意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

站樁的意義(『問道意拳』より)

前に弟子らと微信で站樁の意義について話し合った。皆が異なる角度から意拳の站樁功を解釈し、今回は皆の観点と私の観点を集約し総括した。要約すると以下の数点である。

(1) 武術の大部分の内容は站樁を通じて得られる。精神、意感、自然力、速度、力量など、站樁功は更に身法、歩法、拳法、腿法の基本内容の訓練も含む。

(2) 『道徳経』第二十五章では「故に道は大、天は大、地は大、人も亦大なり。域内に四大あり、而して人はその一に居る。人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」。意拳の站樁は時空交差の原点、天地物我の融合、形神意気の修練、人我心霊の会盟であり、站樁が練るのは自然本源の物である。

(3) 意拳の站樁は武術であり、学術であり、芸術であり、心術である。心を練るものであり、更に人の為し方を学ぶものである。儒家文化では浩然の正気を養う。仏家文化では無所住を求める。キリスト教文化では、自我を破砕し、過去の旧我に別れを告げ、過去は死に、新我が重生する。意拳の站樁功は上述の諸般の文化と皆関連し、いくつかは頗る相似している。故に站樁は「自我身体の破砕重生」の文化とも理解できる。

(4) 站樁は全ての試力及び打撃の基礎であり、意拳の一切の行動は樁の体現と言える。站樁は人を零に帰す状態、即ち原点の状態である。原点に立つ利点は宇宙万物及び自身の変化をより容易に察知できることである。虚実、動静及び身内身外前後上下左右の変化、人体の触覚活力及び大気と呼応する虚空宇宙力の状態を感受する。

(5) 站樁を通じて自身の整を求め、周身を牽挂し、精神を無限に拡大し、内と外気を充盈させる。それは人体を木のように根基を持たせる。木は我々の生命状態に多様な啓示を与え得る。木は根があり、陽光を追求し、空気を追求し、栄養源を追求し、即ち生生不息である。站樁も然りで、人の潜能を開発し、精神を培養し、站樁を通じて周囲の景象と連繋を産み出す。大気及び遠方の山水浮雲等と、それらとの交流を通じて、身体中に元々ある物を改めて調動し、身心を調養し、気血を通暢させ、筋膜を鍛錬し、脱胎換骨して自身を新たな境地へと強化向上させる。故に站樁は身心を調整するのみならず、身外の認識を確立し、周囲環境と宇宙能量の認識を含め、外界環境との汝中に我有り、我中に汝有りを達成し、身内外共に和諧と統一に達することを期する。

(6) 站樁は各種の假借に便がある。站樁は母(本)であり、他は用である。基礎から言えば站樁は一種の間架習慣の養成訓練である。站樁の静と動及び意念の松と緊と勁力の剛柔交換の訓練を通じて、身心を沈殿調理し、修身養性し、精神を蓄養し、客観を体察し、主観用力の旧習慣を消除する。站樁は静極にして動静相宜であるため、消耗と補充が並存し、身体の運動を長久に持続させ、功力を増長させる。

(7) 站樁は身内と身外の各種関係を確立する訓練であり、これは補薬に等しい。身体の欠乏を補う。筋骨、平衡、対称、勁力伝導、精神、呼吸、身法、歩法、拳法、間架等、この補薬を何を食べ、いつ食べ、どれだけ食べ、どう食べるかは、全て身体の状態に依る。自身の角度から言えば、站樁は修心換勁の功であり、機体に量変と質変を産生させ、身体の各機能を調節し、身体平衡を調節し、人の精神と体質に変化を生じさせる。次に、站樁は動作を調整する方式であり、実戦時に平衡を保ち、重心を安定させ、より良く搏撃に奉仕する。技撃の角度から言えば、間架の定型及び矛盾意識の確立を通じ、気息を養練し、力量を増強する。意拳の力量は注血の力(肌肉の笨力)ではなく、意中の力である。その力は各種の勁力を含む。惯性力、離心力、ばね力、てこの力、螺旋力、爆発力等の勁力、同時に悠揚の力と精神笼罩の力を確立する……。

