意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

郭雲深論形意拳(9)(『拳意述真』より)

九則

拳術の道は、自己の身体を鍛錬し、病を退けて寿命を延ばすものであり、大きな難しい方法はない。しかし、もし人と比較するならば、それは容易なことではない。第一に心を慎み、自己を知り相手を知り、驕り誇ってはならない。驕り誇れば必ず敗れる。もし知り合いの人で、長く一緒にいて、何の拳を練習し、技の深浅を互いに知っているなら、脚を用いるのを好むのか、あるいは手を上手く用いるのか、皆その大体を知っている。しかし、誰が勝ち誰が負けるかは、まだ言うのは難しい。もし見知らぬ人と、初めて会い、互いに何の拳術を練習し、何の方法を用いるか知らないなら、もし一度手を交えれば、その技が浅い者は、立ち姿だけで見劣りする。もし両方が明手であれば、両者の比較は極めて言い難い。知るべきは、一見して先ずその人の精神が虚霊であるか、気質が雄厚であるか、身躯が活発であるかを察し、次にその言論が謙虚か誇らしげか、その言うことと人の神気・形体・動作が一致するかを察することである。これら三つを観れば、彼の技能の大体を知ることができる。相較の時、彼が先に動くか、己が先に動くか、地勢の遠近・険隘・広狭・死生を弁えねばならない。もし二人が極めて近く離れ、彼が拳を発するか、足を発するかで、いずれも我が身に傷を与えることができるなら、拳経に云うように「眼は毒を要し、手は奸(奸とは巧のことである)を要し、脚は中門を踏んで内に入る。眼には監察の精あり、手に撥転の能があり、足には行程の功がある。両肘は肋を離れず、両手は心を離れず、洞を出て洞に入って身に随う。備えの不足に乗じてこれを攻め、意外よりこれを出す」。これは近地で速さを意図したものである。二人の間の距離が遠く、三四歩あるいは五六歩ほど離れていれば、直接上がってはならない。彼が逸を以て労を待ち、己が拳を発する前に、彼が先に発することを恐れるからである。そのため動き始める時、神気を外に表さず、無意の情形に似せ、ゆっくりと彼の近くまで歩み、機に応じて用いる。彼の動く機が現れたら、己は即ち速やかに上に飛びかかり、あるいは掌あるいは拳で、左に随って左を打ち、右に随って右を打ち、彼の剛柔、己の進退、起落変化は、総じて機に応じて行う。これを遠地では緩やかにすると言う。己の立つ地勢の有利不利も、また敵人によって用い、拘ってはならない。程廷華先生も次のように言われた。彼と相較する時、彼の剛柔、あるいは力が大きいか、あるいは奸巧かを見て、彼が剛なら吾は柔、彼が柔なら吾は剛、彼が高ければ吾は低く、彼が低ければ吾は高く、彼が長ければ吾は短く、彼が短ければ吾は長く、彼が開けば吾は合わせ、彼が合わせれば吾は開き、あるいは吾が忽ち開き忽ち合わせ、忽ち剛忽ち柔、忽ち上忽ち下、忽ち短忽ち長、忽ち来忽ち去り、法に拘ってはならず、敵の情形に応じて行うべきである。敵に勝利をおさめられなくとも、また敵に突然敗れることもない。総じて慎重であることが肝要である。