(一)
意拳浅論
意拳は王薌齋先生が太極拳、形意拳、八卦掌、少林拳など各流派の中国拳術の長所を取り入れて創り出した一種の拳術であり、理論と実践の両面において独自の特徴を持っています。一定期間の練習を経ることで、人の身体の健康と技撃の水準に大きな助けとなるため、練習者に非常に好まれています。私は何年も師事しこの拳術を学んできましたが、ここでは個人的な意拳に対する認識について述べさせていただきます。
一、 精神作用
意拳は拳術における精神気質の作用を非常に重視しています。例えば、比較的痩せた弱い人でも、普段特別な訓練を受けていなくても、緊急の際には普段では想像し難い力と知恵を発揮することがあります。人間にはこれほど大きな潜在能力があるのですが、普段は様々な制約を受けているため発揮できないだけなのです。もしこの能力を練習によって発掘し、いつでも応用できるようになれば、人々にとって本当に有益なことでしょう。また、個人の精神状態がどのようであるかは、その日常の仕事、学習、特に病気との闘いにおいて重要な影響を及ぼします。同じ水準の中では、精神の良い方が仕事もうまくいき、病気も早く治ります。これらは言うまでもないことです。では、一体どのような精神を養成すべきでしょうか? 総じて言えば、勇敢無畏の気概、不撓不屈、山河を覆う気、沈着豊厚、機敏細微、霊活多変など、良い性格と資質を持つべきです。実際、これらは武術における基本原則であると同時に、人として学ぶべきことでもあります。
精神面の養成は、一方では思想教育によって、もう一方では日頃の訓練によって行われます。意念によって精神を訓練し、不必要な制約を取り除きます。人体本来の良能を解放し、それを養成し、強化します。ですから、拳術の練習では精神の訓練を最も重視すべきだと言えます。
二、意念之作用
意拳は主に一定の肩架を通じて、意念の活動によって人々の精神、意志、自己控制能力、反応速度などの面を訓練します。練習時には、いくつかの面に注意を払い、誤った道に入らないようにしなければなりません。
1.意感を求める
意念の活動は人体にある種の感覚と体験を引き起こすことができ、特に力に関する意念は、その表現がより明確です。この時、特に意感を求めることに注意し、力感を求めてはいけません。意念が生み出す整体の効果を探るべきで、局部の肌肉や靭帯が意念によって緊張してはいけません。拳術の術語に「意を求めれば霊となり、力を求めれば漏れてしまう」とあります。力感を求めると、局部的な力が形成され、随意に変化する能力を失ってしまいます。実際、意感を求めることは、力をも求めることですが、求めるのは意念の中の力、松の中の力であり、意と力が合一した体現なのです。この点において、意は即ち力とも言えます。
2..有るようで無いようである
意念の中のものは、想えば有るが、想わなければ無いのです。大脑は連続的な思考過程の中にも多くの間隙があり、まるで人が物を見る時にまばたきをするようなもので、運動の中で休息を得て、疲労によって硬直するのを防ぎます。意念の中のものは、触れられるようでもあり、触れられないようでもあり、触れているようで触れていないようで、これによって触覚の霊敏さを高めるのです。
3.周身を意守する
意念の活動を応用する際には、整体性に注意を払う必要があります。意念の内容の多くは相互に矛盾しています。例えば、動と静、松と緊、快と慢、進と退、撑と抱、起と落などです。矛盾するものを統一し、また各種の矛盾を一つの整体に融合させなければなりません。体内と体外の意念に対しては、内は外に流れず、外は内に侵入せず、また全く関係のない二つの内容にはっきりと分けてはいけません。要するに、意が周身を守るとは、部分と全体を統一し、また部分を通じて全体を表現することができるということです。
4.意念の変化
意念の内容は個人の具体的な状況に応じて設定することができます。全ての原則に反しない基礎の上で、具体的な人に適した意念の活動を形成します。意念の内容は個人の練習水準の向上に伴って徐々に増やし、深めることができ、また簡素化し高めることもできます。
三.松与緊
意念の中で最も基本的で、また最も掌握しにくいのは恐らく松と緊でしょう。かつて王薌齋先生は細い竹竿で揺れる数百斤の大砂袋を動かせたそうです。松と緊をどの程度まで調整できたかがわかります!