(8) 站樁は本能を回復する訓練であり、我々の身体と拳法姿勢に和諧と統一を産生させる。舒筋松骨と松筋縮骨等の訓練を含み、身体各関節の動作を一つの整体とし、養生の功であり、技撃の功でもある。

(9) 站樁の訓練は我々をより精細、全面的、従容に間架構造を認識調整し、松緊変化、勁力の調動と伝導、身内身外の情報交流等を認識調整させる。これは一見不動の複雑な運動であり、意拳領域に入る不可欠の方法であり、登堂入室の途径である。站樁は矛盾を融合する法門であり、動静、局部と整体、形と意、内と外を含み、人々が語る精気神の鍛錬も含む。站樁は元来の生命状態と距離を保つのに有利であり、即ち超脱である。また、生命の本質は開心にあり、心は能量の総開関である。站樁時、意念を通じて身体をこの身心に有利な良性螺旋互構の状態に入らせることができる。站樁を通じて自我を見出し、新我を確立し、旧我を放棄し、虚空と自然に融入する。站樁の過程は身体の元来の不良部分を調整する過程でもある。站樁時間の延長に伴い、身体の不良状態が現れ、この時継続して鍛錬し問題を解決せねばならない。しかし往々にして旧問題去り新問題生じ、これは継続して站樁を堅持し不断に問題を解決せねばならない。故にこれは無尽無休の鍛錬過程であり、芸無止境とも理解できる。

(10) 本質から言えば站樁は時間で空間を換える運動である。伝統武術において、人々は常に功夫を時間と等しいと見なす。即ち時間を費やさなければ功夫は長じない。意拳の運動は站樁の訓練から言えばより時間を要し、時間を消耗すると同時に、身体の状態は空間を占める必要がある。身体の間架から精神の釈放まで全て不断に空間を占める必要がある。体内空間から体外空間まで、空間の占拠は意拳と他拳種の最大の区別である。練功時間の延長に伴い、我々の空間への要求はますます大きくなり、大きくなって天と比肩しようとする。しかしこの境地は一朝一夕に達成できるものではなく、時間を要し、甚だしくは一次次の「過三関」を通じて最終的に実現する必要がある。祖師王薌齋先生は常に言う「半時為一関(半時辰即ち一時間を一関とす)、一時為二関(一時辰即ち二時間を二関とす)、二時為三関(二時辰即ち四時間を三関とす)」と。故に「過三関」は時間の概念であり、形体の拡張は継いで空間を占めるのは一つの空間の概念である。人々は脚を踏んで一歩一歩時間の積累を通じてこそ、最終的に空間の真の占拠と把控を実現できる。これが時間で空間を換える概念である。人が修練して空間を占拠し把控できるようになれば、戦わずして人の兵を屈せしめ、只精神笼罩を用いて対方を降伏させ、同時に身体の自身の状態も空霊となり、祖師王薌齋先生の言う「練らずして自ら練り、養わずして自ら養う」を実現する。これは武術の高境地である。また、人の間架は空間の属性と見做せ、人の運動は動程があるため一種の時間の概念である。時間即ち人体の運動を通じて、形体この空間の訓練に達する。人体の運動は遅くも速くもでき、時間は長くも短くもできる。合理的運動の状況下、時間が長ければ長いほど、下す功夫が大きければ大きいほど、空間中の人体の体質はより健康に、より強大になる。これも意拳が時間で空間を換える基本概念である。

総じて、站樁は意拳の訓練の本であり、祖師王薌齋先生の言う意拳は精神を重んじ、意感を重んじ、自然力の修練を重んじる等諸般の問題は、站樁を離れては語りようがない。

張樹新『問道意拳』華齢出版社より