試力時の肢体運行過程中の松緊転換の摸勁は、整体争力が徐々に形成される過程でもある。
姚老曰く「上動かんと欲すれば下は自ずと随い、下が動かんと欲すれば上は自ずと領導し、上下が動けば中間を攻め、中間を攻めれば上下は合い、内外は牽連し、前後左右相応して動く」、即ち周身一動すれば動かないところはなく、一処が動けば整体を動かすことを考えねばならない。これは意拳の試力が整体訓練の特徴を重視することを十分に説明している。整体訓練の最終目的は「渾円力」、即ち整体争力を求めることである。
意拳中の勁力は表現形式が多岐にわたるが、蓄力、弾力、驚炸力、開合力、刹車力及び撑抱、惰性、螺旋、三角等々、全て整体争力を核心とする。整体争力を離れては、他の諸力は表面的な文章となり、内在は空虚無物となり、その実質的意義を失う。
姚老曰く:「試力は得力の源であり、力は試すことによって知り、更に知ることによってその用を得る」。ここでの「知、用」とは即ち試力過程中の整体争力(渾円力)に対する体認培養と具体的運用である。即ち整体争力形成の前提は試力時の整体の摸勁である。では如何に整体摸勁を行うか?
先ず、上述の意念假借及び形体運動の細微、緩慢の原則と緊密に結合せねばならない。次に、局部から整体への具体的な摸勁の練習過程を行う。
試力初期、神経肌肉系統がこの種の緩慢な運動状態下での作業経験を欠くため、その協調統一は非常に困難であり、相対的に整体勁力も相当困難である。故に我々は先ず局部摸勁から始められる。手の感覚が敏感であるため、外界の争力を体得する摸勁は先ず手から始め、手に感覚が生じたら、徐々に腕、胸腹、脚、背中へと進み、最後に周身全体を運用する。
試力摸勁は局部から整体への体認過程である。では我々はこの過程の具体的実施を如何に正しく認識し把握すべきか? 積木を組み立てた建築模型が一度触れば崩れるが如く、局部と局部の相互の組み合わせは整体を成さない。しかし鉄筋コンクリートで築き上げたレンガブロックは堅固無比の高層ビルを地上に聳え立たせることができる。故に局部と局部の最適な組み合わせ連結こそが真の意味での整体を形成できる。試力は局部から始めるが、最終的には周身各部を意念誘導を通じて、周身間架の合理的構造及び体内の気血暢通の勢いでこの最適な組み合わせを一つの有機的整体に連ねる。最後に整体摸劲を「徐々に、緩々と、僅かに」等の抽象的体認に運用してこそ、徐々に周身整体の争力を培養できる。
整体摸勁を運用して整体争力を培養するのも局部から整体への過程である。争力に初めて触れる時は先ず二争力から始められる。所謂二争力とは関節の相対部位の相反する方向の矛盾する力である。例えば両手で拳を出す前後に、ゴムバンドで引っ張られていると仮定し、前手が前方に拳を出す時、後手は後方にゴムバンドを引っ張る。ゴムバンドを瞬間的に引き裂く時に生じる爆発的な力を想像する。この「前手で人を打ち、後手で力を発する」という形式が二争力である。同時に、同一直線上の二つの相反する方向の力であれば全て二争力を構成できると拡張できる。
身体の前後、左右、上下等の二争力に体認ができたら、周身の二争力を交錯させて相争わせ、周身各部が面面に力が生まれ、互いに応合し、気力が通貫し、渾然一体となり、相争わざるところはない。周身整体の間が蚕の繭の如く相互に交織し、身に隙間なし。この種の体認が深まるにつれ、我々は運動時に周身が円満であるか、随機随勢に応感して発することができるか、周身の毛穴が拡張して大気と呼応する感覚を体得できるか、自身が球の如く整体として転がる感覚を体得できるかに意を用いて体得せねばならない。上述の感覚があれば、試力時に神経肌肉が高度な協調統一に達し、自身の整体争力及び外界との争力が肢体のゆっくりとした移動状態中で既に確立され、非常に豊富であることを十分に示している。周身の意力が円満で、渾厚で、沈重で、且つ意は断たれず、気は散らず、神意気力は渾然一体となる。「これを動かせば奇趣は横生し、四肢百骸は終に一貫に帰す」、この時の形体運動は軽風が柳を撫でるようで、一種の自然美、神韻美と調和美を表現する。この種の形体美は究極的には人体の神経肌肉が鍛錬を経て高度に統一された時に表現される一種の内在的動力の均整平衡の調和美であり、この程度に達すれば次の段階の整体発力の基礎を築いたことになる。
運用「松緊転換」の摸勁を用いて争力を培養する際は、以下の点に注意せねばならない:
1. 人の整体争力の培養