松とは、一定の身体構造を保ちながら、肌肉、靭帯、表情、特に精神をできる限り軽やかで心地よい緩んだ状態にすることです。この状態は気血の流れを良くし、意念の活動を貫徹しやすくします。前庭器官(目や耳など)の敏感さ、人間の大脳と小脳の反応速度を高め、人の内応を強化します。もちろん、放松したければ、まず心平気静にして、練習と関係のない雑念を取り除く必要があります。つまり、(相対的に)静かになるということです。
緊は、必要に応じて、精神と意念の活動によって瞬間的に周身を「整える」ことであり、「張」または「発」という意念が極めて短い時間の中で定まることとして表現されます。松を静とすれば、緊張は動です。しかし、松と緊は絶対的なものではありません。松はいつでも緊になり、緊はすぐに松になります。松の中に緊があり、緊の中にも松があります。静の中にも微動があり、外は動いているが内は静かで、神松意緊です。このような松緊、動静の練習は、練習者の自己控制能力と反応速度を絶えず高めます。実際に練習しなければ、その奥妙を体得するのは難しいでしょう。松と緊の関係は、拳の言葉で要約すれば、「松であっても弛まず、緊であっても硬直せず、松は即ち緊であり、緊は即ち松」となります。ほとんどすべての静と動の過程において、有意でも無意にも松と緊が体現されています。習得者の方々にはこれを重視し、丁寧に会得していただきたいと思います。
四.肩架之搭配
意拳も他の流派の拳術と同様に、独自の肩架の要求があります。他の拳術と異なるのは、意念を主とし肩架の形式を調整することです。身体構造は形として体現され、拳の言葉に「形あれば力はよくなる」とあります。肩架が適切に配置されていれば、重心は安定し、整体性が強く、意念の中のものも体得しやすくなります。意念と肩架は拳術における相輔相成の二つの側面であり、肩架は意念によって支配され、意念は肩架を通じて一定の表現を持ち、それらが有機的に融合することが意力合一の体現なのです。
肩架の要求は、意念の理解に重点を置くべきであり、単に姿勢の正確さを追求するべきではありません。意念で肩架を充実させることで、習得者に豊かで力強く心地よい感覚を与えるだけでなく、習得者の霊活性をより高めることができます。もちろん、初心者は先に姿勢と肩架を正しく整え、肩架の要求を日常の活動に応用し、習慣にすべきです。これは体の養成にも大いに役立ちます。
五.自我调整
自己調整は意拳の重要な方法であり手段です。練習であれ実践であれ、有意でも無意でも自己調整は欠かせません。速く調整でき、調整の水準が高い方が優位に立ちます。
自己調整とは、自己感覚を通じて意念が自分の身体に生み出す反応を検査し、拳術の要求と照らし合わせることで、欠点を正し、水準を向上させ、さらに本能と意識を一体化させることです。したがって、調整は自己感覚と意念の活動を結びつける紐帯とも言えます。
調整は、平衡状態の回復と、より高い要求の平衡状態への二種類に分けられます。この二種類の境界ははっきりと分けられるものではありません。なぜなら、元の平衡状態も一種の予定された目標であり、基本的にそれが達成された後、新しい理想的な状態がまた予定された目標になるからです。
一定の要求に基づいて練習する際、習得者がゆっくりと最初の状態から逸脱していくことがわかります。例えば、肩架が変形したり、重心が偏ったり、意念が局部になったりなどです。意識を持ってそれを元の状態に戻す必要があります。水準の向上に伴い、意念活動の要求も高まります。新しい目標を達成するために、習得者は再び元の平衡状態を破壊し、新しい平衡状態を確立します。もちろん、いくつかの基本的な調整は常に存在します。
