意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

姚承光先生談意拳基本功

1、養生樁は独特な点がある。養生樁は意拳の基礎樁法であり、精神假借と意念誘導を採用し、人体と大脳に非常に良い休息式の鍛錬をさせ、軽松、愉快な精神状態に入らせる。さらに神経筋肉の鍛錬を通じて、身体の新陳代謝と血液循環を促進し、腰の筋肉の損傷、関節炎などの慢性疾患に非常に良い効果がある。

2、技撃樁の練習は意拳において渾円力を獲得する重要な手段である。渾円力とは人体の前後、左右、上下などの周身が渾然一体となった四面八方の非常に細やかな勁力を指す。站樁時は精神假借、意念誘導に頼り、細心に体得し、全身の神経肌肉の高度な霊敏性を調動し、人体に特殊な鍛錬をさせる。初めて摸勁を学ぶ時、身体は大動きから徐々に小動きに移行し、最後には生生不已の動きに達する。この三つの過程の訓練は渾円力を得るための根本的な手段であり、常に意念誘導の下で訓練を行う。

3、站樁時に感覚が良くても、動き出した後はどうか? そのため試力、発力の練習が必要であり、試力、発力から一目で站樁の水準の高低が分かる。

4、站樁時、身体が発緊するのは、意念が自身に執着しすぎて、完全に放出されていないからである。意念を遠くに放大し、神は物外で遊んでこそ、力は自然に生じるのである。

5、技撃樁の時、身体の運動軌跡は:動(緊)——停(松)——動(緊)であり、途中に停頓があり、この停頓は蓄勁の過程である。この松緊の転換を体得できれば、摸勁の過程も明確になる。

6、站樁時の身体の動きは局部の動きではなく、脚で地を蹴り、腿が全身を催動する動きである。脚で地を蹴る力点は足の内側にある。

7、站樁の時間が長くなると、新しい意念を注がなければ、退屈感が生じやすい。

8、意拳の站樁において放松は要求の一つに過ぎないが、站樁時は無闇に放松してはならない。放松とは站樁中に自分の身体の平衡を保ち、自分の間架を支える力を持つことを指す。より重要なのは精神仮借、意念誘導を主とすることである。そうでなければ、空樁、死樁になってしまう。あなたは物(拳術の力量)を求めたいが、物(意念中の力量、意念中の阻力感を強めて力量を強める)がなければ、どうやって求めるのか? これは意念で神経肌肉を刺激して求めるしかない。

9、技撃樁で摸勁する時は、少しずつ探るだけでなく、纏綿、均整、飽満の力を探り出さなければならない。まるで周身が粘り気のある泥の中にいるようで、必ず慢、細、均でなければならない。功夫を積みたいなら、このような摸勁の訓練を経なければならない。

10、姚宗勲先生は、意拳の松緊転換時は上下のばねに相争の意があり、松緊転換時の周身の相争は上下が最も重要だと言っている。だから何をするにしても、上下相争の意が必要である。

11、基本功の訓練を重視しなければならず、拳の真髄を知るには、整体から探さなければならない。

12、直拳の発力練習時によく犯す間違いは、打ち出した拳を収める時に一度下沈し、頭を守れず、站樁時の間架を保てないことである。正しい打ち方は、打ち出した拳が平面直線状になり、下沈の動作はあるが、この下沈は身体の上下の起伏に伴って動き、常に站樁時の間架を保ち、同時に頭を守ることに注意し、両手にはばねを引き裂く感が必要である。

13、站樁時、周身はすべて微動し、自然から人為へと移行する。站樁時(特に平步樁を站つ時、両足を開き、両かかとを一直線上に置く)、ふくらはぎが軽く震えているのを感じ、次第に太もも、腰、腹、胸などの部位まで震えが広がり、そのまま発展させると、震えはますます大きくなり、全身が大きく震えるまでになり、かかとが時には上がり、時には地面を叩き、数十分震えても疲労を感じず、かえって軽快になる。この現象が現れて十日後、健身樁中の扶按法で水中に直立していると想定し、両手の下で板を支え、手で板を押す(=按)と、身体に浮き上がる意があるように感じたら、押すのをやめる。そうすると身体に下沈の感覚があるので、再び押す。浮沈の感覚が完全に意念の支配下に置かれるまで練習し、比較的大きな震えを抑えることができるようになり、外見上は動いていないように見えるが、体内の肌肉は連続的に動いており、動きが小さいほど頻度が速くなる。これが先輩拳家の言う「大動は小動きに及ばず、小動は不動に及ばず、不動こそが生生不已の動きである」ということである。練習時は周身の肌肉に動かない部位や動きが遅い部位がないかを默察し、あれば意念誘導を用いることができ、しばらくすると動き出す。