整体争力の培養過程において、身体の各動作、例えば手を前に伸ばす時は同時に後ろに引く力があり、その逆も然り、上下、左右も同様である。これは先人の言う「順力逆行」の説であり、即ち運動中「前推時には後拉の意があり、上托時には下圧の意があり、外撑時に裏包の意があり、総じて一中を共に争う」ということである。「中」とは身体の重心所在であり、肢体がどの方向に運動しようとも、その正方向と逆方向の力の大きさは平衡均整で、相等相乗である。この時少しでも偏れば、「毫厘を失えば千里を謬る」となり、争力均整の要義は尽く失われる。
2. 試力摸勁时の勁力は「開展より求め、緊凑を高める」
「開展より求め、緊凑を高める」とは、摸勁時の神意は開闊であるべきで、姿勢は舒展すべきということである。このようにしてこそ、姿勢間架が練習過程で身体各部位に対する要求を具体的に体現でき、更に効果的に自身の不足を発見できる。開闊な神意と舒展大方な姿勢の結合の下、試力摸劲に対する体認ができたら、徐々に姿勢を舒展から緊凑へと移行させ、各種試力の細微精妙な点を培養し把握する。動作が緊凑になればなるほど、相対的に肢体運行の軌跡が短縮され、精神意識がより高度に集中して神経筋肉を刺激し、勁力の質を向上させる。実はこの過程は彫刻家の手中の石のようなもので、始めは単なる青石の塊だが、作業の進展に伴い、彫刻しようとするものが徐々に輪郭を現す。しかしこれは最終目的ではなく、更に輪郭を精緻に彫刻し、精進を重ね、最終的に精美な芸術品が目の前に現れるのである。
3. 試力摸勁は一種の試力を主とし、熟練すれば他を行う
試力には撥水、開合、扶按球等様々な形式があるが、その内包は全て渾円力を探索し培養するためである。故に試力の始めは一種を選んで練習し、体認が深まってから他を練習するのが効果的である。全ての試力を学んで同時に練習すれば、かえって多すぎて雑然となり、勁力の体認に不利となる。
4. 試力摸勁時の「躯干」と「梢節」の関係
試力摸勁時は意(力)を指先まで達せしめることを求めるが、肢体の根部即ち躯体の練習を疎かにしてはならない。指先の意(力)の根源は躯体にあることを明確にすべきである。例えば開合試力時、手、前腕、肘部に開合の阻力感があるだけでなく、双腕の「根部」即ち肩部にも同様に開合の阻力感があることを体得すべきである。これを推し広げれば、腕の開合時に全躯幹が中線を境に微かに引き裂かれるような開合の意を持つと想像できる。扶按球試力で下按練習をする時、両腕が水面に浮かぶ空の球を押すだけでなく、胸腹部も球に粘着していると想像し、下按時は両腕だけで球を押すのではなく、腰部で下に座り込むように、それに伴って手腕で球を押す。これより意拳試力の各動作は梢節の運動だけでなく、躯体が梢節を催動して共同作用した結果であることが分かる。子供の遊ぶでんでん太鼓のように、回転時に二つの小さな槌を振り回すようなものである。故に意拳の用力の原則は「一箇所が動けば全身を牽引し、一動すれば動かないところがない」であるべきだが、梢節の作用を疎かにしてはならず、必ず梢節の練習に注意せねばならない。正しい練習法は躯体と梢節を整体として連ね、練習時に指先だけでなく周身に意を注ぎ、周身が大気中を泳ぐように、どこも包容され、周身が風中に掛けられた袋のように、どこも膨らむと意念する。総じて、試力時の躯体と梢節の相補相成は極めて重要で、躯体を主として梢節を催動させ、梢節が躯体に配合してこそ、より良く試力練習を行うことができる。
5. 各試力の間の連接は緊凑粘連である
意拳推手実戦時の最も顕著な特徴は、一旦相手に粘着し機会を捉えたら、「波浪を揮い朔風を巻き、大気寰宇を包む」の勢で、迅猛、連続的に攻撃することである。この連続性は神経肌肉の松緊転換頻度の快と慢の問題である。
站樁時に求める神経肌肉の松緊間の転換は、松緩、細微の原則を保持する前提の下、粘連、纏綿、緊凑の特徴を突出させねばならない。試力摸勁に至り、肢体の運行路線が延長された状況下でも、依然としてこの状態を保持し、一つの試力が終わって突然停止し、次の試力を行うような現象があってはならない。即ち二つの試力の間に停滞がなく、連続、緊凑、纏綿の動作中に松緊転換時の周身の極めて微小な振動を体現することを求める。この振動の頻度が速ければ速いほど、発する勁力はより連続的、迅猛、爆発的となる。速い転換は周身の神経肌肉が高度に協調し、瞬時に周身の力を調動して一点に集中し放出できることを示すからである。故に姚承光老師は試力を講述する際、試力間の連続性が非常に重要であり、その間の連接が纏綿、悠揚、粘連であるか否かが、実戦時に連続的な攻撃を形成できるか否か、連続的攻撃中の勁力が渾厚円満であるか否か、頻度が迅速爆発的であるか否かに直接影響すると強調した。
