意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

問答(『霍震寰先生求教于姚宗勲先生意拳方面的書信和問答』より)


(一)

問: 意拳の練習の順序は、先に站樁で動かずに整を求めた後、その後試力で少し動きながら整を求め、少し動く中で整ができたら、大きな動作でも整であることを求め、最終的には推手で相手の圧力の下で整を求めるのでしょうか?

答: 意拳の練習順序は、站樁、試力、歩行(摩擦歩、歩法の基本功)、推手、発力(固定の姿勢と歩行から)の練習から始まり、徐々に固定されていない姿勢や、位置が定まっていない随意発力へと進みます。

站樁は静止した状態で「勁」を体感し、更に意念で「勁」を探求することが重要です。「整」とは拳術の伝統用語で、全身の意力が調和した平衡状態を指します。站樁の練習では、最初は両手に沈重みや膨張、発熱を感じますが、次第に前に伸ばしたり後ろに引いたり、上に引き上げたり下に押し下げたり、外側に開いたり内側に閉じたりする際に、阻力の感覚(欲動するが動けない感覚ではなく)が生じます。最初は両手だけですが、徐々に全身にその感覚が広がっていきます(軽微な感覚から明確な感覚へ)。これが「整」と呼ばれるものです。站樁の初期練習では、「意を用いて力は用いず」、放松に注意しますが、「松であっても解けてはならず、緊であっても硬らない」ようにし、「松紧協調」の状態を心がける必要があります。

試力では、站樁で「勁」(身外阻力)を体感しましたが、少しでも動作すると阻力がなくなります。そこで試力の中で再び「それ」を探ります。動作の際は意念による誘導(歩は動かさない)が必要で、要点は精神の集中と切実な意念、小さくゆっくりとしながら不断であることです。阻力感が出てきたら、小動作から大動へ、慢から快へ、と進めていきます。原則は「意を用い、力は用いない」ことで、要は内在する「勁」、つまり阻力感を持つことです。

走步(摩擦歩)は、脚腿の試力です。阻力感が出てきたら、手の試力と合わせて練習します。規則的な前後左右の動きから、徐々に自由な身体と手足の変化へと進みます。全身の試力の段階に入ります。原則は「一度動けば動かないところがなく、一部が動けば全身が動く」ことで、常に「整と不整の間」に常にいることです。

推手とは、二人で試力を行うことです。相手の圧力を受けながら、自身の力量の平衡を保ちつつ、相手の平衡を破壊する必要があります。互いの力の変化の中で体勢や歩位が絶え間なく移動する状況で、相手の平衡を破壊したり牵制したりできた瞬間が、「発力の機」となります。

(二)

問: 爆発力とは?

答: 意拳で言う「発力」とは、爆発力の略称です。短時間のうちに、日頃の锻炼で培った整勁を猛烈に発することが求められます。原則は「一触即発、一発即止」です。

(三)

問: どのような練習が最も功力の向上に役立つでしょうか?

答: 站樁が根本中の根本です。站樁の練習において、姿勢と意念の要求を次第に高めていきます。試力、推手、発力の練習を通して、自身の力量の弱さ、反応の鈍さ、空白の部分に気づけば、再び站樁の中で意念による誘導を通じて、内力を探求、強化します。静から動へ、動から静へと絶え間なく行きつ戻りつしながら、相互に参照し合う練習を重ねていけば、境地は無限に広がっていきます。

(四)

問: 練習の順序を教えてください。

答: 站樁で阻力を体得したら、歩行と試力の練習を加えます。歩行と試力で阻力感が出てきたら、推手の練習ができます。試力の練習で明確な阻力感が出てきたら、発力の練習ができます。 固定された位置から固定されていない位置へ、更に自由な発力(想定と実践の両方)へと進みます。さらに実践練習を行い、攻撃と発力の両方を使用します。水準が低い場合は怪我を避けるため、攻撃の部位を制限したり、防具を使用したりできます。

(五)

問: サンドバッグを打つ練習はどうでしょうか?

