意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

張樹新先生の著書『拳学真意:持環得枢』

「持環得枢」の理論は、意拳(大成拳)の功法における重要な構成部分である。王薌齋先生は拳学総綱の中で、「形松意緊で、潜能を発揮し、環を持って枢を得れば、機変は無形である」と提起した。

「持環得枢」とは、外部の「環」を把握することで、内部の根本である「枢」を得ることを指すが、逆に「枢」を通じて「環」を制御し使用するとも解釈できる。「持環得枢」の中で指す「環」は、事物の外部、外形、外縁に例えることができる。一方、「枢」は事物の内部、内容、中軸及び根本に例えることができる。「枢」と「環」の関係を人体に当てはめるなら、まず第一に、人体の意識が「枢」であり、意識の外に及ぶところは全て「環」である。次に、人体の骨髄が「枢」であり、骨髄以外は全て「環」であり、骨髄の外の全ての筋骨皮肉を含む。「枢」と「環」の関係を部分的に言うなら、人体の根節が「枢」であり、梢節は全て「環」である。人体は脚を根節とし、身体を中節とし、手を梢節とする。つまり、脚が「枢」であり、身体と手は「環」となり得る。出拳して撃発する時、上身の手は梢節、肩と肘は中節、脊骨は根節である。上身は脊骨を「枢」とし、肩、肘、手を「環」とすべきである。脚を上げて蹴る時、脚は梢節、膝と跨は中節、腰腹は根節であり、その時、腰腹は「枢」であり、一方、脚、膝、跨は全て「環」である。人体全身において、至る所に「枢」と「環」の関係が存在している。

手について論じるなら、もし相手を突こうとして指だけを使うなら、硬く突けば指を折ってしまう。しかし、もし「持環得枢」の原理を把握すれば、事故は起こらない。まず、指の発力意念を放長し、その力を指先から外に出すようにし、その意は水道管から外に水を噴出するようである。この時、それぞれの指の関節は全て扣合し、内意は円実で、指骨の骨髄を「枢」とし、骨の外の筋肉を「環」とし、内から外へ、螺旋に争拧しなければならない。これは弾丸が物を貫き、電動ドリルが木を削るようであり、内意は旋転の撃発力である。このようにして初めて、意拳(大成拳)でよく言われるような「爪は骨を透かす」効果を達成することができる。

発力時、もし「環」を動蕩しようとするなら、まず「枢」を動かすべきである。「枢」が動く形式は、大体二種類ある。一つは「枢」が直線的な往復の衝撃運動をすること、つまり往復の揺動であり、これは「枢」の最も基本的な運動方式だが、この運動は出尖しやすい。二つ目は、「枢」が円弧状の螺旋運動をすること、つまり遠心運動であり、また争拧の運動でもある。要するに、「枢」と「環」の関係は、簡単に言えば、ちょうど竹竿に鉄の輪を入れたようなもので、もし竹竿が動かなければ、鉄の輪は竹竿から落ちてしまうようなものだ。「枢」が震えて初めて、「環」は「枢」の上に留まることができる。「環」の力量は「枢」の力量によって決定される。

一、「枢」的擺動

「枢」は前後、左右、上下の単一方向の往復運動をし、前後力、左右力、上下力を形成し、それによって「環」を「枢」上で動かし、打撃力を生み出し、最も基本的な発力形式を形成する。ただし、一点明らかにしておかなければならないのは、真の意拳(大成拳)の発力には直線的な力はなく、それぞれの力の発放は爆弾の爆発のように渾円でなければならないということだ。身体は多角度、多支点なので、「環」が「枢」に従って動く揺れも全方位的である。具体的に言えば、脚を力源とし、頭と脚が争う上下の力を「枢」とし、周身のすべての「環」を揺らす。「持環得枢」によって、周身のあらゆる所が「環」の中の「環」、つまり大「環」の中に小「環」が入っており、小「環」の上にもまた「環」がある。発力時は大樹が揺れるように、一枝が動けば百枝が揺れる。このような「枢」と「環」の揺動形式は、意拳(大成拳)の滑車力やばね力を説明するのに用いることができ、要するにそれが表しているのは、鼓蕩する発力の打撃形式である。