最後に特に説明すべきは:我々がどの試力を練習しようとも、前脚の膝と後胯の間に常に相争の意があるよう注意せねばならず、この二箇所が相等してこそ、周身間架が開いた傘のように渾円円満となる。
上述の試力の原則原理を認識し把握した後、更にこれらの原則を試力の技術に運用して考証を行わねばならない。
意拳試力はその異なる特徴と応用方式により4類12種に分けられる:
三種の基本試力:平推、撥水、開合。この三種の試力は動作意念が比較的単純で、試力の入門基礎練習となり得るため、基本試力とする。
三種の推手試力:扶按球、勾挂、分挂。この三種の試力は推手中に最も頻繁に現れるため、推手試力とする。
三種の身法試力:旋法、揺法、神亀出水。この三種の試力は上下、左右、前後の身法の練習に重点を置くため、身法試力とする。
三種の打法試力:側劈、正劈、環繞側劈。この三種の試力は打闘時の劈砍技術の練習に重点を置くため、打法試力とする。
上述の試力中、平推、勾挂、旋法の三種の試力は前後の力量の練習に重点を置く。その中で、平推は主に前推後拉の力を練習し、勾挂は主に小臂の上挑下挂の力を練習し、旋法はこれらと異なり、身体は前後に移動するが、手臂は平面弧線運動をして「旋」の動作を体現する。この試力は前後身法移動の練習に重点を置くが、推手中でも非常に効果的で頻繁に用いられる技法である。
撥水、扶按球、神亀出水の三種の試力は上下の力量の練習に重点を置く。その中で、拨水は主に上下撥動の力を練習し、扶按球は主に上托下按の力を練習し、神亀出水は主に上下身法の移動を練習する。上下身法の練習と同時に前後、左右身法の移動も融合させるため、これは最も難度の高い試力技法であり、往々にして最後に学習される。
開合、分挂、揺法の三種の試力は左右の力量の練習に重点を置く。その中で、開合は主に左右開合の力を練習し、分挂は主に左右偏帯の力を練習し、揺法は主に左右身法の移動の力を練習する。
三種の打法試力、側劈、正劈、環繞側劈は、名の通り、主に異なる面の劈砍の力を練習する。
ここまで書いて、一部の友人は疑問に思うかもしれない。意拳は招法を語らないのではないか?それなのに何故これほど多くの試力の招法を練習するのか? この問題について、ある人が姚宗勋先生に「意拳は『拳に本来法はなく、法は有っても空である』と言うのに、何故これほど多くの試力を練習するのですか?」と尋ねたところ、姚老先生は「その後にもう一句『一法は立たず、無法は容れない』があることを忘れているのだ」と答えた。つまり、意拳は招法を重んじないが、招法が全く無いわけではない。上述の試力招法の分析を通じて、我々は意拳の各試力が一定の重点を持つが、全て上下、左右、前後の六面を巡って練習することに気付く。例えば平推試力は、前推後拉の力を主とするが、前推時には必ず下按、挤合の意を補助し、後拉時には必ず外分、上提の意を補助する。扶按球試力は上下力を主とするが、上に托す時は擠合、前への意を補助し、下に按する時は外分、後靠の意を補助する。何故このようにするのか? 意拳が試みるのは六面渾円力だからである。もし単に前後、左右、上下の単一の力量であれば、「渾円」の意を失う。故に意拳の各試力は全て力量の主次の区別を通じてこの渾円力を体現するのである。
これより我々は、練習中で以下のことを確定できる:
前への力量は全て、前への力を主とし、下按、擠合の意を補助する;
後ろへの力量は、後への力を主とし、外分、上提の意を補助する;
上への力量は、上への力を主とし、前へ、挤合の意を補助する;
下への力量は、下への力を主とし、後靠、外分の意を補助する;
外に開く力量は、外開の力を主とし、引き戻し(身体を微かに後靠する)上提の意を補助する;
内に擠合する力量は、挤合の力を主とし、下へ、前への意を補助する。
これらの原則を理解した後、神秘的な意拳試力はもはや「深閨に養われ人に識られず」ではなくなる。その運動形式がどのように変化しようとも、上述の原則原理から離れることはなく、これらの原則原理は上述の各種形式の試力によって体現される。故に、意拳の招法は拳学の原則原理の法であり、枝節片面局部の法ではない。意拳の語る「無法」は「有法」を基礎とするものであり、「有法」段階の無数回の磨練を経てこそ、藩籬を打破し、「無法」の境地に入ることができる。即ち武術の先輩たちの言う明勁→暗勁→化勁の形成過程である。現代生理学で説明すれば、正確な技術及び理論指導の下で反復練習を経て、動作が分化→汎化→最終的に自動化に達する定型過程、即ち所謂「随機随勢、応感而発」である。もし最初から「無招無勢」を追求すれば、根が浅いため、壁の葦のごとく、風雨に耐えられないのである!