意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

論含蓄、松緊、虚実、動静(『大成拳原始訓練与方法』より)

論含蓄

薌齋老先生の拳論では、含蓄について多く述べられている。例えば、敵に遭遇した際は、虎が羊に襲い掛かるような状態である。獲物に襲い掛かる直前の老虎は含蓄の状態にある。さらに、「勢は龍駒が糸を引くように」という表現もある。烈馬が騎手に手綱を引かれて頭を動かす時、馬は含蓄の状態にあり、騎手が手綱を緩めると馬は飛び出して行く。また、「勢は鷹が鶏場に下るように」「勢を蓄えて発せられるのを待つ(=蓄勢待発)」という表現もある。

人が発力する前には本能的に準備段階があり、大成拳ではこれを含蓄と呼ぶ。先人たちは敵や野獣との闘いの中で含蓄の重要性を深く認識し、力を発揮する前の準備段階、つまり含蓄の状態を拳法の訓練、例えば站樁、換勁、操手などにおいて意識的に練習し、長期の訓練を通じて、どんな姿勢でも含蓄の状態になれるようにした。含蓄を自然な状態、習慣にすることで、迅速に発力できるようになる。この訓練方法を理解し、練習した人は発する力が非常に速い。技撃にも大いに役立ち、重心の調整も非常に速くなる。

含蓄の状態にある人は、いつでも発力して相手を打撃することができる。相手に接触する前に怒りの表情を見せ、掴みかかるような姿勢をとって、威嚇するよりもはるかに大きな脅威を与える。発することができるのに発さない、発するがまだ発していない状態を維持することが含蓄であり、含蓄の状態を維持する時間の長さは功夫の大小を示す。これを人間の一種の本能として鍛錬して身につけるべきである。

含蓄を身につけることができれば、養生や技撃において大きな役割を果たす。現在の世界のどのスポーツも、発力する前に準備段階が必要であり、発力の順序から逸脱していない。西洋の科学は発展しているが、人体の本能を明らかにすることに関しては、我々の伝統的な拳術にはかなりの差がある。例えば、西洋のスポーツ、ボクシング、サッカー、バスケットボール、バレーボールなどでは、多くの科学的知識を訓練に応用しているが、発力の準備の順序からは逸脱できない。彼らはリラックスという手段を用いて発力の準備段階の時間をできるだけ短縮しようとしているが、結局のところ放松は含蓄に代わることはできない。

論松緊

大成拳を練習する上で、松緊の理解は鍵となる問題である。松ができれば緊もあり、松を理解すれば自然に緊もできるようになるため、まずは松を体会する。

拳術で言う「松」とは、一般的なスポーツのリラックスとは異なる概念である。一般的なリラックスとは、力を使わず、緊張しない状態を指すが、拳術での松は、意緊の状態で肌肉が相対的に放松している状態を指す。これが真の意味での松である。

例えば、站樁の過程で両腕の松を体験する際、両腕の意が緊の状態で、その中で両腕の肌肉が放松している状態を感じることが求められる。抱球樁では両腕に内抱外撑の感があり、これを意緊と言うこともできる。一定の意念誘導により、両腕に自然と抱勁を感じつつも、肌肉は相対的に放松している。力を少し加えると、筋肉が松から緊に変わる感覚がある。この状態が両腕の松と言える。松と緊、緊と松を過度に行わないことが、拳学のより高い水準の内容であり、長年の練習を通じてのみ体験できるものであ流。初学者が目指すべき目標ではない。

また、梢節は緊であり、根節や中節は松でなければならない。小腕より下(小腕、手、手首、掌指)は緊であり、小腿より下(小腿、足首、足指)も緊であるべきである。一方で、膝より上、肘より上(肘、肩、五臓六腑、腰、胯、膀胱)は松であるべきである。