二、「枢」的螺旋運動

「枢」が螺旋状に転動し、旋転力を形成し、「環」を「枢」に沿って旋転運動させ、螺旋力を生み出す。この運動形式は、意拳(大成拳)の螺旋発力を説明するのに用いることができる。簡単に言えば、

1、前後力を左右力に変換し、さらに左右力から前後力に変換し、このように一周して形成される螺旋を、横螺旋力とする。

2、前後力を上下力に変換し、または左右力を上下力に変換し、このようにして一周して形成されるの螺旋を、竪螺旋力とする。

3、前後、左右、上下力の変換を総合して形成される多面的な螺旋を、基礎的な渾円螺旋力と呼ぶことができる。渾円螺旋力は全方位的であり、発力の高級形式である。渾円螺旋力は主に内意を「枢」として螺旋状に鼓蕩し、その「枢」は方向が定まっておらず、形体の内を遊移している。外力が自分の身体に当たった瞬間、この遊移する潜在意識は本能的に打撃を受けた点や面に反応し、来力と作用し、弾発したり、化解したりと、すべては自然に瞬間のうちに完成する。具体的に言えば、螺旋力の出拳の打撃形式も、基礎発力と同様に、脚を力源とし、頭と脚が相争する上下の力を「枢」とする。しかし、螺旋力は脚を力源としてねじれ(=争拧)運動をするのであって、単純な位置移動運動ではない点が異なる。一般の人は螺旋力を運用する時、習慣的に腰だけを回転(=転)させ、力の用を知らない者はさらに肩や手だけを回転させ、脚や腿を回転させない。つまり、習慣的に腰が先に動き出すか、肩が先に動き出し、そこから力が腰や肩から手や脚に伝導される。そのため、腿や脚は支撑の作用しか果たすことができず、腰は主動的で、脚は受動的である。このような発力では、当然局部的な力の使用にとどまり、整体の力を十分に調達することはできない。「持環得枢」の観点から見れば、意拳(大成拳)の螺旋発力は、まず脚を回転させ、脚の回転によって力を下腿、大腿、胯、腰、脊骨、最後に腕と手に伝導すべきである。その身体の主幹である脊骨の回転は、手の旋転の意とわずかな時間差があるべきで、これこそが「持環得枢」において、「枢」が先に動き、「環」が後に動くという道理なのである。

ただし、手の打撃力と脚の転動の争力は合致すべきである。初めのうちは、腕を動かさずに、脚と下腿の争力の旋転変化だけを体得することができる。両足を肩幅に平行に立ち、手は放松して下垂する。脚の回転ができるようになったら、手を上げて、手の力量を加える。脚を回転させる時、もし身体を右にねじろうとするなら、まず左脚をねじり、次に右脚をねじる練習をすることができる。左脚は主動的で、右脚は左脚に合わせて動く。つまり、左右の足のねじれは、時間的に先後の伝導順序がある。次に、身体を右にねじる時、先に右脚をねじり、次に左脚をねじる練習をする。この時、右脚は主動的で、左脚は右脚に合わせて動く。同じように身体を右に回転させるが、左右の脚がそれぞれ先に動く順序が異なるため、争力の感覚も同じではなく、さらに、実際の応用では、左脚と右脚は転動の先後の順序が異なるため、相手の身体に及ぼす打撃効果も異なる。それらにはそれぞれ用途があり、相手の力点の変化に応じて、時には先に右脚を回転させる必要があり、時には先に左脚を回転させなければならない。身体を左にねじる時の足の争力の転動方法は、右に回転する時と同じである。

