推手時は相手を「球」として扱い、自分も「球」のような動力を形成する。推手時の各関節の屈曲部は球を挟むようで、肘関節は勁力を充満させ、曲がっているが曲がっておらず、直であるが直でなく、攻守兼備である。相手の腕との接触点では、時には手首を包み上げたり、曲げて勾手にしたり、勾掛時に親指側を突出させて曲げるなど、搭手の異なる状況に応じて手首と前腕の屈曲した凸面で「点」を接する。ここには力点転換の問題があり、相手と接手した際、接触点が変わらない状況下で、相手の来力の頂峰—勁頭の正面を避け、頂峰の側面に転接する、即ち側点を接し、側点(側点は相手が力を得られない所)を利用して相手の勁源を制御し、側点から相手の重心に向かって攻撃を発動し、偏帯、勾掛、扶按、旋動でこの相手の「大球」を操り、機に乗じて発力する。相手には常に球を支え、押さえて(=按)いるような感覚を与え、力が実に落ちず、力を用いれば「空」になるようで、泥地で足を滑らせて転倒するようにする。一度押さえれば相手は膨張して弾き上げられ、足底が空虚になり、球が常に自分の周囲を各方向に転がり、時刻威嚇しながら変幻自在で、相手の中心と重心を見つけることが非常に困難になるようにする。
相手を一つの「大球」として扱い、我が方の双腕は拧裹鑽翻のいかなる変化においても、意は揉動、搓転に在り、意力の点はこの球の中心を指向する。この球は極めて随時我に向かって撞来する可能性があり、勢に応じて導き、順勢に応じて変わり、大球を包裹するように、相手の意力点を包裹し、相手の双脚、双手、頭及び身体の各関節部位を籠罩しなければならず、このようにして初めて相手の進攻を有効に制御し、相手の攻撃力を及時に消化できる。我が双腕が環繞する上下、左右、前後の每一個空間位置においても、若有若無でこの「大球」の中心を指向し、時刻相手の重心あるいは要害部位を威嚇し、相手が脱手乱打を敢えてしないようにする。
意拳拳法の発力時に「一動すれば全身が転じる」の整体効応を充分に体現するために、「抱球」「抱樹」の意念を運用することもできる。双腕、胸腹、両腿内側すべてを抱き、整個身体を「包裹」しなければならず、単純に双腕を抱くだけではいけない。「頭頂天」は上領であり、脚で地を「鑽のごとく」踏み、整体で「抱球、抱樹」で拧転し、双拳は双肩平円上の一「点」のごとく飛速で円弧を脱離(運動軌跡は上の切線のごとく)して抛出し、この点は周身各処と相争して、天地と自然界万物と相争う。
鑽拳発力時、意念は両腕と周身で一球を懐抱し快速で揉動、滾搓する。双腕の飽満な間架を保持し、攻防合一で、整体した間架の転動を有効利用して防守と発力を行う。栽拳発力も鑽拳発力と同様で、ただ揉動する身体部位に区別があるだけである。横拳発力時も整体「抱」の基礎の上で、双腕を身前の一個大球上に搭するという意を体会する。右横拳発力時のように、左腕は左向きに回揉して大球を帯び、右肘下及び大小腕下側は前向き、左方向へ快速で大球を搓滾し、胸腹肩膀は等しく内裹動で大球を快速転動させ、常に双腕の相争、関係を保持する。直拳練習も横拳練習を参照できる。拳法発力時に適当に「球」の意念を運用すれば、整体相争、関連の意力を増加し、下肢の蹬弾力を増加し、人体縦軸及び相関部位の裹意力を増強し、打撃効果を増強する目的を達成できる。
以上で述べた「球」意念活動の運用は、意拳訓練の初級段階に過ぎず、一定の習慣を形成した後は、この意念假借を改変あるいは捨て去ることができ、天人合一、大自然万物との合一の意感を着意して体会し、人体の潜在能量を充分に発掘、激発し、王薌齋先生の「宇宙の無窮力を假借する」の内在する精神実質を深入して思悟し体認しなければならない。
趙志勇『意拳覓真』芸術与設計出版社より