意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

意拳訓練中的松緊転換(『拳拳服膺』より)

この日、彭老師は学生たちに試力を教えていた。小王は老師に尋ねた。「意拳の中に、站樁、試力、発力、推手、実践のすべてに通じている要素はありますか?」

「良い質問だ。松緊の転換こそが、あなたが尋ねた、站樁、試力、発力、推手、実戦の中に通じている要素だ」

彭老師は言った。「松緊の転換とは、意念活動訓練の中の松緊の転換を指す。 意拳の初学者は、まず『松』を学ぶべきだ。この『松』とは、肢体から精神までの放松であり、内外合一の訓練を同時に行うことである」

そう言いながら、彭老師は養生樁を立った。

「站樁を始める時、このような訓練を行うべきである。肢体を緩め(=松)、上から下へと検査する。首筋は緩めたか? 緩めよ。肩背は? 緩めよ。両腕は? 緩めよ。腰腹は? 緩めよ。これで上半身はすべて緩めた。

次は精神の放松である。自分が練功しているとは思ってはならない。自分は休息していて、風景を望んでいる。意念から精神の放松を導く。これが内外の統一である。意拳の站樁は意念活動訓練の始まりであり、まず松から探り、養生樁から始める。

例えば、养生桩の浮托式の練習では両足は肩幅と同じで、八に似て馬ではなく、八歩でも馬歩でもない。自然な姿勢を見つける。両腿はわずかに曲げるが、曲げる角度は大きくする必要はなく、小さくても良い。これも自然であるべきだ。臀部はわずかに収め、尾閭中正、頭項正直、沈肩墜肘を求める。

自分が温水に浸かっていると想像する。水温はとても暖かく、舒適で、全身が温水の中で自然で舒適で、暖かい。舒適で自然な感覚を意守する。これが意念活動訓練であり、同時に局部的に両手で気球を抱くように想像する。抱勁が強すぎれば球は破れ、弱すぎれば球は飛んでいく。球が破れず、飛ばずにいる勁を探る。これが矛盾力、撑抱の力であり、これは養生の角度から、松緊の転換の訓練を始める。精神と肢体の相互関係から体認し、『松緊、緊松、が行きすぎてはならない』」

彭老師は続けて言った。

「この放松の訓練は非常に重要だ。人々は日常生活で多くの悩みや心配に囲まれ、常に緊張や不安を伴い、精神と肢体は放松できず、病気に悩まされ、潜在能力も制限される。だから、意拳を始めるときはまず健身から始め、一つには病を取り除き健身を目指し、もう一つは潜在能力を開発する。この放松訓練は軽視してはならず、非常に重要だ。

また、技撃の中では、攻防の力量、速度、反応はすべてこの松緊の転換の中で実現される。さらに、松緊の訓練はまず放松から始めるべきで、放松できれば素早く緊張し、能量を発揮できる。

訓練されていない一般人は、通常、肢体がある程度緊張した状態にあり、肢体、筋肉、精神は放松できていない。彼らが力を発揮する時、肢体、筋肉、精神の松緊の転換の程度や幅は小さく、そのため力量や速度、反応は大きくも、速くもない。だから意拳の站樁を始めるときは、まず松静から始め、人を自然な状態に戻すことを目指す。これを換勁の練習と呼ぶ。まるで自然界の猛獣のように、普段は神を凝らし静を守る。放松訓練を受けた学生たちは、肢体、筋肉、精神の松緊の転換の幅が大きく、力量、速度、反応が速い。長年にわたり、私の学生たちは全国各地から来ており、この訓練の効果を広く体験している。」

彭老師は言った。

「緩めることができるようになった後、站樁の技撃樁の段階では、激発状態の訓練を行う必要がある。つまり、松緊、緊松の幅を大きくする訓練である。これには二つの段階がある。一つ目は、抱樹の意念活動訓練、二つ目は、神光旋回の意念活動訓練である

技撃樁における抱樹意念活動の訓練段階では、意念中で全身で大樹を環抱することを想像し、腕、胸腹、腿の内側がその樹と密接に触れる感じを持つ。まず、その樹を上下に動かすことを想像し、次に前後に推したり引いたりすることを想像する。その後、広げたり縮めたりすることを想像するが、これはすべて意念活動であり、実際の動作ではない。意念の指導のもとで微動があり、上下肢、腰背、胸腹が協調して力を用いることに注意し、上下、左右、前後の周身争力があり、上下の争力を軸にして渾円を実現する。拉、推、提、砸、分開、擠合の想像を行うが、実際には何もしない。触れなければ何もないが、触れればどこにでも力がある。王薌齋先生の『習拳一得』にあるように、『一度触れれば爆発し、炸力は断続せず、拉、推、提、砸、分開、擠合の順番を絶えず変更し、精神は満ち足り、神は霧豹のように、意は霊犀のよう』である」

「神光旋回の意念活動は」と彭老師は言った。

「高度な段階の意念活動訓練で、站樁、試力、発力の訓練に貫通する。

周囲の『神光』が旋回することを意念し、触れた瞬間にすぐに緊かつ張となることを想像する。己身から宇宙にかけて、六面争力が螺旋状に起こり、波浪のような松緊があり、上下の枢軸が曲折し、百重の線が絡み合う。まるで巨風が木を巻き込み、地から飛び立つような、上下、前後、左右が天地との平衡均整な渾円力を形成する。『神光』が旋回し、その速さはローラーのようで、あらゆる速度を超える。筋肉は激蕩し、力は火薬のようで、手は弾のようである。この精神假借の下で全身には霊蛇のような変化、体が燃えるような激発状態になり、反応、速度、力が個人の最高水準に達する」