答: サンドバッグを使った補助練習も必要です。ただし、サンドバッグは硬すぎてはいけません。手で硬いものを強く打つと痛みを感じ、無意識のうちに力を用いてしまいます。これは身体の放松を損ね、発力の速度と力量を損なう原因となります。サンドバッグには若干の弾力が必要で、打つ動作(発力)の際は、発力の要求と姿勢に注意しなければなりません。最も避けるべきは、サンドバッグを無機質なものと見なすことです。強く力強い相手と想定し、攻撃も退くのも攻撃であり、進退左右を実践するように心がける必要があります。

(六)

問: 二人で対練する際の基本的な簡単な方法を教えてください。

答: 甲は両手首を乙の手首に載せます。甲は比較的小さな力(しかし素早く)で乙の両手を突然下に押し込み、乙の胸より上の部分を指します(ただし相手の体に触れてはいけません)。乙は素早く反応し、甲の動作に追従します(両者の接触点に追従する)。慣れてきたら、相手の両腕を左右に僅かに開き、前方を指したり、片手は前方、もう片手は下方を指したりと、自由に変化を付けられます。両手を上下に交互に練習し、慣れてきたら発力の練習を取り入れます。片手でも上記の練習ができます。

(七)

問: 器械練習についてはどうでしょうか?

答: 杆子や剣の器械練習は、相当の拳術の水準に達した後に行います。意拳における器械練習も、拳の「勁」を器械の上に発揮することが求められ、「一触即発、一発即止」が要求されます。拳術の基礎がないと、器械を十分に学ぶことは難しいでしょう。両者は通じ合っているためです。

(八)

問: 阻力感とは何でしょうか?

答: 身体の周りに阻力感があると、争力を感じ始めたことを示します。

(九)

問: 実践での要点は何でしょうか?

答: 実践で最も重要なのは歩法です。接触する前は常に距離があり、その距離を詰めることができなければ、どれだけ力があっても発揮できません。双方の動作の中で、私たちは有利な位置を奪い、相手に受け身の状態を強いる必要があります。その機に一歩を踏み出し、相手の重心の真下の位置に進撃します。これにより相手に抵抗の余地を残しません。

進んで進むか、退いて進むかは関係なく(横方向からの攻撃でも、前に出て相手の一時的な平衡を崩すのも含まれます)、これこそ拳術家が言う「脚打七分、手打三分」の意味です。つまり、「位置を奪う(奪位)」ということです。「脚」とは蹴ることではなく、立つ位置や、手身脚の位置が全て到達していることを指します。即ち「どこかが到れば到らないところはない」という意味で、動作は協調されている必要があります。例えばサッカーにおいて、後方からのボールの位置があまり理想的でない場合、シュートを決める時に条件を作り出し、相手の空きスペースを利用して即座に判断する必要があります。これは実践経験と本人の技術次第です。要するに実践体験がないままで主観的な願望だけでは、王薌齋先生の言葉を借りれば、「病人が来るのを待っている医者と同じだ」という笑い話になってしまいます。

(十)

問: 時間が少ない場合はどのように練習すべきでしょうか?

答: 仕事が忙しく時間が少ない状況下では、站樁以外に試力や歩行などを「分割して」行う方法があります。短い数分間で練習するのですが、精神は集中しつつも緊張しすぎないようにします。 有意であれ無意であれ、身体と精神にとっては積極的な休憩となり、拳術の観点からは常に練習していることになります。長い年月を重ねれば、その効果は自然と現れます。少なくとも深い体験と霊敏な反応を得ることができるでしょう。これは過去の王薌齋先生が言っていた「練っている時はなく、練っていない時もない」「忘れず助伸せず」といった、細かい練習法につながります。

(十一)

問: 阻力感の要求は、最初は軽くても次第に重くなり、想定する対象も重くなっていくのでしょうか?  最初は両手で軽い球を押さえているように、後にはとても重い球を押して動かせない感じがするのでしょうか?

答: あなたの阻力感についての理解は正しいです。

(十二)

問: 站樁時に全身に小さな跳動きがあるのは、意識的なものでしょうか、それとも自然な反応でしょうか?

