意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

常志朗先生真伝大成拳樁功練法

現在広く知られている訓練方法は、基本的に西洋式のもので、彼らが鍛えているのは筋肉の横断面である。しかし真に人の力の大小を決定するのは、実は肌肉の拉伸度なのである。中国式の訓練方法は、肌肉の拉伸度を訓練するものなのだ。いわゆる筋とは、筋肉束が骨格に連結する部位であり、非常に強靭で弾力がある。中国式の訓練は筋腱を牽引し、肌肉と筋腱を充分に鍛錬するのである。さらに、西洋拳法で人を打つのは、はっきり言えば筋肉で人を打つのであり、一方中国武術は骨で人を打つのであり、いわゆる脱骨力、骨力、破甲力というのは、すべて骨で人を打つ要訣を言っているのである。人の運動は筋肉が力を発揮するものだが、しかし真に人体を支え、運動を生み出すのは骨格を離れてはならない! 骨格は力を相手の身体に伝える通路であり、武術の発力で研究しなければならないのは、力の発生、伝達、作用効果の三つの面である。我々の究極の目的である作用効果を最高のものにするためには、伝達の骨格要素を研究しないわけにはいかない。これは構造の問題に関わってくる。ここではあまり多くは述べない。以下、私は大成拳入門の必修功法と理論について述べ、皆さんがここから入門できるようにする。

大成拳渾円樁

この樁法は大成拳の数多くの功夫鍛錬の中の重要な環節である。それは養生樁であるだけでなく、その拳の技撃樁法でもあり、これを用いて養生放松を求めるのは比較的簡単で容易だが、しかし技撃に必要なものを求めようとするならば、他の技撃樁法の功夫が深くならなければ練習できない。大成拳の功夫が深い者は、どの樁架でもその樁架が得るべき力を求めることができるのであり、いわゆる大成拳はただ一樁一勁だというのは、樁の奥妙を理解していないのである。

まず、両脚を平行に立ち、二足は肩幅よりやや広く、足の指は海綿を掴むようにし、身体はわずかに後ろにもたれかかり、周身は含蓄し、頭部は細い糸で上に引っ張られるような意を持ち、両腕はゆっくりと眉より高くならず、口より低くならない所まで上げ、両腕は胸の前で抱え込み、指先は向かい合わせ、手首の関節は外挺上提の意を持ち、手首の二本の大きな腱は挑起しなければならない(十指を開いてわずかに内側に曲げ、手の甲を膨らませ、手心は吸い、人差し指を挑起して前に伸ばす—楊鴻晨『武学指要』)。十指の指先はわずかに力を加えてもよいが、肩の部分はできるだけ放松するようにし、それを考えないようにすれば、時間が経つと自然と松になってくる。脚部は曲げ、臀部は下座し、二つの膝は上に提縦し、二つの脚は下に踏みつける(しかし力を用いてはならない)。これもまた樁功の中の提頓と言える。

身体は骨格に支撑され、しゃがんで身体を抱え込んで重いものを持ち上げようとしたが持ち上げなかったときの勁を体験することができ、その感覚を保ち続ける。この時、身体の各骨格は全て挺上の勁があり、柔らかくなっている所は一つもない。頭は正でなければならず、首の上の大きな腱は挺往でなければならない。重いものを抱えるときは首を縮めることはない。意念で両腕の間に二つの風船を抱えているようにし、腕が風船を押し付けるときの一松一緊の感覚を体験する(本当に力を用いてはならない)。意念はいつも有と無の間で保ち続けなければならず、細心に手のひらの各指の関節や手首の関節の開合の感覚を体験し、肩の部分は力を放松しなければならず、身体の肌肉には少しの力も使ってはいけない。完全に松となり、ただ骨格だけで支えるようにし、腱は徐々に挑起し、肩は松となり、両手は糸で吊るされているかのようである。両脚は各々一艘の船を踏んでいるか、あるいは一本の長い木の上に跨っているようにすれば、このようにすれば素早く挟勁を体得することができ、今後二本の脚を軽く挟むだけで挟勁があり、さらに力を加えればまだ挟み、松となることもできる。初心者はこの樁に一定の体得があれば、すぐに大成拳の技撃樁の練習に移ることができる。