このような左右の内脚の順次伝導転動訓練は、脚の争拧意識を強化し、脚が動かずに身体が先に動くという悪い癖を改善することができる。両脚を平行に立てた状態での争拧転動訓練を習得した後、身体の重心が前三後七の「丁八歩」の技撃間架状態での争拧転動訓練に変更することができる。この状態では、前脚で発力するのか、後脚で発力するのかという問題を研究する。したがって、螺旋試力及び発力を行う時、先に後脚を回転させてから前脚を回転させる訓練を行うこともできるし、逆に先に前脚を回転させてから後脚を回転させる訓練を行うこともできる。要するに、前後の両足の争拧転動力には、わずかな時間差があるべきで、どちらが主動的で、どちらが受動的なのかを明確にする必要がある。先に前脚を回転させる発力は、大半が回挂の力で、発力が突然で、相手が防ぎにくいが、十分に渾厚ではなく、局部的な力になりやすい。先に後脚を回転させる発力の長所は、力が整っていることだが、回挂や勾拿に用いると、やや鈍重に見える。前後の内脚では、後脚で地面を蹴って発力する場合、前脚は照準器、後脚は力の源泉となる。前脚で地面を蹴って発力する場合、前脚は力の源泉、後脚は照準器となる。

前後の内脚の伝導争力の訓練を習得した後、この争拧転換の基礎の上で、内脚を同時に争拧旋転試力及び発力訓練を行うことができる。このようにして、人体の脚の争力は全面的に訓練される。内部の争力を習得したら、外部の争力と連結させることができる。つまり、身体の外部には意念の仮借があるべきで、水や空気の阻力感、摩擦感、粘着感の意念の仮借訓練があるべきで、周囲の景物を参照物とすることもでき、例えば山石、建物、樹木などがあり、そしてこれらの景物との挂、牵扯、争拧の意念の変化を感応する。または特定の環境を設定し、狼や虫、虎、豹がいる場所で、自分がそれらと生存を争うと仮定する。その中で行う、水の阻力、抱球按球、栽樹、抜樹といった意念活動は、いずれも特定の環境下での意念の仮借に属する。特定の環境は、我々自身と外界を矛盾の感応の中で一体化させ、拳勁を探り、功力を伸ばすという目的を達成することができる。

王薌齋先生は、「己を離れば何も求めることはできず、己に執着しては永遠に正しいところはない」と言われた。その道理は、我々に体内外の争力の感応変化を見つけることを求めているのだ。松静自然の中で体内外の争力の矛盾の統一に達することは、意拳(大成拳)が他の拳法と区別される独特の練功法なのである。

両脚が争力を旋転させる時、意念では両脚がそれぞれ一隻の船を踏んでいると想像し、この特定の環境下で、二隻の船の争拧の変化の力を感じる。同時に、頭は上領の意があるべきで、脚が争力を旋転させると同時に、頭も天を拧転すると想像すべきである。螺旋力を発する時は、「天旋地転」の感覚があるべきである。

さらに、両脚と両腿の間に太い丸太を挟んでいると想像し、拧転して発力する時、この丸太を往復して掃くもできる。意念はすべて脚にあり、腰にあってはならない。つまり、腰を回転させるのではなく、足を回転させるべきで、腰の運動形式は脚の争拧運動に従って全体的な円弧に揺れるべきで、先人が言ったように「腰は車輪に似て、脚は鑽に似る」であって、腰だけをその場で拧転すべきではない。

さらに、臀部の下は吸のようで、球に座っていると想像することもでき、一方では両脚の争裹力で全身を旋動させ、もう一方では臀部を下座し、この球をねじりながら地面に押し込む。次に、この球を旋転しながら吸い上げる練習をする。臀部を下座し、球を上に吸い上げると同時に、身体は上領下踩の争力の意念を持つべきで、この一対の矛盾する争力は、身体を満弓の弦の両端のようにし、上は天にかかげ、下は地に接する。「持環得枢」とは、この上下の力を「枢」として、周身のすべての「環」を揺れ動くことである。