答: 站樁時に全身に小さな跳動(蠕動)があるのは、自然な現象から人為的なものへと移行します。站樁時(特に両足を開いて踵を一直線上に置く平歩樁の場合)、軽い震えが小腿に生じ、次第に太腿、腰、腹、胸などに広がっていきます。任せておくと、跳動が徐々に大きくなり、最終的に全身が大きく揺れ、踵が地面を打つほどになります。数十分揺れ続けても疲労は感じず、かえって軽くなります。この現象が10日ほど続いた後、健身樁の「扶按法」を用います。まっすぐ水中に立ち、両手で下方の板を押さえ(=扶)ているように想像し、身体が浮き上がろうとする意があれば押さえません(=按)。下に沈む感覚があれば再び押さえます(=按)。浮沈の感覚が意念で支配できるようになると、比較的大きな跳動を控制でき、外見上は静止しているように見えますが、内部の肌肉は連続して動いています。動きが小さく、周期が速いほど、これこそ先人の言う「大動は小動に及ばず、小動は不動に及ばず、不動の動こそが生き生きとして絶えることのない動」ということになります。練習時は、肌肉に動かない部位や動きが遅い部位がないかを観察し、あればそこに意念を誘導すれば、しばらくするとそこも動き出します。

(十三)

問: あなたが使用する身体の部位は、韓先生よりも多いように感じます。例えば後脚の蹴り出す力を多く使っていますし、韓先生はあまり後腿を曲げずに、足首の転力も使っていないようです。意拳の整劲は、個人によって使用する身体の部位が異なるのでしょうか?

答: 意拳の「整勁」では、身体から発揮できる力量を可能な限り発揮することが求められ、より全面的であればあるほどよいのです。個人によって錬成の仕方は異なり、発揮できる力の程度も変わってきます。発力時の足で地面を蹴る問題については、形意拳の古典にも「消息は全て後足の踏み切りに頼る」と述べられています。

(十四)

問: 発力の練習では、試力の動作を加速させるだけでしょうか? 動作は常に松のままで、最後に撃つ時に全身で争力(全身を一緊)するのでしょうか?

答: 発力の練習には固定の姿勢から発力する練習と、試力の練習と同様の動作の状態から、突然発力する練習があります。上記の二種類の発力では、発力する前は松に似て松ではない、つまり手に内在する阻力感覚と沈重感を、猛然と放出するようにします。ですので、発力する前は、手に多少の力量を持っている必要がありますが、3~4割の力で十分です。発力前は全身を可能な限り放松し、突然の攻撃があったと想像して、それに対して猛然と発出すると想像します。発力の共通の要点は、「一触即発、一発即止」です。

(十五)

問: 掛けられた綿花球を拳で打つ練習は、発力と打撃動作の練習対象になるのでしょうか? 打つ際は綿花球を動かすべきですか、それとも動かさずにおくべきでしょうか? 最後に両拳を強く握りしめるのは、十分な力を込めるべきでしょうか? このような練習は、目標までの距離感を養うのにも役立つでしょうか?

答: 綿球を打つ練習の目的は以下の通りです。

1) 出手を正確にする
2) 全身の動作を協調させる
3) 発力の火加減を把握する

機とは、拳または掌が的に触れる瞬間に、拳と全身を突然一緊する時の力を掌握し、一触即発力することです。要するに綿花球を打つ際は、前進後退し、身体を閃躲囲繞しながら打ち続けますが、綿花球を遠くに飛ばしてはいけません。できれば少し動くぐらいが最もよく、わざと遠くに飛ばすこともできます。そうすれば追打や退打の練習ができます。歩法は自然に多様でなければなりません。不霊であってもいけません。拳が到り、脚が到り、身体が到り、力が到るつまり先人の言う「一到無不到」が肝心です。

(十六)

問: 争力の練習では外形の不動が求められますが、初めは軽く松で、次第に争力の緊を強くしていくのでしょうか?

答: 争力の練習では、初めは意を用いて力は用いず、若干は外形に動きが出てもかまいません。内側に力の感覚があればよいのです。さらに、意から力へと至り、争力を徐々に強めていきます。最終的には、引っ張っても動かず、推しても出られない境地に達します。松緊の切り替えの過程は、ゆっくりでも速くてもかまいません。要するに、「松緊緊松は過ぎず、虚実が互根となるように」ということです。

(十七)

問: 争力で最も重要なのは上下の争いですが、意念はどのように配分すべきでしょうか?

