2025-01-01から1年間の記事一覧
いつもお世話になっております。 前回の不定期更新のお知らせから、一応月曜日には何かしら更新するようにしていましたが、一旦手持ちの資料、手に入りそうな資料についてはひと段落した感じがあるため(正確にいうと一つだけ取り寄せ中のものがありますが)…
意拳は王薌齋祖師が創立して百年に満たないが、その精深な拳学理論と高効率な訓練効果により世界各地に広まり、多くの武を学ぶ者が迷いから覚め、多くの武功を成した者がさらに上の段階に達した。これは意拳の先輩たちの共同努力の結果である。 多くの先輩の…
意拳の試力について再び述べる。 私が言う意拳の試力とは、身体が位置移動の緩動状態にある時に渾円力を求めることであり、発力は身体が疾速運動の状態にある時に渾円力を求めることである。 我々は試力の過程において多くの情報と隠されたものを感じること…
意拳技撃樁について再度述べる。 意拳の技撃樁を練習する目的は、争力を培うことである。これが渾円力であり、すなわち意念を用いて全身の上下、左右、前後四面八方の意力を誘導し、矛盾相争の中で平衡、均整、協調、渾然一体の力量に達することである。 私…
1981年の後半から、父(訳註:姚宗勲先生)は私の強化訓練を指導するだけでなく、北京市体委科研所と協力して、意拳理論と現代体育訓練を結合させる課題研究を行い、同時にその他の社会活動にも参加していたため、非常に忙しかった。時には訓練場所に行けな…
站樁では、姿勢を正しく構え、毎日痛みを感じ、続けていけば、時間が来れば力が出てくる。 これほど多くの人が站樁を教え、意念を使わせているが、これは彼が必ず站樁で力を站出できていないことを示している。もし站樁で力を站出していれば、直接あなたに、…
站樁で入門しようとするなら、三節から着手し、拳を練るには三節を練る。それは門の敷居である。実際、站樁は拳であり、拳は桩である。三節を理解すれば、岳飛の言う「一気、二陰陽、三節、四梢、五行、六合、七上法、八身法、九歩法」のように、最後は交手…
二、調形充意段階 師から一定時間学んだ後、あるいは全体系の課程を学び終えた後、自己修練を行わなければならないが、帰って自分で練習し、功を積めば良いというわけではない。鍵となるのは師が説いた原理要点と核心を覚え、帰って消化吸収することである。…
意拳の習練は一つの長い過程であり、この過程がどれほど長い時間を要するとしても、大体三つの段階を経る。即ち、師から学ぶ段階、調形充意段階、完全提昇段階である。もちろん第一、第二の二つの段階が一つになることもあり、それは父子間の芸業伝承かもし…
3.摸勁微動増力 站樁摸勁は微動増力の一種の方式であり、微動増力は力の抵抗によって生じ、合理的な意念誘導下の正確な間架形体は、時間の積み重ねと共に、肌肉が徐々に放松し、それによって身体外部の阻力——意中力が徐々に大きくなるのを感じ、我々は意想で…
「站樁は力を用いず力を伸ばす」。この言葉の意味は、站樁訓練時に、硬力、拙力、余分な力を用いず、一定の意念を運用し、合理的な身体間架を保持することで、一定期間の練習後、身体の局部力と整体力量が増長し、拳術中で必要とする力量を獲得するというこ…
推手時は相手を「球」として扱い、自分も「球」のような動力を形成する。推手時の各関節の屈曲部は球を挟むようで、肘関節は勁力を充満させ、曲がっているが曲がっておらず、直であるが直でなく、攻守兼備である。相手の腕との接触点では、時には手首を包み…
平歩托抱樁中、開始の意念は両手腕で一つの気球を托抱し、全身環抱、托抱の意力を体会し、さらに練習を進めると、意念中の球に一定重量を具備させ、こうして両腕は意力を貫注し、微かに托抱の意を摸索し、この托抱の意力は頭部の上領、背後靠(=後ろに寄り…
意拳が他の拳派と区別される顕著な特徴は、数百年来襲用されてきた套路と固定招法を廃止し、人の精神意識を束縛から解放し、形体の鍛錬に注重すると同時に、特に人の精神意識と神経系統の訓練に注重することである。 意拳は意識的に精神假借を運用することを…
(七) 実践時、お互いの距離と位置が最も重要であり、進退旋回は軽霊を保たねばならない。対手との位置は、遠すぎず近すぎてはならない。退く時は、対方が一歩でちょうど届かないようにし(あるいは届いても力がないようにし)、進む時は、一歩で対手を打て…