14、試力時、意念で前膝と後胯を相争させることが非常に重要である。

15、站樁試力では、梢節と躯幹の連係に注意しなければならず、一つの整体に練り上げなければならない。しかし、整体だけを重視すると、梢節が放松してしまう。最終的に応用するのは梢節の作用である。だから梢節の作用は非常に重要である。そのため、梢節と躯幹を一つの整体に練り上げなければならない。

16、変歩発力の練習では、最初は三割の力で十分である。緩やかな找勁の中で、上身と下身の協調に注意する。一拳発するごとに、下の歩法がついていけるかどうか、後脚が勁を踏めるかどうか、これらの問題に十分注意しなければならない。同時に、変歩発拳は一方向だけに変歩するのではなく、前後に進退し、左右に迂回しなければならない。また、絶えず拳を発するだけでなく、両手で防守姿勢を取り、防守的な変歩訓練を行うこともでき、一方で防守しながら一方で攻撃し、仮想敵とさまざまな技法で格闘することもできる。緩やかな找勁の中で力量が協調していると感じたら、徐々に力量を増やし、頻度を上げ、技法の変化を強化する。

17、サンドバッグを打つ時は大無畏の精神が必要であり、どんな目標でも、この一拳で打ち抜き(=穿)、打ち破る(=透)
ことができ、拳が届く所はすべて灰飛煙滅すると考えなければならない。このようにすれば自分の精神を十分に発揮させ、自分の真実感を養うことができる。これは穿透力を練習する上で非常に重要である。

18、人に発する時は掌根を相手の胸に当て、相手が後退する距離を増やすことができる。放人時の発力は上托、擠合、向前の必要がある。上托は相手の重心を崩すためであり、擠合は自分の力を一点に集中させるためであり、向前は放つ距離を増やすためである。放人する時は両掌を前に伸ばし、遠くに放ち、自分の足の先を超えなければならない。同時に臀部を下に落とし、後ろ脚のかかとを下に踏み込んで前に蹴り、上身は前に倒れ、胯と45度の角度を成す。頭は前上方に突き上げる感覚が必要であり、すなわち胯を軸として、上身と頭部が力を込めて前に突き上げ、腕を突き上げ、掌で六面の合力で目標を突き上げる。力量は脆、猛、迅速でなければならない。

19、功夫を高めたいなら、試力は非常に重要である。站樁と試力の時間配分を半々にすれば、功夫は非常に速く上達するだろう。試力は慢から快まで、快慢を組み合わせて、推手の変化のリズムに適応させる必要がある。

20、精神激発は意念による絶え間ない調整が必要である。なぜなら、意念の訓練も疲労を生じさせるからである。すなわち神経系の疲労である。意念を運用して絶えず調節してこそ、ある程度疲労を緩和することができる。どのように意念を運用して調節するのか。すなわち、意念刺激——精神激発——神経疲労——意念調整放松——意念刺激——精神再激発——神経再疲労——意念再調整放松である。このように絶え間なく循環を繰り返すことで、神経系を絶えず発揮し調整し、自身の潜在能力を開発することができる。