大成拳抱球樁

抱球樁を通して豊富な拳勁を獲得することができる。例えば、上肢の抱勁、両腿間の合勁と整体の弾力、及び自身の均整、松緊、虚実、含蓄などは、極めて効果的な鍛錬を得ることができる。この樁の左式を例にとると、まず脚は丁八歩で立つことが要求され、両足の重量は初歩では前三後七に配分され、さらに前二後八、前一後九にすることもできる。両腕は環抱し、眼光は手首の関節から含蓄しながら望む必要があり、腕と頭部との間隔は大体均等にすることができる。身体はわずかに後ろにもたれ(=靠)、頭部の毛髪は細い糸で上に引っ張られる意があり、これは頭頂に物が下に押し付けられ、私には上頂の意があると想像することができる。このようにすれば頭と頸部は自然と竪起し、臀部には下座の意があり、前腿の膝関節は前を指し、足の指には掴む意がある。かかとはわずかに持ち上げ、後胯は内側に合わせ後と争って左膝と前後の争力を形成し、後膝は内側にわずかに裹の意がある。注意しなければならないのは、身体の肌肉には少しの力も使わないようにして、完全に松になり、骨格だけで支撑し、肩は放松し、両手の腕の前端は糸で吊るされているかのようで、腕の後端は肩にかかっている(=挂)ようにすることだ。両脚が各々一本のやや太い大きなばねを踏んでいるように感じることができ、しゃがんで身体を抱え込んで重いものを持ち上げようとしたが持ち上げなかったときの勁を体会することができる。重点は「体会」という二文字にあり、がむしゃらに支えるのではない。 

站樁の姿勢は大体このようなものだが、多くの人はこの站樁に少なからぬ功夫をし、多年立ったにもかかわらず、依然として功夫を得ていない。充分量でも死勁が身に付いただけで、弾力は全く言うまでもなく、搭手しても勁を出せず、全て身体に閉じ込められている。根本的に練功方法が間違っており、倍の事をしても功は半分である。この樁の肝要な所は三点ある。

一、両足がそれぞれ太いばねを踏んでいると体験し、弾力を養うこと

王老の『意拳正軌』に「筋腕頸(手足の四腕と首)を伸ばせば、体中の筋絡が全て開展する」とある。多年の站樁に進展がない原因の大半はここにある。站樁を始める時から、体全体を放松させ、球を抱き、樹を抱いて立つことを要求し、全体的に松と整を求め、根節は松で、中節も松であれば、梢節も自然に松となるので、永遠に站樁の正果は得られない。故に「真伝は一言、偽伝は万巻の書」という。

站樁時、体全体を放松させ、考えなくても自然に次第に松となる。四肢の梢節だけは少し力を加えるべきで、「重感」の意想を持つことができる。下肢は腓腹から足指に至るまで、沈重の意想を持つことができる。このように站樁を練習すれば、梢節が緊となり(永年先生の『大成拳站樁与求物』126頁にある根松梢緊の緊松活動を参照)、手の筋絡と身体の各筋絡が連絡し、体中の筋絡がごむのように拉開され、撑起する。

站樁を始めた時は密集した肉が作用し、酸痛に耐え難いが、最後には筋が支撑作用を開始し、有効な鍛錬を得ることができ、身体の大筋が次第に抜起する。平時は変わりないが、人と搭手して力を受けると、大筋がすぐに吹き上がり、形に現れる。この功夫がなければ、搭手しても肌肉の勁力で抵抗するだけで、発するのも肌肉の拙力だけで、弾性のある筋骨の力は全く言うまでもない。大筋が撑起してこそ、站樁の中で真に虚霊挺抜を体得でき、初めて真の意味での均整を語ることができる。故に王老の拳論の以下の内容を記憶されたい。「力は骨より生じ、筋に連なり、筋が長ければ力は大きく、骨が重ければ筋は霊活で、筋が伸びれば骨は縮み、骨が霊活であれば勁は実である」。また、「骨の重きは弓背のようで、筋伸は弓弦のようで、雲勁は弦が満ちるようで、大手は箭を放つに似る」、「四腕が挺勁すれば力は自ずと実になり、気を沈め歯を合わせれば骨は自ずと堅くなる」。(十指を張開して僅かに内に曲げ、手背は膨らませ、手心は吸い、人差し指を挑起して前に伸ばす——楊鴻晨『武学指要』)

