金啓栄先生は1965年に王斌魁先生に入門して意拳を学んで以来すでに40余年、理論上は王薌齋の拳理より得るところ多く、実践において無数の経験を積み、多くの独到な見解と認識を総括した。今回の対談で、主編の華安先生は金啓栄先生と武術文化の角度から学術的な交流を行った。短い対談録で語られたものは、国術の精髓のほんの一端に過ぎないが、意拳の博大精深を窺い知ることができる。
華安(以下、華と略す):あなたから見て意拳と太極拳、八卦等の内家拳にはどのような違いがありますか?
金啓栄(以下、金と略す):最も古い太極拳は老三刀と呼ばれていたが、この老三刀について説明する者は極めて少ない。なぜ老三刀と呼ばれたのか? 実はこれは三種の勁、三種の力量のことである。つまり、静力、動力、定力である。八卦掌は始め単環掌、双環掌だけであったが、後に八八六十四掌へと演変した。
武術の最も古い源流はそれらの幾つかの勁であり、後に各拳種へと演変し、武術という二文字さえも1921年以後に生まれたもので、1921年以前は武術とは呼ばれていなかった。拳種間にどのような違いがあるか? これは人を束縛する概念である。この拳、あの拳と、往々にして一つの枠組みに囚われ、拳に制限されているのか? それとも拳を掌握しているのか? 故に何かに制限されてはならない。人は拳を掌握すべきである。実は拳には内外の区別はなく、長短の区別もない。なぜ内家拳と外家拳の区別があるのか、実は区別すべきではない、最終的に追求するものは同一である。それは自然から来たり、大自然に回帰すべきであり、この力を求めるべきである。力は自然にあり、一種の本能的なものである。
華:太極拳は常に推手により発力を研究しますが、意拳も推手により発力を研究するのですか?
金:そうだ。意拳には推手、搭手、断手がある。また搶手もあるが、現在多くの意拳を練習する者は搶手を語らなくなった。意拳の発力の特徴は冷、快、脆である。力の接触点を講究する。実は形意拳も太極拳の推手も接触点にある。一つの起点と落点の問題にある。
意拳の推手と断手の間の違いは一つの「点」の問題である。練習の最後には「点」がなくなり、どこを触っても適切ではなくなる。
華:太極推手はより多く「粘黏連随」にあり、その後相手の重心を破壊し、大きな力を用いずに相手を発出します。
金:意拳の断手のようなものだ。その実は奪位であり、表面的な形式の変化ではない。ここには角度の問題がある。太極拳で説く「掤、捋、擠、按、採、捌、肘、靠」も発力角度の変化であり、ただ彼らは角度という言葉を使わないだけである。
華:武を練るには身体の自然本能を練り出さねばならず、この自然本能の訓練は、各拳種が皆求めているものです。
金:進む方式方法が異なり、即ち途が異なるが、実は目標は皆同じである。
華:太極拳を含め、皆一発即出のその勁を追求していますが、意拳ではこの勁をどのように理解していますか。
金:無定向中に生じる定向である。爆弾のようなもので、爆発する時に方向があるだろうか? それは四散し、多角度である。しかしどの方向でそれに触れても、その威力は同じく大きい。その発力範囲内に立っているからだ。故に王老(王薌齋)はこれを論じて、渾円爆炸力と呼んだ。彼は単純に争力の問題を論じたのではない。各門各派が論じる力は皆一つの争力である。争力は実は矛盾力である。王老は争力の基礎の上にさらに一層昇華させ、爆炸力を生み出した。
華:太極拳には「十年太極不出門」という言葉がありますが、比較すると練習には時間がかかるようですね!
金:意拳は、正直に言えば、より簡潔で、より速い。
華:では意拳の中で具体的にどのような方法で訓練を行うのですか。
金:王老はすでにこのものを簡潔にまとめている。站樁や試力や歩行などを含めて。
華:王選傑が提起した七大法門、站樁、試力、試声、発力、歩行、推手、断手は、意拳の系統的鍛錬方法ですか?
