高級段階の試力は、「神光」旋回の力、すなわち宇宙の力の假借を試すことである。この水準の試力について、王薌齋先生は「この練習は拳の中で最も重要で、最も困難な部分の一つである」と述べている。なぜなら、力は試すことによって知ることができ、知ることによってその用を得られるからである。
「神光」旋回の試力では、まず意気中の「神光」が身体の内を動く際に、穿堂に風が往来するような感覚を体感することから始める。外気と内気が交融し、骨骼や毛髪が「神光」の旋回中に矛盾と円融があり、支撑、遒放、収斂を互いに為す。試力の際は、まず段階的に体感し、「行こうとして止まり、止まろうとして行く。更に行くべきでない時に行かなければならず、止まるべきでない時に止まらなければならない意」を通じて、「神光」旋回の六面争力を感じ取る。意力が円融で、随時随所で感じて発せられ、宇宙と呼応できるか、宇宙の無窮の力を假借して事実にできるかを試す。宇宙と呼応するには、まず大気を感じることから始め、意念の領導により虚無の中で実際にあるものを探り、実中で虚無を模索する。以前に説明したように、強い酒や飲料で試すことができ、変化があればその能力があることを示す。人の感覚器官は耳、鼻、舌、身、意であり、知覚する能力は色、声、香、味、触、法である。ここでは主に触が重要だが、偏らずに六根が相互に使えることも大切である。特に外界との呼応においてはそうである。呼応できるようになったら、次に光波の松緊の鋒棱と地心との争力を試す。初めは手で空気の阻力を感じ、その阻力と同じ量で呼応する。次に全身で試し、習慣化すれば、假借した力が事実になる。徐々に「意は断たれず、霊は使散し、混沌と一体となり、わずかに動けば触牵となる」「縦横に汪洋とし、太空に充満し、舒适に力を得て、奇趣が生まれる」「有形有象はみな偽りで、無形無象こそ真である」という段階に達する。すべての力領は混元から拡大し、空虚無我の中から来るものであり、また神光旋回の鋒棱から徐々に体感される。矛盾や円融がないところは全くない。
これらの力量を得ることができたとしても、習拳の道がこれで完成したと思ってはならず、ただの力量の資本を得たに過ぎないことを忘れてはならない。
彭振镝編著『意拳的奥妙』北京体育学院出版社より