意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

站樁、試力与断手運動練法之原理(『意拳拳学』より)

意拳の站樁は利己利人の鍛錬方法であり、先ず己の身を得て、要領を掌握し、一定の基礎を得た後に他人を指導する。これは仏家の衆生を済度する道理と同じである。意拳の站樁は三つの段階に分けられる。第一段階は養生段階であり、休養生息、自己医療、強身健体の基礎の段階である。第二段階は得意段階であり、即ち伸筋抜骨の訓練と体認の段階である。この段階の訓練を経た後、拳術に必要な各種の力を体認でき、即ち正しい伸筋抜骨の訓練方法の指導の下で真の意動力動の感覚を見出すことができる。第三段階は意念の発放、吞吐の段階である。第三段階においては、口伝身授でなければならず、書面表現の限界により、ここでは多言を控える。

意拳站樁の第二段階の訓練は技撃を練習目的とする学者にとって極めて重要な段階であるが、実際の訓練方法は複雑ではない。本文は主に渾円樁法及び関連する試力を例として、自己の体認と結び付け、第二段階訓練の方法、訣及び断手訓練の原理を略述し、意拳を習練する際に要領を掌握し、意拳の正道に入ることができるようにすることを主な目的とする。

まず間架構造は正しくなければならず、その要領は三夾二頂、肩撑肘横である。三夾二頂の含意については、これまでの意拳文章で詳しく紹介されているため、ここでは再述しない。肩肘横については、これまでの文章でも紹介されているが、いずれも切実に明示されていない。実際に間架を正しくするためには、肩肘の拳学の要義を真に理解しなければならない。私は幼少より舅の王国強先生に学び、また李志良、姚宗勋先生等多くの前輩の指導を受け、さらに韩嗣煌先生との同院の誼を得て、その理論の神髄を得て、後に王玉芳老師の多年の精力的指導の下で肩撑肘、手腕の真義を徐々に体会するに至った。

肩撑の要領は肘にあり、肘は「指」の意を持たねばならず、即ち双肘は他人が外へ引く(=拉)ような感覚で、肘尖は斜め外を指す。肘撑の要領は手にあり、手は「指」の意を持ち、両手は自然に分かれ、食指相対を基準とし、指は相対する。ここでの指はすべて意念運動であり、絶対化してはならない。三夾二頂、肩撑肘横の要領を行った後、身体のその他の部位は考える必要がなく、全身は自然に放松する。放松の正しい体認は「墜」感を持つべきで、下端に鉛球を吊るした紐のように、自然に下垂し、地面に松であるように見えて、実は地下に墜ちており、身体は自然に虚頂挺抜となる。

指、肘指を通じて、身体を自然に相争させ、身体の牽引感覚を徐々に体会し、伸筋抜骨の趣意を見出していく。一定期間の訓練を経た後、站樁時に身体の両側、肘の両側が自然呼吸に従って動くような感覚を感じることができ、この時両脇は自然に開き、臓腑の自然呼吸を通じて、胸膈膜の昇降は舒展有序となり、人体は自然な状態で気血が加圧され、内循環が加速し、身体の内外が相連なる。

さらなる練習により、一呼一吸の中で指、拉、撑、抱の手部各種の力を切実に感じ、前後、上下、左右の阻力感を体認することができる。さらに鍛錬を進めると、一呼一吸の中で梢節の松緊から全身の松緊の趣意を感じることができる。樁功の鍛錬でこれらの切実な体認を得た後、試力の鍛錬を行えば、事半功倍の効果がある。

試力の練習において、慢は快に勝る。慢とは試力の練習の中で站樁の感覚を見出し、站樁から得た整体の力が運動によって失われないかを見ることである。具体的な方法は、假借の方法を用いて、站樁から得た意を外界の物質と「沟通」させ、整体感を形成することである。王薌齋先生の言う「まず自身に具え、反って身外に求む」である。身体は動くようで動かず、意念は動転する方法によって、行こうとしてとすれば行かざるを得ず、止まろうとして止まらざるを得ないを体会して、行と止の間で味わい、動静の体認、動静の転換を行う。一定期間の訓練を経て、意感は疎から密へ、また密から疎へと至り、反復訓練すれば必ず得る所がある。