答: 王薌齋先生は「松緊の枢紐は上下にある」と述べています。具体的な練習法は、站樁の際、後頸部(耳下あたり)に一本のばねが前脚先の下に斜めに続いていると想像し、頂心が上を指すように意識します。同時に、頸部をわずかに後ろに引きます。この勁を感じ取った後、さらに頂心から後足の裏までばねが続いていると想像し、頂心が上を指し、後足が下へ蹴り出すようにします。これらはすべて意の中で求めるものです。

動作中の練習法としては、摩擦歩の練習時に、前足の先が地面につく際、頭が上後方に引っ張られ、足先と一争を生じさせるようにします。前進と後退の両方でこれを行います。力を掌握したら、さらに足先が地面につく際に、心頂と後足の間に争力を生じさせ、一争したら止めるようにします。その後は、任意の歩行の中で、これを探求できます。これが意拳発力の最も基本的な練習法であり、「消息は全て後足の踏み切りに頼る」が表すところです。

(十八)

問: 気功の素養がある友人が、最近しばらく健身樁の練習を行った後、内気の流れを感じたそうです。このような現象は、拳術と関係があるのでしょうか? 修練が深まれば当然このような体験をするものなのでしょうか? 王師は『意拳正軌』の「練気」の中で、「周天秘訣」についても述べていますので、ご教示ください。

答: 友人の修行の状況は、明らかに気功の影響を受けているようです。站樁の際は熱い感覚があり、多くの人は脚元から熱くなり、徐々に全身に広がっていきます。これは経絡を通るのではなく、精気が全身に満ちているためです(少林術の秘訣から引用した言葉です)。そして、呼吸(自然呼吸)の際、吸う度と吐く度に、全身が空の皮袋のようになり、呼吸に合わせて膨れたり縮んだりする感覚があります。王老師は若い頃は気功に精通しており、中年を過ぎた頃から、気功は養生に役立つが、弊害の方が多いと考えるようになりました。『意拳正軌』は若い頃の著作なので、後年の見解とは異なる点もあります。

(十九)

問: 全身が空の皮袋のように、呼吸に合わせて膨れたり縮んだりするという感覚は、吸う時に膨らみ、吐く時に縮むということでしょうか? この感覚が得られない場合は、意識的にこの感覚を想像する必要があるのでしょうか?

答: 站樁の際は、吸う時に体が膨らみ、吐く時に縮むという感覚が得られやすいです。この感覚を掴むには、ベッドで仰向けに横になり、四肢を自然に伸ばして、できるだけ放松した状態で、呼吸に意識を集中し、ゆっくりと自然な呼吸をします。そして、微風が体を撫でるような意念を持つと、全身の毛が立ち揚がる感覚が得られるでしょう。数回練習すればこの感覚が分かるはずです。

(二十)

問: 「小腹応常円」とはどういう意味でしょうか? 呼吸時に小腹を膨らませる必要があるのでしょうか?

答: 「小腹応常円」とは、動作中も心窩部をわずかに収め、小腹は松円を保つべきだということです。息を上げ過ぎても、下げ過ぎても良くありません。自然呼吸を維持します。外形から見ると、動作中は小腹の位置、つまり重心の位置が中正を保つ必要があります。発力する瞬間は、以前に説明した「試声」の方法を用いるよう、小腹に気が貫くべきです。

(二十一)

問: 私の争力に対する理解を述べさせていただきますので、修正をお願いします。

初めは身体の各部位間で争力を確立する必要があります。例えば、後頸部と前脚、後臀部と前膝、前手と後頸部、前手と後手、そして自身と身体外との間に争力を設けます。前手及び前膝と、身体の前方数尺から十数尺の一点との間にも争力を設けます。練習時は後頸部を後方上方へ引き上げ、上身の重心を後腿の上に少し乗せるようにします。

