意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

答疑(5)(『走進王薌齋』より)

問:あなたの書いた文章では試力を樁法の中に入れていますが、站樁は試力を含むのですか?

答:厳密に言えば、樁法は試力を含む。樁が一定の程度に達したら必ず試力を練習しなければならない。樁をどんなに上手く立っても、得られるのは点力だけだ。点力の均整、点力の虚実だ。しかし一本の線上で永遠に力を得るには、試力に頼る必要がある。面積上の力(立体)も試力から得る必要がある。站樁で静力を得ることはできるが、動静は互いに根であり、試力の中で体験して摸勁する必要がある。逆に站樁と試力を通して、動中に静があり、静中に動力があり、面積力、線条力を得た後、この経歴と経験があれば、再び站樁しても点の力ではなくなる。まだ動かずに立っているが、動中に静があり、静中に動があり、虚中に実があり、実中に虚がある力も同様に站樁で得ることができる。温故知新であり、站樁と試力の関係はこのようなものだ。

樁が一定の程度に達したら必ず試力をしなければならない。試力がうまくできないと站樁の継続的な進歩に影響し、樁も非常に高い境地に達することはできない。この水準から言えば、樁功は試力を含むべきだ。搭手も同じ理屈で、詳しくは述べない。

大成拳の核心は筋骨を鍛錬することだ。具体的な鍛錬形式は站樁、試力、搭手だ。浅い水準から言えば站樁は站樁、試力は試力、搭手は搭手だが、深い水準から言えば、站樁、試力、搭手は一つのことだ。一つのことになるまで練習して初めて本当に樁、試力、搭手を理解したと言える。初心者には分けて説明する必要があるが、ある程度功夫のある人には一緒に説明する必要がある。王薌齋老先生はかつて長い期間、站樁だけを言及し、他は何も言及しなかった。彼は大成拳の全てを樁で説明し、技撃も含めていた。彼が最後に教えたのは站樁功で、大成拳には言及しなかった(公の場では)が、言っていたのはやはり大成拳のことだった。この境地に達すると神意の事となり、どんな動作をしても関係なく、全て神意となる。この時、彼の言葉を借りれば「拳本服膺、推名大成」と呼ぶ。

要するに、樁功は試力を含むだけでなく、多くのものを含んでいる。拳の中のことは全て含んでいる。しかし初心者に対しては、やはり站樁は站樁、試力は試力と、混同して話すべきではない。ある程度に達したら自然に結合させるのが良い。

問:試力は遅いものから速いものへ、練習すればするほど速くなるべきではないですか? そうでなければ技撃でどう運用するのですか?

答:試力は遅ければ遅いほど良く、しかも試せば試すほど遅くなる。私には友人がいて、ある太極拳の大家は一つの動作を2時間練習すると言っていた。私は信じなかった。私の体験では、一つの動作をどんなにゆっくり練習しても2時間には達し得ないからだ。もし本当に2時間だとすれば、それは站樁になってしまうのではないか? この話は多少誇張があるかもしれないが、ここから一つの理を見出すことができる。つまり、試力は遅ければ遅いほど良いということだ。

試力を始めたばかりの者は遅くても力がなく、速くても力がない。しかし力を練るには必ず慢から得なければならない。速ければ速いほど力は得られない。もちろんこの力が指しているのは静力だ。長く遅く練習すれば力を得る可能性がある。慢練するだけでなく、さらに止まる必要がある。頻繁に止まり、絶えず止まる。動くときは遅く、動かないときは止まる。このようにしてこそ力を得ることができる。力は慢から得られ、力は停から得られる。力が大きくなったらまた使い方を知る必要がある。搭手の経験と結びつけ、慢の中で体得し、停の中で体得し、慢の中で思惟し、思惟が明確でないときは止まり、思惟が明確になったらまた動く。拳術には「勇を交える者は思惟してはならず、思惟する者は寸歩も難しい」という言葉がある。これは技撃時のことを指すが、試力時は必ず思惟しなければならない。思惟しなければ寸歩も難しい。

