六則
人がまだ拳術を練る以前、手足の動作は、その後天的な自然の性質に従い、壮年から老年へ、そして死に至る。通家は先天を逆運し、乾坤を転じ、気機をねじり、長生の術を求める。拳術も同様である。起点は平常の自然の道から、その機を逆転し、静から動に至り、再び動から静に至り、三体式となる。その姿勢は、両足が前虚後実であるべきで、俯かず仰がず、左に斜めにならず、右に歪まない。心中は虚空、至静無物であるべきで、わずかな血気もその内に加えることができず、純粋に自然の虚霊の本体であるべきである。本体に着いてから再び萌動して練り去れば、これが拳中の純粋自然の真勁である。また人の本性とも言い、また丹道の最初の還虚の理とも言い、また明善復初の道とも言う。その三体式中の霊妙さは、真伝がなければ知ることができない。内中の意思は、丹道の玄関を点じ、大学の明徳を言い、孟子の浩然の気を養うというようなものである。また河図中の五の一点、太極先天の気と合うのである。
その姿勢の中は、身体の両腿が均等に立つ中ではない。その中は規則の法則を用い、身中の散乱し外に駆け巡る霊気を縮回して、内に帰り、正気は初めに戻り、血気は自然にその内に加わらず、心中は虚空である。これを中と言い、また道とも言い、心はこれにより再び動く。丹書に言う「静は性となし、動は意となし、妙用は神となす」。故に拳術は再び動き、練り去れば先天の真意と言い、則ち身体手足の動作は即ち有形の物であり、後天と言う。後天が規則法則に合い、先天の真意を形容し、最初の還虚より、末後の還虚に至り、循環して無端の理、無声無臭の徳、これらを形意拳の道と名づける。
その拳術の最初に蓄積する真意と気は、満足に至り、中立して寄らず、和して流れず、無形無相、これを拳中の内勁と言う(内家拳術の名は、即ちこの理である)。その拳中の内勁は、最初に練る時、人はそのようである理由を知らない。その理は最も微妙であるため、詳しく言わざるを得ず、後学が岐路に入ることを免れるようにする。初学入門には、三害九要の規則がある。三害を犯さず、九要はその理を失わない(『八卦拳学』に詳しい)。手足の動作が規則に合い、三体式の本体を失わないことを調息という。練る時は口は開くようで開かず、合うようで合わず、純粋に自然であるべきである。舌は上顎を押し、鼻孔から気を出すべきである。平常練らない時、あるいは練り終わって収勢する時、口は閉じるべきで、開いてはならず、常に鼻孔から気を出すようにせよ。話す、食べる、茶を飲む時は、口を開けてよいが、これ以外は、総じて舌は上顎を押し、口を閉じ、鼻孔から気を出すようにせよ、慎むべきである! 睡眠時も、また同様である。
手足が相合し、起落進退が一如であることを練るに至れば、これを息調と言う。手足の動作は、規則に合わず、上下が揃わず、進退歩法が錯乱すれば、呼吸の気を牽動して均等でなく、出る気は非常に粗く、胸間が塞がる。これらは皆、起落進退、手足歩法が規則に合わないためである。これを息不調という。息不調のため、拳法身体は順になり得ないのである。拳中の内勁は人の外に散乱した神気を、拳中の規則、手足身体の動作によって、順中に逆を用い、丹田の内に縮回し、丹田の元気と交わらせ、無から有を生じ、微から著に至り、虚から実に至り、皆徐々に蓄積して成るもので、これを拳の内勁という。丹書に言う「凡人の呼吸を以て、真人の処を尋ねる」、荘子に言う「真人の呼吸は踵を以てす」、とはまたこの意である。拳術の呼吸を調え、後天の陰気が積り、もし小腹が石のように堅硬になるに至れば、これは後天の気が蓄積したものである。総じて呼吸は純粋に自然であるべきで、真意の元神を用い、これを丹田に引く。腹は実でありながら虚のごとく、有でありながら無のごとし。老子に言う「綿綿として存するがごとし」であり、「その心を虚にして、霊性はくらまず。道心を振るい、正気が常に存する」、とはまたこの意である。この理は即ち拳中の内勁の意義である。