その結果、後胯部と固定された前膝の間に争力が生じ、後頸部を上方に引き上げることで、後頸部と前脚先の間にも争力が発生します。後胯部が後方に動くことで、後手と前手の間にも争力が生まれます。争力の動作全体はゆっくりとする必要があります(初心者はゆっくりだが、上達するにつれ速くなり、最終的には松が緊となり、緊が松となるのでしょうか?)。両手の肌肉は松でなくてはならず、体の重心が後方に移動するにつれ、少しずつ力が緊になります。しかし、それは松から少し緊になったという程度で、極端な緊ではありません。体の重心が最も後方に移動した後は、徐々に前方に移動し、肌肉も自然と緩んでいきます。前方に移動する際は、頭部と後脚の間に上下の争力が生じるのでしょうか? 重心の前後移動距離は、できるだけ小さい方が良く、理想を言えば外形上は動きが分からない程度が良いでしょう。そうすると、意拳における発力前の力の蓄勢は緊の状態で、発力時は松の状態となるのでしょうか?

答: あなたの争力に関する理解について、私の当時の探求過程を紹介し、参考にしてください。

前手と前方(数尺から数十尺)、前手と頸部後方、この三点が一直線上にあり、まず領を主導にして、一争したらすぐに止めます(ゆっくりとし、力を入れすぎてはいけませんが、精神は集中する必要があります)。

次に前手と後手の間が相争します。

さらに頸部後方と前脚先の間が相争します。

後胯と前膝関節(前方でやや下の位置)の間が相争します。両膝関節の間が相争します。

さらに、両足首の上部、肩と胯、手と脚の間など、直線と斜を交錯させながら相争します。薌齋老師の言う「争わないところはない」状態を作り出します。

「共争一中」で、その「中」とは上下を指します。争とは、意念を用いて探求するものです。初めはゆっくりと争力を感じ取り、次第に意念が到れば争となるようになります(いわゆる快です)。ゆっくりでも速くでも、松でも緊でも、松中に緊があり、緊中に松があり、「松緊緊松は過ぎたるなかれ」です。「正」とは適度なことを指します。あなたが「発力前の力の蓄勢は緊の状態で、発力時は松の状態となる」と感じ取ったのは正しい理解だと思います。ただし、蓄勢時の緊には程度があり、想定する状況によって使い分ける必要があります。原則は「松であっても解けず、緊であっても硬直しない」ことです。大胆に探求し、拘泥しすぎないようにしてください。前の手紙で書いた内容は正しいですが、もちろん上達するにつれ変化していくでしょう。しかし原則は変わりません。

(二十二)

問: 「撑三抱七」とはどういう意味でしょうか?

答: 私の理解では、站樁の練習時に、内側へ收抱の力は外側へ撑の力の約7割となるべきだということです。つまり、撑と抱は互用で、蓄力待発で、発しようとして発していない状態ということです。

(二十三)

問: 意拳で最も難しいと思われるのが、松緊の問題だと感じています。初心者は松でなくてはなりません。しかし、ある程度の阻力的が出てくると、つい過剰な力を用いて緊になってしまい、松緊や力量の変化が遅くなってしまいます。私の見解に同意できますでしょうか? また、この問題をどう克服すべきだとお考えですか?

答: 松緊の問題について書かれた内容は、学術的な理解が進んだことを示しており、よくできています。ある程度の実力がないと、こうした核心的な問題を提起できません。松緊は、あらゆる体育運動の中核問題であり、社会の事象にも通じます。いつ松で、いつ緊であるべきか、どの程度松であるべきか、どの程度緊であるべきか、状況によって変わってきます。

清の赵潘が諸葛亮の詞に「勢を審らずに寛厳を用いれば誤りで、後に蜀を治めるには深く思惟すべである」と題しました。現代の中国の指導者も「文武の道は一張一弛である」と言っています。これが松緊なのです。学問は深いものです。意拳では「松であっても解けず、緊であっても硬直しない」と明確に述べられています。「緊」とは力が入った状態のことですが、過剰であってはなりません。「僵」は過剰に力が入り、動きが硬くなった状態です。阻力感の強弱は、意念によります。松の状況で、松中にも緊を、緊中にも松があると想定して、反復練習することで探求します。最終的には、松に似て松に非ず、緊に似て緊に非ず、つまり松中に緊があり、緊中にも松がある、全て意念で支配できる境地に達するのです。

(二十四)

問: 友人と推手をしていますが、発力しづらいことに気付きました。おそらく平常から発力練習が不足しているためだと思われます。互いの手の方向、力量、位置が絶え間なく変化する中で、発力の時機を掴みづらく、争力をうまく掌握できていないため、発力の準備に時間がかかりすぎてしまいます。どのように対処すべきでしょうか?