技撃時にどう使うかについて言えば、中国武術功夫のある者は技撃時にボクシングのような動作のように速くはない。速く打つ、虚を打つのではなく、功夫のある者は実を打つ。実を打つとは搭手のことだ。守中、用中、奪中を通じて、相手に搭手を強いる。一旦搭手すれば、この種の遅い練習で得た力は速く、大きく、手を合わせれば銃よりも速く、「霊機が一動すれば鳥は飛ぶことさえ難しい」のように速い。この種の力は専ら相手の横竖力の転換の間に鑽り込む。この間が無力なので、誰の力よりも大きいのだ。

試力の正しい方法は遅ければ遅いほど良く、功夫があればあるほど遅い。功夫のない者は遅くしようと思っても遅くできない。

問:形意拳の古い拳譜に「鷂子穿林」という言葉がありますが、これはどういう意味ですか?

答:鷂子穿林の原意は、鷂が林を通り抜けるとき、左右上下の方向をとてもよく把握し、非常に熟練していて、木に触れないことを指す。これは武術の中の「搬」「把」力によく似ている。搬力とは物を持ち上げる力を指す。把力とは物を持ち上げるときに比較的安定していることを指す。例えば、我々の生活で水の入った盆を持つとき、盆自体に重さがあり、搬力が必要だ。水を持つときに水をこぼさないようにするには安定性が必要で、拳では把力と呼ぶ。例えばスポーツ項目の射撃では搬把力が必要だ。銃を支えるには搬力が必要で、テン・リングス(訳注:漫画に出てくる武器)を打つには安定性が必要で、これが把力だ。ただし射撃運動に必要なのは局部的な搬把力であり、武術に必要なのは全身の各関節、各部位の搬把力、三節の搬把力だ。王薌齋生は站樁で静力を出すべきだと言い、静力には「展、抗、横、抖、順、劈、楼、搬、把、撑」の力が含まれると言った。搬把力は静力の中の二つの力だ。鷂子穿林が言っているのは、功夫がある程度に達したとき、身体の中に現れる一種の感覚のことで、この感覚が大成拳で言う搬把力なのだ。

問:「形は破体せず、力は出尖せず」とはどういう意味ですか?

答:形は破体せずとは、技撃時に中線を守るべきで、動作上で中線を守るべきということを指す。中線とは敵味方双方の最短距離を指す。中線を守れば、相手が私を攻撃する時必然的に中線を避けることになり、そうすると遠回りになり、私は時間を稼ぐことができる。中線さえ守れれば、敵味方双方の競り合いで既に先機を制したことになる。動作で中線を守る鍵は力にある。この種の力は必ず静力でなければならない。この種の力の源は自争で、大きな幅の動作を必要としない。動作の幅で発力すると中線を守ることはできない。仮にあなたの動作が中線上にあるとして、一度引けば、動作に幅が出てしまえば既に中線上にはなく、自然と中線が露出してしまう。この時、形が既に破体したと言える。静力というこの種の力を、王薌齋老先生は渾円力と呼んだ。渾円力は立体的な円であり、平面的な円ではない。渾円力は出尖しない。力が一度出尖すれば局部的な力となる。渾円力は整体力なので、力が出尖しない機能を持つ。形が破体しないようにするには、必ず渾円力の保障が必要だ。渾円力があってこそ、力は出尖しないことができる。出尖し力を備えてこそ、中線を守ることができ、形が破体しないことができる。しかし中線がどこにあるかを知る必要がある。渾円力を備えた人だけが中線がどこにあるかを知っている。中線がどこにあるかを知り、動作肢体が中線上にあってこそ、形が破体しないと言える。

「形は破体せず、力は出尖せず」は大成拳の最高境地だ。郭雲深の言葉を借りれば「化勁」段階の事だ。大多数の大成拳を練習する人にとっては、やはり基礎的なものをより多く研究すべきだ。基礎的なものとは筋を伸ばし、意を練り出し、静力を練り出すことだ。

李栄玉『走進王薌齋』大展出版社有限公司より