ここで明らかにしておかなければならないのは、螺旋力を発放する時の脚の旋転状態は、足の外部形状が実際に旋転するのではなく、脚と地面、脚と脚、脚と全身の裹旋転であるということだ。外観上は、基本的に外に形を露わさない内在的な力の旋転である。王薌齋先生は、「形あれば力は散じ、無形であれば神は集まる」と言っている。

螺旋発力は、螺旋試力の訓練を通じて得ることができる。なぜなら、試力は発力の基礎であり、発力の慢動の形式だからだ。人体の運動は速ければ速いほど調和しにくいため、始めは慢動の訓練から始め、試力を通じて拳勁を探り、最後にこの基礎の上で、その運動速度を加速して発力を形成する。螺旋試力の初歩的な訓練では、主に前後縦螺旋試力、左右横螺旋試力、上下立螺旋試力、多面渾円螺旋試力のいくつの分類に分けられる。

1、前後縦螺旋試力

井戸の上で汲み上げ器を巻き上げるために使われた輪軸を回す意念を持つことができるが、注意しなければならないのは、手だけで揺れ動かすのではなく、脚で揺れ動かさなければならないということだ。つまり、脚の前、後、上、下の螺旋、争拧、踩提の運動によって手の運動を引き起こすのであり、脚は主動的で、手は受動的である。

2、左右横螺旋試力

臼を左から右に螺旋状に回転させたり、右から左に螺旋状に回転させたりする意念を持つことができる。臼とは、昔の農村で小麦粉を挽くために使われた臼盤のことだが、同様に注意しなければならないのは、手だけで臼盤を回すのではなく、脚で横螺旋争拧運動をすべきだということである。脚の運動によって手の運動を引き起こすのだ。さらに、石炭の玉を左に揺らしたり、右に揺らしたりする意念を持つこともでき、いずれも脚と頭の争力によって形成される上下の「枢」を主軸とし、脚を根底として両腕とこの「環」である手を揺らし回すのだ。臼を回す時は、間架の両手を胸の高さに平行にし、遠くは尺を超えず、近くは身に迫らず、手のひらを下に向ける。石炭の玉を揺らす時は、手のひらを上に向けることができる。

3、上下立螺旋試力

桶をひっくり返して水を注ぐ意念を持つこともできるし、車輪を回すような意念を持つこともできるが、いずれも脚を使って手を引っ張り、螺旋状に争拧運動をすべきである。以上の訓練内容では、脚の立ち方は両足を平行に立てることもできるし、「丁八歩」の技撃樁法で立つこともできる。最後に、これら三種類の単一の円弧力を総合し、身体の内部で矛盾の争裹を発生させ、外界と連結させ、人体の多角度、各支点、力点の争力拧裹の変化によって実現される全方位の多面的な螺旋争力の発力が、渾円螺旋力である。前に螺旋力の練習では、脚が先に動き、手が後に動く、「枢」が先に動き、「環」が後に動くと述べたが、実際の実戦応用では、脚が先に動き、手が後に動くという方法にこだわるべきではない。螺旋発力は手が先に動くこともできる。しかし、どちらが先に動くにせよ、一つの宗旨に従わなければならない。つまり、相手の身体を打撃する最後の瞬間に、手の打撃力と脚の打撃力が合致し、一種の全体的な打撃力を形成することだ。そうでなければ、手の勁が先に到着しても、脚の勁がまだ伝わっていないか、脚の勁が到着しても手の勁がまだ到着していないかのどちらかで、均整力を形成することができず、人体の最大の能量を発揮することができない。

