意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

試力過程中神経肌肉的「松緊転換」(『意拳心法』より)

1. 站樁と試力という二つの異なる状態下での摸勁時の「松緊転換」の異同を理解する

精神假借、意念誘導作用を重視する前提の下、意拳の試力は引き続き神経肌肉の松緊転換の摸勁を用いて争力を求める。即ち站樁時の身体相対静止の微動状態から試力時の身体が緩動の摸勁状態に向かう過渡である。両者は本質上同じく意念誘導下の松緊転換であるが、摸勁の形式上では異なる。

站樁時の松緊転換過程は非常に短く、往々にして「一緊即松」である。一方、試力の松緊転換は、体の運行時間と空間が相対的に延長されるため、その松緊転換の時間も相対的に延長される。

平推試力を例に取ると、身体は放松状態(松であって懈ではない)から始まり、両腕は身体の推動下でゆっくりと前方に押し出される。これは必ず神経、肌肉、骨格が同時に参与する形体運動であるため、腕の運行過程中、身体は「緊」の状態にある。しかしこの「緊」は、その力の程度が普通の放松より僅かに緊になるだけで、日常生活で蛮力を用いて生じる硬直緊張とは異なり、精神意識が高度に集中した下での神経肌肉協調の状態、即ち所謂「意念の緊」である。

前方に遠くまで押し出したら、直ちに停止する。停止は即ち放松である。放松後は急いで引き戻さず、大脳中で自身が既に整体として連なっているか、外界と牽引の意があるかを思考すべきである。全てが準備できたら、再び引き戻し、この時また松から緊の状態に移行する。

試力の松緊転換を練習する際に注意すべき問題:

(1) 試力摸勁を初めて学ぶ際は、必ず要求に厳密に従い、全過程で意念の松緊が連続不断であることを保つ、即ち:

起始位置(放松状態)——運行過程(緊の状態)——終止位置(放松状態)。

何故このようにせねばならないか? 試力初期では、周身の神経筋肉の協調機能がまだ完全ではなく、形成すらしていないからである。もしこの時正しい形式に従って順を追って培養せず、ひたすら変化を追求すれば、この変化は盲目的となり、最終的に誤った動作の定型と用力の習慣を形成してしまう。俗に言う「規矩なくして方円はなさない」の意味がここにある。

(2) 水準が不断に向上し、摸勁の感覚がより渾円厚になるにつれ、運行過程で「一気呵成」の常規を打破できる。例えば、平推時、起始の放松状態から前推し、一推(緊)即止(松)、一止随即再推する。これを数回繰り返して終止位置に到達する。以下の図のようである:

終始位置(放松状態)——運行過程(松緊転換状態)——起始位置(放松状態)。

この摸勁の松緊転換形式は、洗濯板で衣服を洗うか機械の歯車が噛み合って回転する時に生じる「カタカタ」という感覚に似ている。我々はこの感覚を試力高級段階の肢体運動中の「松緊」転換の具体的な体現と比喩できる。即ち、肢体運動を試力の起点と終点の間の距離を幾つかの点に分け、各点(カタカタ一回)が一回の松緊転換となる。これらの点が試力時の身体運行の軌跡を構成する。表面上は動作が松緩無力に見えるが、実際には一つ一つの動きで、周身各部の神経肌肉が非常に忙しい作業状態にあり、極めて細微な振顫を生じている。即ち運行軌跡上の各点での松緊転換である。

総じて、站樁と試力の松緊転換は本質上同じだが、形式上は異なる。站樁摸劲は一点上で松緊の互換を行い、その行動の時間と空間は非常に微小である。一方、試力の初期は一本の線上での松緊互換である。站樁に比べ、試力はその運行の時間と空間を延長している。試力の高級段階に至ると、神経肌肉間に豊富かつ完全な協調機構が確立され、この線は幾つかの点に分けられ、各点が一回の松緊転換となる。これは站樁中の細微な変化を試力に応用したことに等しく、松緊転換の密度を増すだけでなく、摸劲の質の向上の重要な指標でもある。

2. 試力の時は「松緊転換」の目的と意義を明確にする

試力時の連続的な松緊転換は、打撃力の迅猛さと連続性を効果的に培養できる。それは涛天の巨浪、排山倒海の如くである。同時に、これは試力を通じて「点」の意識を培養し始めることでもある。双人試力(推手)中、四腕が交錯し、接触する位置が「点」である。この「点」は固定されず、腕の運動に伴い変化する。「点」の変化中、身体勁力の不足は「点」上の松緊転換の質を通じて表れる。故に、「点」の運用と制御が極めて重要である。

練習時、「動こうとして止まろうとし、止まろうとして又動こうとする」、「動中は止まざるを得ず、止中は動かざるを得ない」意がある。これが運動軌跡中の各点での松緊転換の具体的な体現であり、それにより「点」に対する我々の意識を効果的に強化し、推手中の制御、防御と攻撃の堅実な基礎を築く。

謝永広編著『意拳心法』北京体育大学出版社より