21.姚老師は站樁時に誰かが突然あなたの間架を叩いたら、あなたの功力の大小を試そうとしていると言っていた。彼があなたの間架を叩く時、あなたは必ず意識的に力を用いて支え(=頂)なければならない。摸勁時の松緊転換のようにである。決して放松して人に叩かせてはいけない。もしあなたが放松して人に叩かせれば、たとえあなたの功力がどんなに大きくても、必ず崩れてしまうだろう。意拳の動作意念はすべて意識的に探し、行わなければならないことを知るべきである。我々がこのような意識の中で常に訓練すれば、徐々に無意識の本能反応が形成されるだろう。つまり、意拳の訓練はすべて有意識から無意識へ、有力から無力へと進むのである。「無力」とは力を使わないということではなく、力量を無限に変化させ、人に捉えられず、見抜かれないようにすることである。意拳の站樁は、立つことを学び、功力がついたら、力を入れずに、あるいは無意識に相手の叩きに抵抗できるというものではない。このような理解は誤りである。力量は物体間の相互作用であり、站樁時に人が力を込めてあなたの間架を叩けば、あなたは意識的に支えてこそ、初めて有効な抵抗力を形成することができる。そうでなければ逆効果である。だから、何の防備もない状況で、相手が突然叩いてきた時、たとえあなたの功力がどんなに大きくても、耐えることは難しい。だから最初の練習時はすべて注意力を集中した状況で、意識的に相手の撃に抵抗すること、これが入門の正規である。

22.意拳の発力練習では、動作は大から小へと進まなければならない。大は力量の流通のためであり、小は力量が流通した後の冷、脆、快のためであり、力量の打撃時間を減らし、打撃速度を高めるためである。

23.旋法で発力する時は、下向きに、身体の側面に向かって発力し、相手を自分の側前方に旋回させ、前方への発力を利用して相手を放り出さなければならない。

24.意拳の意念は異なる段階で異なる内容を持つ。功夫を高めたいなら、意拳練習の異なる段階で意念の要求が異なる。初級の意念は定式の枠組みがあり、中級の意念は変化があるが、まだ一定の規則に従わなければならず、高級の意念は随機随勢で、無所不為である。

25.意拳の練習過程は、站樁、試力、歩行(摩擦歩、歩法の基本功)、推手、発力(固定姿勢および歩位)から始め、徐々に不固定姿勢、不定位の随意発力へと進む。

26.站樁は静止状態で「勁」を体得し、さらに意念誘導を用いて「勁」を探る。「整」は拳術の伝統的な術語で、周身の意力のことであり、平衡を保つ状態で、站樁鍛錬の初期には両手に重さ、膨張感、熱感などを感じ、さらに前伸、後拉、上抬、下压、外分、内合などの動作をすると、ある種の阻力を感じ、動きたくても動けない感覚がある(本当に動けないわけではない)。最初は両手に、徐々に周身にこの感覚が現れる(軽微から明確まで)。これがいわゆる「整」である。站樁の初期鍛錬では「意を用いて力を用いず」、放松に注意し、「松であっても怠けておらず、緊であっても硬直しない」状態を実現しなければならない。つまり「松緊が協調している」のである。試力は站樁で「勁」(身体外の阻力)を感じるが、少し動くとすぐに阻力が失われるので、試力の中で再び「それ」を感じ取らなければならない。動作は意念誘導(歩を動かさない)によるものでなければならず、要決は精神を集中し、意念を真にし、小さく、ゆっくりと、途切れることなく行うことである。阻力を感じたら、動作は小から大へ、慢から快へと進める。原則は「意を用いて力を用いない」ことである。要するに内在する勁、すなわち阻力感がなければならない。歩行(すなわち摩擦歩)は脚と腿の試力であり、阻力感があれば、手の試力と組み合わせて行う。規則的な前進後退から自由な身手歩法の変化へと進み、全身試力の段階に入る。原則は「一つ動けば全てが動く」、「一か所を牽けば全身が動く」であり、常に「整と不整の間」にいなければならない。

27.意拳でいう「発力」とは爆発力の略称で、日頃鍛錬した整勁を極めて短時間で猛烈に放出することが要求される。原則は「一触即発、一発即止」である。

28.站樁は基本の中の基本であり、站樁鍛錬の中で、絶えず要求を高め(姿勢と意念)、試力、推手、発力鍛錬の中で、自身に力量の弱さ、反応の遅さや空白があることを発見し、再び站樁の中で意念活動の誘導によって探索し、内在力を強化する。静から動へ、動から静に戻り、繰り返し相互に参照し合い、互いに助け合いながら練習を続けていけば、その境地は無限である。