さらに、発力時にはもう一つ重要な環節があり、それは腹部の気力の配合が必要だということだ。意拳ではこれを「丹田抖決」と呼ぶ。丹田は人体の中枢に位置し、また気が集まる場所でもある。人体の中部の力量が疲弊していれば、力の伝導が阻害され、均整な力が破壊され、発力が途中で挫折してしまう。「丹田抖決」によって、拳術の内在的な力量を人体の手足及び身体各部の神経末端に達せしめ、骨節に稜を生じさせ、筋肉を激しく揺さぶり、発力を渾厚にし、冷弾脆快硬の性質を持つ。発力の瞬間、腹部は松円から実円に変化し、腹圧を強めることで内気を貫通させ、一種の膨張力を形成する。発力時の内気は膨張し、形体は密実となる。

まとめると、「持環得枢」には二つの意味合いがある。

1、自身の修練に用いるには、「枢」を用いて「環」を動かす。これは「枢」が先に動き、「環」が後に動く練功法である。「枢」と「環」の関係が調和し、均整で、統一されているかどうかを丁寧に体得すべきである。意を「枢」とし、「枢」が一度動けば、周身の動かない「環」がないようにしなければならない。

2、搏撃に用いる場合は、敵の外部の「環」を把握することで、最終的に敵の「枢」を制御することを目的とする。つまり、相手の梢節を制御することで、その根節を打つのである。これこそが意拳(大成拳)が対戦で常用する間架を打つ技法である。搏撃では、身体の運動状態も「持環得枢」である。まず、自身の身体を「枢」とし、身体の運動軌跡を「環」とすべきである。そして、敵の運動軌跡の「環」を把握することで、敵の身体の「枢」を制御し、攻撃する目的を達成する。対戦時、出拳する前の身体の状態は、周身のあらゆる所が「持環得枢」の螺旋鼓蕩の意であるべきである。しかし、これらはすべて外に形を露わさない内的な動きである。電動ノコギリや扇風機が高速回転しているように、見れば動いていないようだが、触れれば傷つく。

「持環得枢」の速動の結果、自分の体内が先に高度に調和して運動し始め、精神が高度に興奮し集中することができる。このようにすれば、外力が当たってきても、敵より後に発することができ、敵より先に打つことができる。これは単純に静で動を制するのとは異なり、単純に身体を放松させるのとも異なる。もし単純に放松しただけでは、大敵が目の前にいる状況では、人の反応は相手の拳の速度に追いつくことは難しい。王薌齋先生は、相手と戦う時、外見上は動いていないように見えても、身体の内部では既に高速で運動していた。王老先生は神意の運用について、「全身は驚いて変化する霊蛇の態度を持ち、まるで炎が身を焼くかのように急を要し、さらに冬眠から目覚めた龍が電光のように直立して飛び立とうとする勢がある。筋肉は激蕩し、力は火薬、手は弾のようだと感じ、神機が微かに動けば雀も飛べない」と指摘している。意拳(大成拳)には周身の点でばねにならない所はないという説があり、太極拳にも周身に太極でない所はないという境地がある。「持環得枢」の観点から見れば、周身に「環」でない所がないようにすべきなのだ。つまり、人の身体は無数の「環」で構成されるべきであり、これらの「環」はそれぞれが動くことができ、それぞれの「環」がばねのようであり、また落とし穴の輪のようであり、柔らかくもなれるし、跳ね返すこともできるのだ。意拳(大成拳)の周身の「環」の鼓蕩は意識の鼓蕩に由来し、意識の「枢」はさらに有意識の「枢」と無意識の「枢」に分けられ、本能的な無意識の「枢」が最高の運動形式である。王薌齋先生が言うように、「拳は拳にあらず、意は意にあらず、無意の意こそが真の意である」。無意識の「枢」は有意識の中から修練されたものであり、形は意に従って変化し、意は形から生まれ、意形と形意は相互に用いられ、これを基礎として、長期に修行すれば、最終的には無意の「枢」を持つ本能的な発力の境地に到達することができるのだ。さらに、広義から言えば、意拳(大成拳)は一つの拳法として、それ自体が「環」でもある。我々は意拳(大成拳)の研究と把握を通じて、最終的に武学の真の意義である「枢」を探求することを目的としなければならない。