゆっくりしたくないのだが、速くなると物事を見落としてしまうため、やむを得ずゆっくりとするのである。見つけたものが我々の身体に根付き、芽を出すようになれば、その時にはどんなに速くても物事を見落とすことはなくなり、我々は速くなる資格を得る。したがって、誰が動作を速くしても物事を見落とさないかが、高手である。もちろん、拳を打つ際に、ある人々は勁を探るためではなく、意識的に動作をゆっくりとするのは、単に身心を修練し、耐力を増加させるためであり、この類の人々は別に論じることができる。

意拳の訓練において、焦ってはいけないが、焦らなくてもいけない。なぜなら、それは一つの内容を訓練するだけで成功できるものではないからである。それはまるで交響楽団の指揮者のように、すべての楽器を調和させなければならない。「精神」「意感」から「空間」「間架」まで、「外力」「阻力」から「緊松」「四如」まで、「牽扯」「争力」から「陰陽」「平衡」まで、有形から無形まで、基礎から実戦まで、これらすべては一朝一夕で習得できるものではない。したがって、専念しながらも博学でなければならず、粗筋を持ちながらも細部を持たなければならない。これらすべてが、錯綜複雑な内容の中で、常にさまざまな学問を均整に進歩させることができれば、即ちこの拳道における高人と言えるのである。

張樹新『問道意拳』華齢出版社より