間架は養生の抱樁式から、両足の踵を軸として側面に45度旋転し、左転は左式、右転は右式とする。転体後の両脚の位置形状は、前脚の踵が後足の掌の踵部に斜めに対し、丁字歩でも八字歩でもなく、丁八歩と称する。身体の重心は両脚の間にはなく、後脚の臀部が後座し、いわゆる掖胯であり、後腿が支撑腿となり、両足の力量配分は前三後七となる。このような歩位を採るのは散手時の歩法と結合し、前進後退に便利で、随時技撃の需要に適応するためである。歩を定めた後、全身を逐次調整し外形及び内在要求を行う。
内在要求:
頭:養生樁の要求通り、下顎は収めて小球を挟んでいるようである。頸は上頂し、力は軽松自如で、有るようであり無いようであり、緊張は許されず、全身を統領し上提する意があるべきである。目光は平視して内斂して、散じてはならない。凝神し、両耳は微雨を聴くようである。
肩:外撑、前裹して、肘は撑として、背闊筋の舒展を感じ、力は腕に通じる。
手:前腕は上揚し、掌を翻して掌心は外に僅かに仰ぎ、十指は相対し、掌心は凹んで内吸の力がある。腱の張反射により、自然に挺腕し、十指を張開し、力は指の間に貫く。手の高さは眉より僅かに低く、両手の距離は肩幅とほぼ同じである。
腰:養生樁で述べた要求のように、小腹を下に放松し、尿に似て尿に非ず、腰部の腱張反射を引き起こし、股関節四周の筋腱を僅かに伸ばし、上身と下肢を通連させる。躯幹は正直で、僅かに後ろにもたれかかり、前に俯してはならない。
腿:両大腿の肌肉は上縮、内裹で、股の内は大きな木の棒に跨るようである。
脚:膝部は微かに屈し、膝蓋骨は上提し腱張反射を生じさせ、前脚の指は自然に地を掻き、踵は虚に起こす。後脚は支撑腿となり、足掌は地を蹴り、踵は下に踏むが、踏んでも死なず、全脚を平板に着地させてはならない。
姿勢を完備した後、全身を放松し、舒展挺抜し、精神を放大し、全身関節が通連しているかを領悟し、上下が整体を形成する。形が備わった後、練功状態に入り、意念誘導を通じ、両手の間に掛かる絹綿(もしくは弾力線や弾簧)を仮想し、両手の外形は動かさずに、暗勁を用いてこれを裂く。この時両腕と掌に緊と力を感じ、指先は膨張するが、僅かに裂いて緊となるだけで不動である。このように数秒間裂いて緊となった後放松し、再び裂く。このように繰り返し緊緊、松松し、意念が一動すれば明らかな感覚が現れた後、逐次深入りする。
まず両手の人差し指と両眉の間にも無形の弾力線が連なると仮想し、両手で綿を裂く時、眉と手の間の弾力線も同時に抽緊する。抽緊が延続する時、細心に体会すれば、掌腕の力が実際には肩撑と肘横から来ることを感知できる。更に進めば、掌腕を裂いて緊として力を入れる時、前後の脚も自然に全身を支撑し、地を蹴って力があることを感知できる。この感応に熟練した後、頭と足の間の内在的呼応を増加させ、頭と脚の間にも無形の弾力線が抽緊しているかのようにし、頭が上領するほど、足下は踏みしめる。この抽緊の感覚が即ち争力である。この樁法では、一度緊張したら直ぐに緩めるのではなく、緊とした後全身がいかに力を続けるかを体会し、緊にして再び緊とするが、硬くなってはならず、硬直しそうになったら即座に放松するが、間架は変動させてはならない。放松した後に再び抻緊し、意を用いて力を用いず、意念が真実であれば神経が反射して肌肉を駆動して力を入れる。故に意は即ち力である。この樁式で争力を培う時、上下の争力、即ち頭と脚の争力に注意せねばならず、これが整体争力の枢紐であり、即ち渾元力の核心であり、永遠に失ってはならない。
以上述べたのは渾元力を求める初歩的入手であり、生理学的には全身関節の筋腱、即ち通俗に言う「筋」を強化することである。拳術には「筋長力大」という名句があるが、これは通常の腰を折り腿を伸ばす抻筋とは異なる。この種の争力は実質的に筋腱の収縮力を増強するものである。この対立する二組の筋腱が同時に力を入れねばならないため、「筋に力あれども骨に蔵す」と言われる。
争力があるのは全身骨格の支撑を増強し、整体力量を増強しただけであり、力の運用とは等しくない。力の生発運用を求めるには、抱樹樁を立たねばならず、姚宗勲先生の著書『意拳』では渾元樁と称す。私が易名したのは樁式の内在的精神假借から定めたものである。