二、精神を含蓄させること

獅子が獲物に飛びかかる瞬間、うずくまって前進し、時機を司り、適切な機を待って突然発動する。この過程で、獅子の肢体、肌肉、精神は非常に含蓄している。站樁時はなおさらそうあるべきである。注意すべきは、立った時、身体の肌肉に少しの力も用いず、完全に放松させ、骨格だけで支撑すること。肩は放松し、両腕の前端は糸で吊るされているかのようで、腕の後端は肩に掛かっている。

大成拳の練習では、いかなる動作をする時も含蓄の状態を保たなければならない。站樁時はなおさらそうあるべきだ。身体は僅かに後ろに傾き(=靠)、体中の各骨節は微かに開合する意があるかのようで、発力する時は猛然と一争し、まるで全身がばねの紐に繋がっているようである。常に発しようとして未だ発してないの感覚を保ち、発力する時はいつでも発出でき、常に得勁の状態を保つ。今後、更に摸勁などの過程を通じて含蓄の訓練を行えば、相手と手が離れた時、相手に心理的に大きな圧力を与えることができる。敵と接する前から目を怒らせ、筋肉を強張らせるようでは、相手に脅威を与えることはできない。なぜなら、勁は既に外に発せられ、行き着くところまで行ってしまい、恐れるに足りないからだ。眼光は含蓄でなければならず、眼光は外に溢れてはいけない。実際、站樁後、意感が充足したと感じた時、外から見た眼神は非常に含蓄している。しかしこれは決して目で人を傷つけるような、王老でさえできない功夫を練成するのではなく、相手と手が離れた時、敵と接するが未だ触れない刹那、神光が突然輝き、敵に同様を与えることができる。

三、間架の形成と発力

抱球樁では強大な抱勁と貫通力を求めることができる。随時随所で身体を一振りすれば、すぐに非常に強い抱勁が形成され、功夫の進展に伴って次第に増大することを練成しなければならない。肩甲骨が実になり、抱勁に強烈な体感が生じて初めて、摸勁を語ることができる。更に進んで、相手が私を押さえつけた(私の腕を押さえつけたり、身体を押しつけたりする力で私の身体を押さえつける)状態を体験し、動けるなら少し動いて再調整する。意感は真でなければならないが、本当に動いてはいけない。まず両腕の発力で相手の全体を投げ飛ばすことを体験し、次いで腰の力を体会する。真の発力は骨格が互いに争うことで発せられる力で、外形はほとんど見えない。始めのかなり長い間は一つの発力しかできないが、工夫が深まれば短時間で何回もの発力ができるようになる。これは関門を通過した者だけが知っていることである。最後に後腿の運用を体会する。いわゆる「消息は全て後腿の蹴りに頼る」である。相手が密着した後、私の後腿の内側の骨格が猛然と地を蹴って発力し、相手を投げ飛ばす。この過程で、身体の関節は軟であってはならない。練習の方法はこれに尽きるが、後腿の蹴りを実戦で本当に発することができるのは、私が見たところ実に稀で、ただ拳を理解する者だけが一笑するだけだ。

さて、站樁の松緊の問題について述べる。現在、ある人は站樁の練習では放松してはいけないと強調し、さらに卢氏結構を引き合いに出して例としているが、実際にはこれは無知な見解だ。真の站樁の要領は、一身に陰陽を備えることだ。一身に陰陽を備えてこそ、極めて良い勁力の転換ができ、より大きな勁を発することができる。卢氏結構もまた一身に陰陽を備えることを重視している。故に、収緊した站樁がいかに良いかなどという戯言を信じてはいけない。絶対的な松を練習すれば、養生にはなるだけだろう。絶対的な緊を練習すれば、自らを強ばらせ、外の勇を練成するだけで、真の高手に出会えば全く歯が立たない! その上、永遠に上乗の境地に達することはできない。松緊を同時に具備し、正しく松緊の転換の要領を掌握してこそ、真の上乗の武術なのである。