身体の各部位、骨、関節には松と緊の問題が存在し、敵に触れる瞬間に身体の各部位の松と緊の変化する。これを理解し、体感するには、長時間の練習と熟考が必要である。だから、初学者は発力を学ぶべきではなく、そうでなければ身体の健康を大きく害し、実際の技撃にも何の助けもならない。

論虚実

虚実は一道であり、拳術家が一生をかけて研究し、その楽しみは無窮である。拳術における虚実は、対立と調和の中にあり、虚の中に実が生じ、実の中にも虚が生じる。虚を用いて実を帯び、実を用いて虚を帯びる。虚の中に実があり、実の中に虚があり、虚実が結合する。この道を深く理解した人だけが、動作を行う際に「一面が鼓、一面が蕩、身体のどこにもばねでないところはない」という真の体験を得ることができる。

薌齋老先生の拳論には、「習時には、三尺以上七尺以内の範囲に、四方から大刀や斧を持った強敵や猛獣、毒蛇が忍び寄ると想像し、生存競争の情景を無畏の精神で対処し、虚の中に実を求める」「大敵が囲まれたとしても、自分が無人の境に入るように周旋し、実の中で虚を求める」とある。站樁や摸勁の一部の段階では、仮想の敵が攻撃してくる状況を想像し、敵との戦いの中で虚の中の実を求める。実際の断手では、相手を小さく見て、相手をはっきりと見ずに、敵がぼんやりとしているかのように感じ、両腕、腿、頭など全身を自由に一撃で相手の間架を破壊できるようにすることが実の中の虚である。

站樁、摸勁、推手を行う時、自分が発力できるように感じ、変化がある時が実であり、反対が虚である。初心者は実点が少なく、虚点が多いが、自身の功夫が深まるにつれて、実点が長くなり、虚点が短くなる。しかし、人には虚の部分がないことはなく、虚実は常に相互に変化する。樁上に功夫がある人は、虚点の変化が非常に速く、実点が比較的長く、虚点が短く、相手に見つけられにくい。薌齋老先生の拳論には、「実とは何か、虚とは何か、虚は即ち実であり、実は即ち虚であり、虚実の変化の要点を知るには長い経験が必要」とある。恩師の選傑は、「虚の中に実があり、実の中に虚がある、虚実が互いに変化することが、大成拳の実戦の初級段階である」と語っている。

論動静

静は動の体であり、動は静の用である。内在的な動静であれ外面的な動静であれ、動静は互いに根となり、静は動であり、動は静である。身体の各部位、各関節で行う様々な動作において、動と静が存在する。

「静」とは何か? 站樁を例に取ると、外形が不動であり、つまり外見的に静であることを意味する。自己の体内で様々な勁の変換を模索する際、例えば撑抱、拧裹、撕挣、提踩など、どのような勁を体験しても、それは内面の動である。身体内部の骨、筋肉、気血が動き始めたら、必ず外面は静である時である。外面が静であれば、内面が本当に静止であることはあり得ない。

「動」とは何か? 摸勁について言えば、摸勁時の外形の上下、左右、進退の動きが「動」である。外形が動く時に、内面の静を体験し、様々な勁の変化を感じるが、身体内部は確かに静止である。内面が静止している時にのみ、外面の動を体感することができる。

動静は一見矛盾しているように見えるが、実のところ元々は一体のものである。実際の断手でも、動静の区別が存在する。普段の練拳と断手では、一つのように見えるが、動静をはっきりと区別する必要があり、断手時にはまるで別人のように見える。「静は処女のようで、動は兎が逃げるようである」と言われる。敵と対峙する時、未接触の時には、静で動を待ち、後発で先に達する。敵が動かなければ、私も動かない。敵がわずかに動けば、私が先に到達する。恩師の選傑先生は、「拳を行う時は、静で動を待ち、後発で人を制するが、力は常に敵より先にある。敵に触れて発力する時、速動して静に帰る。これが『一動一静、互いに根用と為す』である」と語っている。

王紅宇『大成拳原始訓練与方法』より