29.歩行練習の中で試力を加え、意念を遠くに放大し、前後、左右、上下のすべてに阻力を持たせる。意念は軽くも重くもでき、身体各部と外界はすべて連結できる。ゆっくりと動きながら細かく体得し、快速の中でも慢中の力があるかどうか、手に試力の控制感覚があるかどうか、歩法が速く移動する時に摩擦歩中の力があるかどうかを体得する。この時、自分の頭部が虚霊挺抜しているかどうか、胸部に吞吐蓄の力があるかどうか、腰膝部に意念中の争力感があるかどうかに注意する。

30.站樁で阻力を感じた後、歩行と試力の練習を増やすことができる。歩行試力で阻力感があれば、推手練習ができる。試力練習ですべて明確な阻力感があれば、発力練習ができる。定位から不定位へ、さらに随意発力へと進み、(想定と実際の対手と)、さらに実際に、打撃と発力の両方を使う。水準が低い時は、怪我を避けるために、攻撃部位を制限したり、防護具を使ったりすることもできる。

31.意拳でいう争力とは、意念の誘導によって全身の上下、前後左右が互いに牽引し合い、一点に共に争い、ばねのように互いに呼応する意中の力を生み出すことである。この争力を備えた後、さらに試力、発力などの段階的な練習を経て、初めて争力を発揮することができる。

32.争力の練習は、まず簡単な争力から始め、その後全身の整体的な争力を求める。簡単な争力であれ整体的な争力であれ、まず渾円樁法の中で探求しなければならない。

33.争力の練習法は、まず渾円樁の一、二、三のいずれかの式で立ち、前腕の手首(曲がる部分)に弾性のある縄が付いていると想像する。縄の前端は前方のある物体、例えば壁や木などに結び付け、縄の後端は自分の首の後ろ、風府穴の下あたりに結び付ける。練習時は意識的に首を少し突き出し、微かにねじる(左腕が前にある場合は左側に微かにねじり、右腕が前にある場合は右にねじる)。全身を後ろに倒し、弾力のある縄を引っ張って手首を引っ張り、手首はさらに前方の縄を引っ張る。前後の力が対称的に相殺し、手は動かないが、少し引っ張るとすぐに離れる力を感じることができる。後ろの手はまるで弾力のある球を抱えているようで、身体が前の手を引っ張る時(重点は首の後ろ)、後ろの手は意識的に球を抱き、前の手に呼応する。繰り返し練習すると、やがて松緊のある争力を体得できる。これがいわゆる「松は即ち緊であり、緊は即ち松」であり、松緊を互いに用いる意中の力である。これは王薌齋先生の言う「松緊緊松過ぎたるなかれ」の意味である。

34.整体的な争力の練習法は、絶え間ない練習を経て、争力を得た後、この基礎の上に、さらに整体的な争力を練習することができる。練習方法は、渾円樁法で立った後、頭上に弾力のある縄が繋がっていて、両足の中心点と上下に争っていると想像する。同時に、頭と後脚が上下に争い、さらに前足と斜めの角度を成し、前後と後手が左右に争い、左手と右足が斜めに争い、両肘と両膝が上下及び斜めに争い、前手と後手が左右に争い、右手と左脚、左手と右脚が斜めに争い、両肘と両膝が上下及び斜めに争い、左肩と右膝、右肩と左膝が斜めに争う。手と足、肩と肩の上下の争力は、頭と足の争いに含まれる。要するに、四面八方が一点に共に争うのだが、「松緊の中枢は上下にある」ことに注意しなければならない。練習時は形曲力直で、まるで八面から鋒が出ているようであり、さらに周身の毛穴がすべて膨らんで外界と互いに連結し、互いに牽引し合い、身体は転じないが、どこでも微動できる意を持つ必要がある。意は必ず切実でなければならないが、執着してはいけない。これが王薌齋先生の言う「上を支え、力は空霊で、身体は縄で吊るされているよう」、「力松意緊で、毛髪は戟のよう」の意である。

35.基本歩法の訓練は、ゆっくりと均一な速度で行い、目的は阻力を探ることである。阻力を感じたら(前進と後退)、意念で重さを加え、阻力を強め、さらに変化させて阻力を強める。軽重はいつでも変化させることができ、目的は摸索した力が力強くかつ霊活多変であることである。

