尚氏形意拳の真実
- 登場する先生
- 李文彬
- 内容
- 形意拳における意
印象に残った言葉
私がこうやって立って動かない(三体式を示す)。しかし私の体の中では、神経や思惟、気血はすべて動いている。誰にもそれは見えない。気血や意念、全身の感覚、いわゆる神経はすべて動いている。君がひとたび私のところへ近寄ると、私にはすぐに反応がある。この静の中の動こそが本当に貴重なものなのだ。これは武術の鍛練において非常に貴重なものだ。
君達が站樁の訓練をする時は、ただこのようにして立つだけでなく、自分の意がどの方向へ進み、気がどちらへ向かっているかを考えるようにすることを私は勧める。これらはみな動いているのだ。人は動かないが、この中はすべて動いているのだ。
何かが来ればすべて反応する。我々の訓練はこれをやらなくてはならない。今、私もこれを追求している。私がこのように立っていて、君がこうやって来たなら、私はどうすればよいか。また君が別の方向から来たら、私はどうすればよいかを考えながら訓練をおこなう(站樁の姿勢のまま、相手にさまざまな角度で押されたり引かれたりすることを想像し、意識と内勁を練る)。
自己の思惟を運用し、全身の気血、技巧を運用してこのように鍛練し、何年も深く研究をおこなえば、内は動くが外は動かず、自然に内には一種の防衛力、反撃力が備わるのだ。我々はこのように訓練し、この方面を追求しなくてはならない。これは追求しても尽きることがない。追求に終わりはないのだ。
武術が高度な段階にあることを「意到気到力到」というが、この言葉の意味はわかるだろう。「意到気到力到」、王向斎はこれを神経の訓練と呼んだ。つまりこれは「意」を訓練することだ。意をどこへでも、自分の思うところへ思う通りに向かわせる。意がこうやって進むと、勁もこちらへ向かう。気も力もともにこちらへ来る。これは君の全身を支配し、君の技法を支配している。
形意における「意」は、外側からは見えないが、心は飛ぶ矢のように動いている。相手が私を打ってきたら、私は相手に勝とうと思う。私の心がひとたび動くとそれは飛ぶ矢のようになり、相手を征服できるのだ。これには気と胆を壮健にする効用がある。肝が動けば火炎のようだというのは、人は怒ると大胆になり、気勢は凶暴になり、また力も大きくなる。この壁は、普段は登れないが、焦り、怒ると登ることができる。まるで犬と同じだ。