(六) 推手で知っておくべきこと 1. 通体の関節は鈍角形である。2. 両肘は半撑半垂で両脇をしっかり守る。3. 手首は霊活でなければならず、両手は蛇の頭に似る。4. 腿部は胯を包み(裹)、後重の法を用いる。5. 局部の動作をしてはならない。6. 力が十分あ…
(一) 意拳(大成拳)の宗旨は以下の三つである。1、招法を重視しない2、套路の練法がない 3、整勁を重んじる(整体力を強調し、整体均整の力を求め、局部の鍛錬に反対する)。 以上の三点は王老が提起したもので、また意拳が他の拳術と区別される基本的特…
王先生も意拳について解釈した。彼は、意拳とは意念領導、神経支配だと説明した。これは彼が行った解釈であり、第二段階の要求である。技撃を練習する時は用意不用力を求める。第三点は意力不分を求めることである。意が到れば力も到る、さらに進めば意力は…
「力は出尖しない」は中国武術特有の問題である。ボクシングや散手、自由格闘のようなスポーツでは、一拳一腿は腕や腰や腿と関係があるが、それらの力はすべて絶対的、明確であり、局部の力であり、整体の力ではない。力はすべて出尖している。もし局部の力…
十三則 形意拳術の第一層は明練であり、これを練精化気といい、丹道における武火である。第二層は暗勁であり、これを練気化神といい、丹道中の文火である。第三層の化勁は練神還虚といい、丹道における火候純である。火候は純にして内外が一気と成る。再び練…
十二則 形意拳術の横拳には先天の横があり、後天の横があり、一行の横がある。先天の横とは、静より動に至る、無形の横拳である。横とは、中である。易のいうところの「黄中通理、正位居体」とは、即ちこの意である。拳経がいうところの「起は無形である」、…
十一則 拳術を練る際は、固執しては通じることができない。もし専ら力を求めれば、即ち力に拘束され、専ら気を求めれば、即ち気に拘束され、専ら沈重を求めれば、即ち沈重に縛られ、専ら軽浮を求めれば、神気は則ち軽浮に散る。外の形式が順になれば、自ずか…
十則 拳経には「上下相連、内外合一」とある。俗に云う上下とは頭足であり、また手足ともいう。拳中の道理で言えば、上呼吸の気と下呼吸の気が相接するのである。これが上下相連、心腎相交である。内外合一とは、心中の神意が海底に下照し、腹内が極め静かに…
九則 拳術の道は、自己の身体を鍛錬し、病を退けて寿命を延ばすものであり、大きな難しい方法はない。しかし、もし人と比較するならば、それは容易なことではない。第一に心を慎み、自己を知り相手を知り、驕り誇ってはならない。驕り誇れば必ず敗れる。もし…
八則 形意拳術の明勁は小学の功夫である。進退起落、左転右旋で、形式に間断があり、故に小学という。暗勁は大学の道である。上下相連、手足相顧、内外如一、循環無端で、形式に間断がなく、故に大学という。このたとえは、その拳が成り立つ道理を明らかにし…
七則 形意拳には三層の用法がある。有形有相、有名有相無迹、有声有名無形の用であり、ついには無形無相無声無臭の用となる。 拳経いわく「起は鋼锉のようで、手落は钩竿に似る。起は進むにあり、落は退くにあり、未だ起たざるは摘字のようで、未だ落ちざる…
六則 人がまだ拳術を練る以前、手足の動作は、その後天的な自然の性質に従い、壮年から老年へ、そして死に至る。通家は先天を逆運し、乾坤を転じ、気機をねじり、長生の術を求める。拳術も同様である。起点は平常の自然の道から、その機を逆転し、静から動に…
五則 形意拳術を練るには三層の呼吸がある。 第一層の呼吸は、舌を巻き、上顎に押し当て、口は開くようで開かず、合うようで合わず、呼吸はその自然に任せ、呼吸に意を着けてはならない。手足の動作が規矩に合うことが、調息の法則であり、また練精化気の功…
四則 形意拳術の道は神気の二つのみで、他にはない。丹道の始終は全て呼吸に頼る。最初の大小周天から、還虚の功に至るまで、皆呼吸の変化である。拳術の道も同様であるが、形体と筋骨を鍛錬する功がある。丹道は静中に動を求め、動が極まってまた静に帰る。…
三則 形意拳術の道は、練ることは極めて易しいが、また極めて難しくもある。易しいとは、拳術の形式が至って易しく至って簡潔で繁雑ではないことである。その拳術の始終、動作運用は、みな思わずして知り、学ばずしてできるものである。周身の動作運用も、み…