36.阻力を摸索するのは技撃樁の方が明確で、簡単で、効果が出やすいが、健身樁でも同様に阻力を摸索している。例えば、健身樁の中で言う「揺法」、「旋法」は阻力を求めるものだが、細やかで軽快な、さらに高度な練習法である。

37.上下の争力は、前脚と首、後脚と頭頂が重点である。身体の各部分はすべて参加しなければならず、その重点は「肩は担ぐように、手は籠を提げるように」(意念)である。挺抜は上下の争力だが、非常に軽微であることが要求される。

38.前に発力する時は、まず力を後ろに向ける。つまり、身体を弓に見立て、上下の争力によって強い弦を形成し、身体の力を後ろに当てると、自然に前に跳ね返る。上下の争力のばねが強いほど、発する力量は大きくなる。上下の争力で主要なばねを作り、さらに意念でいくつかのばね(上下、前後、左右)を想定し、内と外が争い、内と内が争い、「争わないところがない」状態に達するのである。

39.(1)争力は形に表さないようにする。争力のばねには大小がある。練習時には、自分が木を引っ張っているように想像したり、木が少し動くとあちこち動くように想像したりする。さらに自分が巨人のように周囲のすべてに影響を与えるように想像する。(2)試力の動作は遅くする。身体が手を動かすのであって、手が身体を動かすのではない。

40.意拳の「整勁」とは、身体が調動した力をできるだけ全面的に調動することである。一人一人の鍛錬は異なり、どの部分をどの程度発揮できるかは異なる。発力の脚で地を蹴る問題については、形意拳論ではすでに「消息は全ては後脚の蹴りに頼る」と言っている。これは作用力と反作用力のことである。

41.発力の練習は、1)固定姿勢での発力。2)試力の練習と同じように動作の状態で、突然発力する。上記の手で摸索した内在する阻力感と重量感を、突然振り出す。そのため、発力前の手には一部の力があり、大体3、4割の力で十分である。3)発力時は周身をできるだけ放松させ、突然敵が襲ってきたと想像し、それに応じて突然発する。発力の共通の要点は、一触即発、一発即止である。

42.綿球を打つ練習の目的は、1)手の的確さ 2)全身動作の協調 3)発力の火加減(時間)、つまり拳や掌が目標に接触した時、拳と周身が突然緊張する力の掌握、一触即発である。要するに綿球を打つ時は、前進後退、回避しながら打ち、綿球を遠くに飛ばさないようにする。できれば微かに動くくらいが良く、意図的に少し遠くに打つこともできる。追撃と退却の練習ができるようにするためである。足は自然に多様に動かし、滞ったり、霊を失ってはならない。拳が到り、脚が到り、身体が到り、力が到達する。これが先人の言う「一つが到れば全てが到る」ということである。

43.争力の練習では、初めは意を用いて力を用いず、ある程度形に出すことができる。内在する力の感覚があれば良い。さらに意が到達し力が到達するようにし、争力を徐々に強め、牽引しても動かず、推しても出ない境地に達する。松緊の転換の過程は、少しゆっくりでも良いし、比較的短時間でも良い。要するに、いわゆる「松緊緊松過ぎたるなかれ。実虚虚実は互根である」ということである。

44.王薌齋先生はかつて「松緊の中枢は上下にある」と言った。具体的な練習法は、站樁時に首の後ろ(耳の下あたり)に前足の先まで斜めに伸びるばねがあると想定し、頂心は上を指し、首は同時に微かに後ろにもたれる。この勁を摸索した後、さらに頂心から後脚のかかとまで直接つながるばねがあると想像し、頂心は上を指し、後脚は下に蹴る。いずれも意を用いて求める。動作中の練習法は、摩擦歩の練習時に、前脚の先が地に着き、頭はすぐに上後方に脚先と争う。前進も後退も同様である。力量を掌握した後、さらに脚先が地に着いた後、頂点と脚が争い、一争したらすぐに止める練習をする。その後、任意の直立歩法の中で求めることができる。これは意拳の「発力」の最も基本的な練習法であり、つまり「消息は全ては後脚の蹴りに頼る」ということである。