論点重身松

点重身松を熟練して運用することは、大成拳法の肝要な所在であり、推手でも散手でも巨大な威力を発揮することができる。推手で頂牛し、腕で人に勝つことは、筋肉の拙力で互いに争うような運動であり、中国武術ではなく、ましてや大成拳ではない。推手は整体功夫の全面的な体現である。双方が推手をする過程で、前腕を搭し、相手の力の点上の変化を感じ取る。もし点重身松を掌握していれば、推手でも散手でも巨大な威力を発揮することができる。点重身松の訓練を経れば、あなたの前腕は極めて重く、搭手した時に相手の肢体を強張らせるが、自身の肢体は放松した状態を保ち、あなたの全ての力量は相手の身体に乗る(身体を寄りかからせる力ではない)。この種の力量は腕の左右への傾きでは解消できず、相手はまるで松葉杖のようにあなたを支えており、必ず放松することができず、ましてや身体の変化や発力をすることはできない。一方、あなたは抖、放、拍、挂など、思うがままに発放することができる。

拳を練習して長年月経った人はしばしばこのような体験をしている。一人で練習する時は非常に自然で、発力は協調、均整を感じ、外から見ると本当に勢を止められないように感じられるが、一旦相手からの勁を受けると、自分で練習した時の得勁はもはやなくなり、体中や足の裏まで非常に強張り(これは站樁で松と調和を求めていないからではない)、力量が一気に全身を圧迫し、自身の拙力で相手を撑頂するしかない。これは点上で勁を受けた時、身体が放松できないためで、自然に点も身上も重くなる。

点重身松の鍛錬は、同様に大成拳の練習の重点の全ての局面に貫かれている。その中で扶按試力は、点重身松を有効に求めることができる。この試力をわかりやすく言えば、手で身体を起こすことだ(ある方法では身体で手を導くが、別の話だ)。下肢は技撃樁の丁八歩で立ち、身体は含蓄し、両腕を前に伸ばし、掌を下に押し(=按)、肘は僅かに曲げることができるが、五指と手首の梢節は勁を挺上しなければならず、身体は放松しなければならない。意念では、強壮な相手と両腕を相搭し、私の両腕で相手を制御し、下按する時は、相手が全力で両腕を上に持ち上げて抵抗するように想像し、私の前腕の力量は沈実する。その力量は相手の数倍も大きいので、相手の抵抗を全く気にせずに下按し、身体は必ず放松し、肘より下の変化だけを体験し、一寸ごとに前腕上で拧裹螺旋を作り出さなければならない。身体は前腕の下按に随って徐々に上に起こされ、両腕が上に挙げられる時は、相手の身体が私の両腕に寄りかかる力で私を按し、私の身体はそれに随って極めてゆっくりと下座するように、同時に相手は私の上に挙げる両腕に引っ張られて重心を失う。このように繰り返して体験し、「緩慢」に功夫を入れる必要がある。

肝心なのは、試力の過程で腕の上下の振れ幅は大きくなく、身体が手に従って起きることである。また、試力は動作が順になってから適時に意念の仮借を加える必要がある。動作をする時は、微動ごとに全神を貫注させなければならない。この他、平時も摸勁を練習でき、両手が一搭すると、下に物を押さえつけているかのように、身体を悠起するようにする。あるいは前腕の扶按だけで全身を導いていく。要するに、手上の撕扯挣裹、刀挫勾叉勁の勁は大きければ大きいほど良く、身体は松であればあるほど良い。ある人はこれを「倒重」と呼び、以前は身体で発せられなかった拙力を何とか四肢の梢節に持っていく方法で、これはかなり長い過程だ。