意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

武術(うーしゅう)1993年秋号

尚氏形意拳

印象に残った言葉

尚雲祥先生は、「形意拳で言われる「精を練って気と化し、気を練って神と化し、神を練って虚に還す」は、技術の進歩の段階であり、決して神秘的なものではない。」と言っている

先生は、「必ず剛明勁をよく練らなくはならない。精を練って気と化し、丹田の気を身につけ、内勁を身につければ、その時、三乗の功夫の道理を理解することができ、進むべき門を探り当てることができる。」と言っている

なぜ必ず剛(明)勁を練らなくてはならないのか。三段階の練法における三種の勁は、素早く用いにわかに発する剛(明)勁であろうと、ゆっくり動き徐々に発する柔(暗)勁であろうと、さらには不意に発する化勁であろうと、いずれも上下が相随し、内外が合一となり、全身が整って一気になるという基礎の上に求められる

故に、尚先生は、古稀を越えた時に、「私にあと三十年の寿命があれば、もう三十年剛勁を練る」と言っている

尚先生の言う、剛(明)勁を練るというのは、軽騒、自然、協調によって、内外の合一、全身が整い一気となる迅猛剛実さ、打とうと思えばすぐに放つことのできる爆発勁、これらを生み出すことができてこそ、真に人を発する資質を身につけることができ、真に、素早く用いにわかに発する剛(明)勁を修得することができるのである

我々は、柔勁、化勁は段階を分けて練ることはできず、単独で練ることはできないと考えている。そのように、段階を分け、単独で練れば、得るものより失うものが多くなる。剛勁を修得したという基礎があってはじめて、過渡的な動作を、自然、軽松によって、技術分解によって、鍛錬の中で理解していき、ゆっくり動いて徐々に発し、身に触れて力を発する柔(暗)勁を求めることができ、それが進んで、柔が極まって化となり、さらに、全身があまねく霊妙になることを求め、触れればどこにでもあり、動の中に静を求め、静の中に動を求め、知らず知らずのうちに一つのものになり、神が収斂し気が盛んになって体表に達するようになれば、不意に発する化勁も求めることができる