站樁、試力と断手運動練法の原理意拳において、試力時にも肩肘、手腕、上下の体認を行うべきであり、久しければ整体如鋳の感を得ることができる。試力時には、「意」という訓練手段を充分に運用して自身の本能を調動させ、それを徐々に大脳が受け入れ、身体が受け入れるようにする。意拳の訓練は老師の口伝身授により、学生に要領を理解させるが、これは真の掌握とは異なり、自ら着実に工夫を重ねてこそ、実学実知を得ることができ、意の空想から実践の真の功夫へと転化させることができる。

体認には三つの要点があり、それは内省、外観、検験である。この三者は一つも欠くことはできない。内省は自己観察、外観は他人による己の観察であり、内省の補充となる。検験は練功で得たものを実際に検証することである。

以下に意拳試力訓練における推拉試力を例として、上述の試力要領を詳しく紹介する。まず樁態(丁八歩)で立ち、站樁中の各種体認を得た後、徐々に両手を伸ばし、両手は形曲意直とし、体形が変わらない状況で、両手と前脚、前膝が出去できるかを体認する。「認」は意拳の術語で、出去の意念を指し、外在の物体の中に挿入するようなものである。真に認の感覚を得たかどうかは、検験することができ、他人がその伸ばした両手を上から叩き、下から支え、左右に揺らしても、その認の意念を動揺させることができなければ、得るところがあったと言える。その後、伸ばした両手をゆっくりと引き戻すが、引き戻す際は両手、膝、足になお前方を指す意があるかに注意し、なければ再びやり直し、繰り返し味わい、本能となるようにする。

次の段階では活步練習を行うべきである。活步は摩擦歩と結合して練習することができる。鍛錬時は周身均整で、失わず捨てず、左右両手を伸張する時、左手は右に奔らず、右手は左手に奔らず、平面を許さず、処処に斜面の意あり、曲がらない処はなく、手指腕を捻り、八方遇阻を体認し、また齊動の奥妙を可とし、掌を変じて拳となし、麻花を捻るようである。指間より拳曲処を指とし、各指力は嬰児の物を持つようであり、緊捏密持松緊の意念がある。肘臂は円活にして、手足相応し、肘部横撑の意を失わず、双肘は車輪の転動のように、進退相合する。歩法の変換時には、両腕が力を得ているかを体認し、立を得ないようで、肩は必ずしも松円ではない。肩松にして力は梢節に至ることを得て、呼吸を通じて一松一緊となるようにする。四腕は弾力が有るべ気で、全ての筋絡は開展する。腰胯は車輪のようで、左右に揺摆し、頭は頂であり、歯は合わせ、足根は力を蓄え、ばねの崩力があるようである。双手の単双は互換し、左右に輪換する。上述の要点を為して始めて試力入門と称するのである。

試力の基礎を得た後は老師の伝身授の下で断手訓練を行うことができる。意拳断手は一手看一手、一脚看一脚、横打縦衝を説く。剛柔相済を講じ、時に左剛にして右柔、時に右剛にして左柔、時に剛時に柔、柔退して剛進する。光線が茫茫するを方と為し、提抱含蓄中に生気を藏すを之を円と言う。出手時は、提頓撑抱兜坠鑽裹を用い、順力逆行し、方を以て円を為し、落手時は含蓄纏綿滔滔不絶を用い、円を以て方を為すを手法とする。

断手を練習する時は、自己の出手の作用点に注意すべきである。意拳断手は実を以て実を撃つことを講究し、これは一般の拳術とは異なる。実は手足であり、その手足を観て、日常の握手の原理を運用し、その出手を誘引するが、手引の方法は必ず老師の口伝身授を経てこそ明らかとなる。その手を截りてその人を撃つは、推手を通じて対方を制御した後に打撃する原理と同じである。敵に遇うての断手の要は虚実互用にあり、両足は前三後七であるが、暗に四六、二五歩を含む。両足運動は横走縦衝を原理とし、双手は霊活に運用し、執著すべきでなく、双手は永く定用が無く、大活焼身の感のようである。

厳格に意拳の幾つかの訓練段階に従って訓練を行い、実践を経て、老師の指導の下で徐々に自己の断手の風格を形成する。文章の篇幅の制限により、断手のその他の注意事項、練習方法、八法の運用等は以後改めて文を撰りて詳述する。以上述べたことは、私の練拳の体験であり、不適切な処があれば、意拳同人の指正を請う。

刘涛・李全有整理『意拳拳学』北京体育大学出版社より