七則
形意拳には三層の用法がある。有形有相、有名有相無迹、有声有名無形の用であり、ついには無形無相無声無臭の用となる。
拳経いわく「起は鋼锉のようで、手落は钩竿に似る。起は進むにあり、落は退くにあり、未だ起たざるは摘字のようで、未だ落ちざるは墜の字のようである。起は箭のようで、落は風の如く、風を追い月を赶って放松せず、起は風の如く落は箭のようである。足は七分を打ち手は三分を打ち、五営四稍は全てに合すべきであり、気は浮かび心意は時に随って用い、硬打硬碰しても遮るものがない。人を打つこと路を走るが如く、人を視ること蒿草の如く、胆上は風響のようで、起落は箭鑽に似る。歩を進めて勝てないのは、必ず敵に怯む心があるからである」。これは初歩の明勁、有形有相の用である。
暗勁に至れば、用法は更に妙がある。「起は蟄龍の天に升るが如く、落は霹靂の地を击つが如く、起これば形無く落ちれば踪無く、去意は卷地風に似て、起がなければどうして再び起を用いられるのか、落がなければどうして再び落を用いられるのか。低きの中に高きを望み、高きの中に低きを望み、打って起き、打って落ち、水の浪を翻すが如く、鑽でもなく翻でもなく、寸を以て先と為し、足は七分を打ち手は三を打ち、五営四稍は全てに合すべきであり、気は浮かび心意は時に随って用い、身勢を打破して遮るものがない」。これは二歩の暗勁であり、形迹有無の用である。
「拳に拳無く意に意無く、無意の中に真意がある。拳打は三節の形が見えず、形影を見ることはできず、時に随って発し、一言一黙、一挙一動、行止坐臥、飲食茶水の間に至るまで、皆能く用いることができ、人がいても人がいなくても、用いないところはなく、故に入れば自ずから得られないことがなく、往けば其の道で得られないことがなく、寂然として動かざるに至り、感じ遂に通じ、可とするも可とせざるも無い。これは三歩の化勁であり、神化の用である。然れども三歩功夫、虚実奇正も、専ら意を奇正虚実に用いてはならない。虚は並びに専ら彼に用うるものではなく、己の手は彼の上にあり、勁を用いて拉回し、落は钩竿の如し、之を実という。彼の手は我の手に着かず、勁を用いて彼の手を拉回するを虚と謂う。並びに専ら意を虚実に用うるのではなく、人の形勢感触にあるのみである。奇正の理も然り、奇は正が無いことではなく、正は奇が無いことではなく、奇の中に正が有り、正の中に奇が有り、奇正の変化は、循環の端無きが如く、用うる所は無窮である」。拳経いわく「拳が行っても空回せず、空回すれば奇拳ではない」とは、正にこの意である。