金:そうだ。また一つ「心法」がある。我々は王薌齋が創造した意拳は八つの法門であるべきだと総括している。「無法」では練習できない。しかしこれらの方法は相互補完的であり、一、二、三、四、五……という順序ではない。ある人が「私は先に站樁をしてよいか」と言う。よい! 「私は先に試力をしてよいか」、それもよい! これらの方法には先後の区別はなく、どれを先に学んでもよい。しかし王老は「法は有っても法ではない」と論じた。要は君がこの「法」を破れるかどうかである。君が一定程度掌握した後、最終的には随心所欲に達しなければならない。
華:先ず有為があり、後に無為がある。しかし始めの時にはどのような練習法が最も科学的で最も自然かを見なければなりません。
金:拳を練るのに規則に従うだけの機械的運動になってはならず、精神と意感がなければならない。一つは形似、一つは神似である。しかし現在形似を求める者が比較的多い。多くの人が拳を学ぶ際に模倣をする、動作を模倣する。この動作が必ず規範的だと言えるだろうか? 必ずしもそうではない! 散打の時や、拳台の上では、規範など語れない。故に「法は有っても法ではない」と言う。人の手足を束縛する方式方法を学ぶのではない。人は先ず大脳を束縛してはならず、開放しなければならない。頭脳が開放されてこそ四肢に影響を与えることができ、四肢も開放されうる。拳を学んで「枠組み」を作って自己を制限してはならず、自己の霊智を発揮してこそ、随心所欲を為すことができる。
拳に定式なく、好悪の分別もない。第一に、科学的であるか否か、第二に、哲理に適うか否か、第三に、実用的であるか否かを見なければならない。拳は法の外にあり、意は技に先んじる。「真趣」を追求せねばならない。拳は矛盾の対立統一である。
華:書法を学ぶ過程で、用筆が最も重要で、骨法用筆を講究し、筆使いが良くなれば、書法も入門できます。あなたは拳を学ぶ上で最も重要な点は何だとお考えですか?
金:書法、絵画と同じである。書法絵画は模写にある。反復して模写せねばならず、一日字を書くなら一日字を臨まねばならない。なぜ人は書法家となるのか、人の書く字に骨肉があり、活きており、死んでおらず、一種の霊気があるのか、これが即ち神である。この意拳も、神拳と呼ぶことができる。これは私の見方だが、神意を主とする。何を為すにも一種の精神を以て支配せねばならない。君の精神が倒れてはならない。精神が倒れなければ一切の事を為すことができ、精神が倒れれば何事も為すことができず、また君の求める目標に達することもできない。
華:站樁について言えば、意拳の站樁の時、意念五分、形五分を講究するのではないですか?
金:そうだ。
華:つまり、形を作り出す時、精神を全てその中に貫通させねばならない。では拳を練習する時に仮想または假借の方式を採用する必要がありますか?
金:假借を用いることができる。假借というものそれ自体が抽象的であり、即ち精神が物質を導き、物質が精神に変わる。これは相互補完的であり、仏教で論じる「色と空」のようなものだ。一切の物質を色とし、一切の精神を空とし、仏教はこのように解釈している。空即是色、色即是空とは、即ち精神と物質は実際に一体であるということだ。
華:意拳では松と緊をどのように理解しますか?
金:松にせよ緊にせよ、すべて君の精神と意感を用い、すべて抽象から具体へと変化する。松と緊の状況の下でこそ、動と静の間の配合を為すことができる。緊、どの程度まで緊であるか、松、どの程度まで松であるか? 緊は絶対的である。極限まで至れば、即ち緊となり、その身体は死に、硬直し、再生能力を失う。
松は相対的である。どの程度まで松であれば、どの程度の再生能力があるか。良い発力を得ようとすれば、必ず先決条件がある。実は站樁には特別なところは何もない。どのような樁を立つにせよ、一つの字、松の字である。松によって初めて通じ、通じて初めて協調に達し、協調の後に初めて具体的な動作に達することができる。
華:意拳で論じられる「点緊身松」は一種の運動中の協調ではないのですか?