45.意拳である程度の基礎ができた後、発展の観点から見て、さらに進歩するためには、まず技撃樁から探求する必要がある。前後、左右、上下の六面の力の基礎ができたら、この基礎の上で摸勁の順序を乱す必要がある。例えば、前推すると突然上抱し、上抱した後、左右に分け、左右に分けた後、下に落とし(=栽)、力を下に落とした後、上に回抱し、回抱した後、合力を行う。摸勁時の意念は真でなければならない。力は少しあれば良く、摸勁時の動作は遅くしなければならないが、力は小さく動かし、「意」「力」の感覚が一致していることを体得しなければならない。

また、站樁時の放松に常に注意を払う必要がある。松と緊のどちらも行き過ぎてはいけない。緊が過ぎれば力は鈍くなり、反応は機敏でなくなり、発力は脆でなくなり、人はすぐに疲れてしまうため、身体の鼓蕩力を摸索できなくなる。いわゆる鼓蕩力とは、実際には站樁時の内在する勁の松緊の相互転換によって、身体の内部に生じる極めて小さな震えのことである。それは身体の反応を機敏にし、打撃時の力を猛烈で連続的なものにし、排山倒海、大海の波濤の勢いを生み出すことができる。身体の中には常に鼓蕩と吞吐があり、これは意拳訓練の奥深い段階である。ある程度の基礎ができたら、この方向に向かって探求しなければならない。

この問題は現在多くの意拳練習者が追求しているが、正しい指導と繰り返しの探求がなければ、決して登堂入室の境地には達しない。例えば、左右上下の試力の中でも注意しなければならないのは、下に押す時は非常に浮力の大きい球を押す意念を持ち、球を持ち上げる時は非常に重い意念を持つ。大きな球を左右に回す時は、身体、両腿の間、上身、両手、胸部がすべて球と接触していることを体得しなければならない。ゆっくりと、非常に大きな阻力感を感じなければならない。前進、後退、左右、上下の試力に関わらず、身体が物体と連結していることを体得しなければならない。一か所が動けば全体が引っぱられる。これらの要求から見ると、それはそれぞれの基本功訓練と関連している。

いわゆる推手とは、站樁の六面力をそれぞれの試力の探求を通じて、ゆっくりと始め、その後推手の中で阻力と速度を高め、自分が六面力を随機随勢に発揮できるようにすることである。推手の中で随時自分が発力が的確かどうか、動く中で自分が非常に平衡を保っているかどうか、相手と推手する時に自分の速い動きと遅い動きで整体を牽引して相手を動かせるかどうか、非常に機敏に六面力で高速に鼓動吞吐できるかどうかを確認する。相手を盲人のようにし、あなたと拙力で抗衡できないようにする。このようにすれば、あなたは力を省き、巧みに使い、あなたの長所で相手の弱点を攻撃する。相手の力がどんなに大きくても、彼が平衡を失った時、あなたと強点で衝突することはできず、必ずあなたが一度発力を出せば彼は投げ出されるだろう。

46.サンドバッグで力の補助練習をすることも必要だが、サンドバッグは硬すぎてはいけない。手が力を込めて硬いものに接触すると震えて痛むからである。接触する前に無意識のうちに力を入れなければならなくなり、これが身体の放松に影響し、さらに発力の速度と力量に影響する。そのため、サンドバッグはある程度の弾力性が必要であり、打つ動作(つまり発力)では発力の要求と姿勢に注意しなければならない。サンドバッグを死物と見なすことは最も忌むべきことであり、強力な対手だと想像しなければならない。攻撃は攻撃として、退却も攻撃として、前進、後退、左、右を実際に行わなければならない。

47.二人の簡単な基本的な対練方法:甲は両手首を乙の手首の上に載せ、甲は比較的小さな力(しかし素早く)で乙の両手を突然下に押し下げ、つまり乙の胸より上の部分に向かって指し示す(ただし相手の身体に接触してはいけない)。乙は素早く反応し、甲の動作に密着して追随しなければならない(つまり両者が接触する点に密着して追随する)。熟練した後、相手の両腕を少し左右に分け、つまり前方に指し示すことができる。また、片手を分け、片手を前に指し示し、片手を下に押し下げ、片手を前に指し示すこともでき、自由に変化させることができる。両手を上下に交互に練習し、熟練した後、練習中に発力練習を試みることができる。片腕でも上述の練習ができる。