彭老師は続けて言った。「これが站樁、試力、発力の中の意念活動訓練での松緊練習である。しかし、養生と技撃を交互に練習することが重要だ。松の中に緊を含み、緊の中に松を含み、松緊、緊松、矛盾が複雑に絡み合いながらも互いに依存している」

彭老師はさらに述べた。「王薌齋が言ったように、『いかなる力を練習をしたとしても、形は破体せず、意を有象ではなく、力が一方向に出尖してはならない』。この言葉は、実際には神光旋回の意念を假借して、六面争力が螺旋を起こすことを指し、出拳や出脚の訓練を語っているわけではない。なぜなら、それは方向があり、力学に適合しているからだ」

そう話している間に、彭老師は小王を含む十数名の生徒たちを一列に並べ、揉球の試力訓練を指導した。纏絲勁を探し、滾裏兜撑の練習を行う。休憩時間に、彭老師は言った。

「試力と発力の中の摩擦歩も、松緊の転換訓練を行う必要があり、多くの意拳愛好者がこの部分の重要な内容である虚実の転換訓練を見落としている。実際に意拳は、虚実の転換も松緊の転換訓練に含めている。

虚実の転換とは、体重の運用に関わる。体重を運用して人を打つことは、虚実の転換訓練の重要な部分だ。この訓練は、歩や身法、発力に関わる。自分の体重を用いて、どのように踏み出し、転回し、跳躍するか。拳、足、膝、肘に至らせ、自身の動きが自然の法則に合致するように研究する。多くの意拳の人々は、体重の虚実の転換を使って人を打つ方法を理解しておらず、その結果、発力はボクシングよりも力がない。しかし、意拳の松緊の転換も試力から得られるべきだ。王薌齋は『力は試して初めて知られ、知って初めてその用を知る』と言われた。

例えば、撑拧插按の試力、技撃站樁から始め、両手を前に伸ばし、両手を糖蜜に挿入し、多くの糸を引き出すことを想像する。手掌には牽引の力がある。何度も繰り返し、最初は糖蜜の中で撐擰挿按を想像し、松の中でこの力を探し、基礎ができたら、徐々に想像中の糖蜜を生地に変え、練習の基礎が深まるにつれて、両手を前挿後撑する間に、生地が大きくなり、重くなる。試力は、上下前後左右が均整でなければならない」

そう話しながら、彭老師は小王と推手の練習をし、撐擰挿按の試力を適用した。次に、推手中の揉球の練習を行った。実演しながら、彭老師は言った。「これらの試力は推手の中で適用でき、推手の中で体認される」。そう言って彭老師は小王と一緒に推手中の撐擰挿按の適用を実演した。

「相手が両手で私を推す時、自分の両手首を支点とし、相手の腕の下に作用し、自分の身体を重力方向に使い、杠杆力をかける。相手が自分の上方に持ち上げられ、重心が引き上げられると、自分は插按の力を使い、相手を打ち出す。ここでは力学を理解する必要があり、どこに杠杆力を使い、どこに螺旋力を使うか、どこに分力があり、どこに合力があるか。ここでは力学だけでなく、意念が外部環境と呼応することも必要だ。すべてを理解し、試力から繰り返し探し、抽象から具体へ、具体から抽象へと反復練習することで、試力から推手への適用を真に掌握することができる。これらの練習はまた、神光旋回の光波松緊の転換に戻る。王薌齋老師は『各種力学の知識があれば、大気の力量と呼応し、大気と呼応することができ、波浪の松緊を利用できる』と言われた(『習拳一得』)。

次に実戦中の松緊の転換訓練について話す前に、推手中の松緊の転換について話ししよう。

推手の練習にも松緊の転換がある。まず、推手の訓練を通じて懂勁を達成し、懂勁はまず聴劲ができることから始まる。聴勁とは、触覚を通じて相手の勁路を来るものと去るものを知り、力を借りて力を打つ効果を達成することである。この訓練は中国武道の奥深い部分だ。触ることは推手の主要な感覚方法の一つで、この感覚は松の中で体認されるべきだ。意拳の推手は一手対一手であり、さらに太極の推手の掤擠按、二手対一手を加えるべきで、滚裹兜撑の中で松緊を兼ね備え、松緊の転換を行い、化打と攻防を二から一に変える。ここには纏絲力、分力、合力、斜面力、杠杆力、爆発力があり、化は松、打は緊、あるいはその逆である。

推手を意識的に実戦に変えることが必要だ。ここでは、接触してからの攻防を、接触しない攻防に変えることが求められる。これには条件付きの実戦で、意念の松緊の転換を用いることが強化される。例えば、前拳の化打に対しては、外側から内側へ、沾粘拧裹し、意念の呼応には松緊の転換が必要である。王薌齋先生は『発力は、ただ撃出だけに注目するのではなく、撃出、撃中、未撃中も観察しなくてはならない。自分自身が発動する力が、前後、左右、上下の平衡、均整、具体的な螺旋の錯綜する力量があるかどうか、どこにも向かわない力量があるかどうか、軽松ではなく、正確で、慢中に快の惰性力があるかどうか、本能的に発動する、期せずにそうなり、知らずに至る力量があるかどうかである』と言われた」

彭老師は総括して言った。「ここで王薌齋先生は、必然から自由への訓練過程を語った。すなわち、条件付きから無条件の実戦訓練へと進むことで、無意識で、規範的な運動条件反射攻防の系統の構築が達成される。私たちこの世代の人々は、訓練実践の現代化を通じて、自らの武道文化を豊かにし、復興させる必要がある。」と言って、彭老師はこの授業を終えた。

彭振镝『拳拳服膺』天縁大逓文化発展公司より