調整には局部と整体の両方に配慮する必要があります。身体構造に関しては、全身と個々の四肢の両方に注意を払うべきです。大局的に言えば、精神、意念、身体構造などはそれぞれ局所ですが、合わせれば一つの整体になります。調整の際にはすべての面に注意を払う必要があります。一つが動けば百が動き、協調して一致します。これらは意識による指導なしでは難しいでしょう。
松と緊の調整は、拳の習得において極めて重要な位置を占めています。一つ一つの動静には、松と緊が存在しています。静止は各方面の力が均衡することによって定まりますが、この均衡は絶え間ない松と緊の調節の下でこそ形成されるのです。動作は霊捷で変化に富むべきで、それは内部の松と緊の調節によって定まります。練習では松と緊の間の状態を求めます。それは刃の上の天秤のようなもので、絶え間ない松と緊の変化の中でこそ、外見上の平衡を保つことができるのです。これはまさに拳の言葉にある通り、「大動は小動に及ばず、小動は不動に及ばず、不動こそが生々として絶え間ない動である」ということで、連続的で速く微細な(気づきにくいほどの)運動によって、一見動いていないような平衡状態を形成するのです。そしてこの状態こそが最も霊敏な状態なのです。たとえ外形が動いていても、内部はこの状態です。練習を重ねることで、外力によって平衡が崩れた時、自然に調整するようになります。ですから、調整は有意でもあり、無意でもあり、人の本能になるのです。
繰り返しになりますが、調整は細部まで行わなければなりません。自己感覚をしっかりと検査し、意識は自分の身体の隅々まで入り込み、全身の内外で松緊の同調を求め、精神と形と意と力の合一を求め、感覚に頼り、さらには直感的な意識で一つ動けば、すべてが到達するという境地に達するのです。
六.力在自然
拳術の応用は、しばしば招式と力量に表れます。実際、この二つは本来一つのもので、力の運用に他なりません。招式それ自体も力であり、規則に従って定められた動作で力を使うだけです。使用する際は日頃形成された条件反射に従って行います。試しに考えてみてください。格闘の双方の状況は多種多様で、一つ一つに対応する技などあるでしょうか。たとえあったとしても、それを選び出して応戦する時間などあるでしょうか!ですから、多くの招法を極めた人が、一、二の技に精通した人の手にかなわないのです。
しかし、この一、二の招は単なる一つの方法ではなく、拳術の多くの原則を含んでいるのです。練習の原則、基本功を練習し、それを自分の本能に変えることこそが最も根本的なことだとわかります。私は、たとえ技を練習するとしても、それは自分があらゆる状況、あらゆる面において自在に力を発揮できるようにするための練習に過ぎないと考えています。しかし、これらの力の発揮には、必ず拳術の根本的な原則が含まれていなければなりません。
自在さは、自然の力、つまり勢に従い本能の力を発揮できるかどうかにかかっています。敵に向かって蓄勢するのは意識的ですが、いつ手を出し、力を発揮するかは有意でもあり無意でもあります。訓練を通じて、多くの原則がすでに本人の能力となっているからです。したがって、習得者がより多くの収穫を得たいのであれば、やはり基本功にもっと力を入れるのがよいでしょう。また、日頃から拳術の要求に沿った習慣を身につけるべきです。例えば、前に述べた肩架についても、日常の一挙一動において、拳を練習する時のあらゆる感覚を追求し体験すべきです。常に清明な頭脳、平静な心、鋭敏な耳目を保ちます。一挙一動に拙力を使わないように注意し、軽霊で渾厚な気質、静かでありながらいつでも動ける状態を養い保ちます。鍛錬と日常の習慣を結びつければ、力が自然にあるという道理を理解するのは難しくないでしょう。
一九八四年八月