48.杆子と剣の練習について、拳術はかなりのレベルに達した後、器械の練習をしなければならない。意拳の器械においても、拳の「勁」を器械の上で発揮することが要求され、また「一触即発、一発即止」が要求される。拳術に相応の基礎がなければ、器械を上手に学ぶことは難しい。なぜなら両者は通じているからである。

49.身体の周りに阻力を感じることは、争力を摸索する初歩である。

50.仕事が忙しく、時間が少ない条件下では、站樁以外に、試力、歩行などを細分化して練習することができる。短い数分間を利用して集中的に練習することができるが、精神を集中させなければならず、緊張してはいけない。時には有意、時には無意に行うこともでき、精神にとっては積極的な休息であり、拳術にとっては随時練習していることになる。時間が経てば、その効果は自ずと現れる。少なくとも体験が深まるだろう。これは過去の王薌齋先生が言った「練る時はなく、練らない時はない」、「忘れるなかれ、助長するなかれ」という細やかな練習法である。

51.阻力の要求は、初めは軽いが、次第に重くなることである。そのため、想像する対象も次第に重くなる。初めは両手が非常に軽い球を押しているようだが、後には非常に重い球を推して動かせないような感じになる。

52.「小腹常円」とは、動作時にも心窩を微かに収め、小腹を緩んで円くし、気を上に提げたり下に押し下げたりせず、自然を維持することを指す。外形から言えば、小腹の位置は動作の中で中正の位置、つまり重心の位置を保つことである。発力時は発力の瞬間に気を小腹に貫く必要があり、以前に述べた「試声」の方法は、この時に応用されるのである。

53.争力は初めて練習する時、まず身体各部の争力を確立しなければならない。例えば、後頸と前脚、後胯と前膝、前手と後頸、前手と後手、および身体の外に争力を確立し、前手と前膝を身体前方数尺から十数尺の一点と争力を確立する。練習時、後頸を上に引き上げ、上身の重心を後腿に微かに座らせ、後胯は固定した前膝と争力を引き起こし、後頸が上に引き上げられる時、後頸と前脚の争力も至り、後胯が後ろに引っ張られて後手を引き起こし、後手と前手の争力を引き起こす。争力の動作全体はゆっくりとしなければならない(初心者はゆっくりと、掌握した後は速くなり、さらにその後は松は即ち緊であり、緊は即ち松となる)。両手の肌肉は弛緩し、身体の重心が後ろに移動することで少しずつ緊となるが、ただ少し緊になるだけで、非常に緊張するのではない。身体の重心が最後点まで移動した後、ゆっくりと前に移動し始め、肌肉も自然にゆっくりと放松する。前に移動する時、頭と後脚に上下の争力があり、重心の前後移動の距離は小さければ小さいほど良く、できれば外形から全く見えないのが最も良い。

54.站樁練習時、内に抱える力は外に支える(=撑)力より大きくなければならず、おおよそ7対3の比率である。つまり、撑と抱を互いに用い、力を蓄えて発する準備をし、発しようとしているが未だ発していない状態にある。時には全て内にあり、時には全て外にある。

55.「松緊」はあらゆる体育運動の核心的な問題であり、社会の事物においても同様である。いつ松で、いつ緊となるか。どの程度松で、どの程度緊であるか。その時々の具体的な状況を見て変化させる必要がある。いわゆる「文武の道は、一張一弛」である。張と弛はつまり松緊である。意拳では明確に「松であっても怠けず、緊であっても硬直しない」と提起されている。「緊」とは力があることだが、過度ではない。「硬直」とは過度で動きが不自由になることである。阻力感があれば、阻力の強弱は意念で想像して生じるものである。「松」の状況で練習し、「松」と「緊」の中で練習し、「緊」の状況でも練習し、松緊が繰り返し変化する中で探求する。まるで松に似て松に非ずの境地に達し、松中に緊があり、緊中に松があり、全て意念の支配下にある。