金:そうだ! しかし私はこの言葉には不完全な部分があると考える。「点重身松」であるべきだ。君が私と接触した時、君は押し込むことができない、この接触点は重い。なぜ身体を松にせねばならないのか。身体が松であってこそ協調でき、良い発力を運用できる。
華:協調は極めて重要ですね。
金:そうだ。運動選手を含め、皆一つの協調の問題を論じている。協調がなければ成績を出すことはできない。
華:協調は言うは易く行うは難しですね。
金:ある人が拳を練習して、「私の腰は、腰を練らねばならない!」と言う。腰などあるか? これは全身運動であり、どうしてこの局部を取り出して練習できようか。ある教師は拳を講じて、君のこの動作が良くない、どう良くないのか、腰が適切でない、脚が適切でない、頭が適切でないと言う。実はこれは誤った論じ方である。それが合理的か否か君には全く見分けられない。彼が力を発揮できるか否か、彼がそこで比べ示しても、君には感じられず、どうして彼のこのものが良いか悪いか分かろうか? 教師は自分の経験に依って論じており、彼が問題を論じる角度は彼自身の位置から出ている。多方面の角度から見るべきである。
華:書法のように、ある一筆が良くないとだけ言うのではなく、整体の角度から見るべきですね。
金:そうだ! 実は拳を練るのは字を書くのと同じで、「横平竪直」は基礎であり、基本功を書き上げた後は、搭配の問題がある。時として草書の中で一筆が非常に長く引かれ、他の字の数倍、十倍の大きさになることがあるが、実はそれには章法があり、でたらめではない。拳の発力も同様で、発力は他人に見せるためではなく、自身が均衡を取れるか否か、協調しているか否かである。
華:書法には一成不変の書き方はなく、必ず一筆一筆が共に調和を構成せねばなりません。一筆や二筆が見栄えが良いだけでは無用です。
金:そうだ! 拳を練るのは書法と同じで、実は最後はその効果がどうかを見るのみである。君がどのように練習しようと、実は何を練習しても正しく、何を練習しても正しくない。表面的な形式に入り込んではならず、要は君の効果である。絶対的な正誤の区別はない。ただ当と不当があるのみで、当とは即ち適切である。
華:もし練習が不当であれば、健身どころか身体に害があります。
金:そうだ!人はなぜ病気になるのか? 老子は自然の規律に違背してはならないと考えた。ある人は大寒の日に上半身裸で河辺で練習し、汗を流すが、生理衛生に適っていない。正午の時、人々が皆休息している時に、彼は起きて練習に行き、まだ一時か二時の時に、功を用いに行くが、それは不合理である。拳を練る、站樁を含めて、方向があり、時節がある。これは『黄帝内経』に基づいて生まれたものである。地に応じて制宜し、人に応じて事を設け、心臓病ならばどのように立つべきか、血圧が高ければどのように立つべきか? 各人の条件環境に応じて制定する。もし人が横たわって起き上がれなくなったら、どうするか? 故に、行住坐臥すべてに樁がある。
異なる人が意拳を練習するには異なる練習法があり、例えばある人は身体の健康のみを求めるなら、養生樁を練習することができる。
華:意拳の養生原理は何ですか?
金:運動は何をしているのか? 身心を調整しているのだ。人の鍛錬には二種類ある。一つは生理上の鍛錬、一つは心理上の鍛錬である。鍛錬は機能の減退を遅らせることができる。減退しないのではなく、減退を遅らせるのだ。五臓六腑は鍛錬によって健全に達する。ある功法が病を治せるというのではない。運動の時は外に出て、毎日活動し、空気や陽光、水分に接触する、これこそが調整であり、さらに良い心態があれば、君の神経を温養し、肌肉の松緊を調節することができる。
華:意拳は「整」の問題をどのように見ますか。
金:例えを挙げれば、建築のようなものだ。この建物がなぜここに立っていられるのか。それは内応力があるからだ。内在の力と外在の力が平衡を生じ、この建物は初めて立っていられる。外在の力が内応力より大きいか、内応力が外在の力より大きければ、この建物は立っていられない。煙突が常に揺れているようなものだ。それが揺れなければ倒れてしまう! 要は内と外の平衡である。
華:つまり事物は運動の中にあり、決して一種の静止した方式で見てはならないということですね。
金:そうだ。世界のあらゆる事物は皆動揺している。動揺の中で足場を占められてこそ、成立し、壮大になることができる。一切の物質は皆動いており、静止不変はあり得ない。
華:私は気付いたのですが、あなたはよく他の事物を用いて拳を説明されますね。
金:大自然が最良の教師である。拳に対する認識は拳の中にはなく、拳の外にあり、君が外界と一種の協調状態を生じさせることができるか否かにある。即ち王老の言う体内矛盾、体外矛盾である。王薫斎は自ら矛盾老人と称したが、彼は矛盾を作り出していたのではなく、矛盾を解決していたのだ。しかしこれらの矛盾は永遠に解決できない。なぜなら一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生じ、決して三で終わるのではなく、新たな矛盾がまた生じるからである。
(この文章は大陸武術刊行物「武魂」2011年7月号に掲載)