答: 推手においては、どこも平衡(力が一方に偏ってはいけません)が求められます。相手から圧力をかけられた際、接触点で相手に対して半斜面を作ってはいけません。そうすると相手の力の一部が落空し、力の向きが斜に偏ります。意と力の向きの変化、歩行、身体の移動、前後左右への動き、重心の上下の動きで、相手の攻撃を破壊し、同時にその変化で相手を押し込んでいきます。そして(接触点での感覚と相手の位置から)相手が受け身の硬直した状況になった機に発力します。練習の中では誤った判断も免れませんが、過度に慎重になる必要はありません。間違いや失敗から、力の瞬時の変化を徐々に深く理解できるのです。

(二十五)

問: 普段は平均的な速度で歩法の練習をしていますが、実戦時には相手の射程距離内に素早く入り込む必要があります。こういった特別な練習方法はあるのでしょうか?

答:基本的な歩法の訓練は緩慢、匀速である必要があります。目的は阻力を模索することです。阻力感が出てきたら(前進と後退の両方で)、意念で重みを加え、その感覚を強めていきます。そして阻力感をいろいろと変化させ、軽重をいつでも変えられるようにすることが目的です。つまり、模索した力は強くなり、しかも動きが自在になるようにするのです。指摘の通り、相手の射程距離内に入る際はできるだけ速いに越したことはありません。しかし、決定的な距離は1歩半離れた距離です。私たちは絶え間なく動き、相手も絶え間なく動きます。相手の歩法の動きの合間や、位置の悪い部分を見つけ、そこに突然侵入します。

基本訓練は摩擦歩を基本として:(1)まず摩擦歩を練習する (2)支撑脚は不動で前足を少し前に出す (3)前に約30センチ出し、滑るように足を運び、着地時は踵から着く。後腿も前に進める。

(二十六)

問: 阻力感を探求する際、健身樁や渾円樁のどちらがよいでしょうか?

答: 阻力感を感じ取るには技撃樁の方が明確で簡単で、効果も早く出ます。しかし健身樁でも同様に阻力感を探求することができます。例えば健身樁で言う「揺法」や「旋法」は、阻力感を求めるものです。ただし、より微細で軽松で、より高度で深遠な練習法と言えます。

(二十七)

問: 上下の争力の主は、後頸部と前脚先、頭頂部と後脚との争力ですが、体の中心も含める必要があるのでしょうか? 健身樁の姿勢(五)において、あなたが提起した、体を後方下方に傾ける(=靠)ことで前方との間に争力を生じさせるという点について、「挺抜」とは背骨の上下争力のことを指すのでしょうか?

答: 上下の争力において重点は前脚先と頸部、後脚と頭頂部ですが、体の各部位が関与する必要があります。特に重点となるのは「肩は担ぐかのように、手は篭を持つかのように」という意念です。健身桁の(五)で述べられたのは、10本の指先にそれぞれ小さなばねがついていると想像し、意念でそのばねを引っ張るように体を後方下方に傾けることで平衡を保ち、その中から争力を生み出すということです。挺抜は上下の争力ですが、とても繊細なものです。

(二十八)

問: 発力する際に、まず力量を後ろに行かせる、というのは、体を一本の弓のようにみなし、上下の争力がその強力な弦となり、体の力を後方に振り子のように一撞することで、自然と前方に向かって反弹するという意味でしょうか? 上下の争力のばねが強ければ強いほど、発揮される力量も大きくなるということですか?

答: 仰る通りです。まず上下の争力を主要なばねとし、そこから意念で上下、前後、左右などのばねを想像し、内と外、内と内の間で争力を生み出し、「争力がないところはない」状態を作り出すのです。