意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

勁道的有関理論(『形意大成拳』より)

拳法の高低は、拳種の名称や動作の型にあるのではなく、運用する勁力の性質によって決まる。宋代から、特に明、清の両代において、内功を重視する武術流派が発展し、最初は主に武当で流行した。これにより、人体の内勁と外勁の区別が生まれた。

内家拳の勁を練る方法には二つある。一つは養気站樁で、筋骨の力、整体の勁を練る。二つ目は練気で丹田を鍛える。丹田の気を練り、渾円一気を得る。これが生み出す勁道は三つの異なる段階に分けられる。一つ目は功夫が肢体の段階にあり、脚にある。二つ目はある程度の功夫丹田にある。三つ目は高級な功夫が全身にある。そして、異なる功夫にはそれぞれ異なる修練方法がある。例えば、肢体の全体の勁から丹田の内里の勁へ、丹田の内里の勁から全身の渾円の勁へと進む。

勁の区分も三種類ある。肌肉が生み出す力は力であり、気が生み出す力は勁、意が生み出す力は功である。意は気を引き、気は力を生む。力は気に源があり、気は丹田に源がある。丹田の気が十分であれば、気は全身を貫き、力は四肢に達する。そのため、武功の奥妙は勁の奥妙であり、勁の奥妙は気の奥妙、気の奥妙は意の奥妙だと言われる。勁を練る方法は正しくなければならない。練れば練るほど力がなくなり、練れば練るほど精神がなくなるのは、間違いなく習練方式が正しくないからである。そのため、勁を練る際には泄してはならず、神を練る際には失ってはならないと言われる。

形意大成拳の習練過程において、力と勁には違いがある。力は人体の肌肉の松緊と収縮よって生み出されるもので、人体本来の能力である。生じる慣性力は、内気が生み出す力のように、一つの整体運動を形成し、一動すれば全てが動くという可能性には達しない。その特徴は、肌肉群が大きいほど速度が遅くなりやすいということであり、これが体の大きい人が不器用である理由である。内家拳の観点から言えば、このような人の力は拙力、あるいは笨力と呼ばれる。勁は武功の鍛錬を通じて力を勁に転化する過程である。勁は内気の運動や爆発によって生み出される。内気の運動が生み出す運動頻度は極めて速く、生み出される速度はさらに速いため、王薌齋先生はこれを超速運動と呼んだ。武術理論から言えば、力は方にして勁は円、力は滞にして勁は活、力は遅にして勁は速、力は散にして勁は聚、力は浮にして勁は沈、力は鈍にして勁は鋭である。これもまた内家拳理論で言う「重きを練るは軽きを練るに如かず、軽きを練るは空を練るに如かず」であり、技撃はすべて勁を尚び力を尚ばない。

形意大成拳の習練過程において、勁と化勁の違いもある。私は、気が生み出す力を勁と考えており、気は主に丹田を根本とし、全身に達することができる。化勁は気を基礎とし、発力と用力は用いず、用意不用力である。用意で内気を運行させ、気は意に随って動く。気の運動は内勁を生み出すことができ、この勁を化勁と呼ぶ。そのため、内気の運行は化勁に入ると言われる。化勁は意到気到、気到力生を説き、発力の過程はない。化勁の高級段階では、手を出す時の気の流れは水のようで、末端の掌や拳先に湧き出て、ますます大きく、想像を絶する超強内勁を生み出す。

化勁の運行気道は非常に特殊である。化勁丹田から全身に至り、節々が貫通すると、この時内功を運動させると、シュシュという音が聞こえ、歩いていようが座っていようが、一触すれば人を倒すことができるという技撃の境地に達する。暗勁や化勁で打撃すると、一見すると何の勁もないように見え、衝撃力もそれほど大きくないようで、サンドバッグを打つようなものである。しかし、人を打つと非常に重く、暗勁は鉄の棒のようで、一撃を受けると耐えられず、化勁で人を打つと感電したようになる。これは主にこの勁が外に発せられるのではなく、気が全身を貫き、力が末端に達するためである。これこそが内功の玄妙なところである。私の化勁で打撃を受けた人は、皆深い感触を覚えている。武功は全体的に言えば気功の一種でもある。内家拳はより内勁の応用を重視し、内功の優れた人は力が大きく、速度が速く、しかも敏捷である。これもまた内家拳の勁の高級なところである。

形意大成拳の拳法における勁道の速度は異なる。内里を走る勁の速度は、内円内里を走る勁であろうと、内整内里を走る勁であろうと、勁道が大きいだけでなく、速度も驚くほど速い。なぜなら、内里を少し動かせば、外周を一周するからである。高層ビルのように、下で小さく動けば、上では大きく動くことになり、勁は内里を走り、外形の動作は小さい。

勁と形の間にも協調と依存の関係がある。勁の違いは形の違い、変化の違い、速度の違い、硬さの違い、技撃技術の違い、技撃効果の違いをもたらす。そして、異なる拳術の特徴を形成する。例えば、太極拳の円勁は内里で螺旋状に走り、外形は弧線を描くことで太極拳の運動形態を形成する。形意拳の整勁は内と外の統合を形成し、動作は厳密で緊密、身は正しく歩みは安定しており、沈着冷静で落ち着いている。これは内気の貫通と勁が三節に達する拳勢の風格を説いている。渾円勁は瞬間の内気の鼓蕩を説き、一動すれば全てが動くという勁である。その形の動作は軽やかで、変化は無窮である。

形意大成拳を習練する際は、内家拳外家拳、外国拳の違いに注意する必要がある。これは主に気と力の関係の違いに現れる。内家拳は拳を練習する時に気を練ることができ、内から外を導き、拳と気が同行する。内家拳発勁の特徴は、気を動力とし、気で発力し、力を生み出すことである。発勁丹田あるいは全身の内気の運行と鼓蕩であり、心臓は放松している。発勁は蓄発の過程を経て、気は下沈し、中心も下沈し、心臓や身体を傷つけることはない。意到気到、気到力到を説き、気で発力するため、ゼロ距離で発勁することができ、動作の変化は多くて速い。

外家拳は拳を練習するのと気を練習するのが別々で、気で力を助長し、つまり肌肉を動力とし、気で肌肉が発力するのを助ける。発力する時は心臓が突然収縮し、気は上昇し、中心は上浮し、顔が赤くなり首が太くなる現象が生じる。発力し過ぎると心臓や身体に良くなく、発力をすればするほど心臓への害が大きくなる。ゼロ距離での発勁はできない。外拳は肌肉の松緊による発力で、体力の消耗が大きい。一般的に体が大きいほど勁が大きい。発力するには一定の距離が必要で、このようにしてこそ慣性の力を打ち出すことができる。力が一度発せられると途中で変化させにくい。異なる勁で人を打つ効果は異なる。外勁で人を打つのは多くが外表で、外傷を形成しやすい。内勁で人を打つと骨に入ることができ、内傷を引き起こしやすい。

説明しなければならないのは、内家拳には推手があるが、外家拳には推手がないということである。これは主に勁の違いによるものである。推手ではまず聴勁を説き、内家拳は功を行い力を用いる時、肌肉は松である。一方、外家拳は力を用いる時、肌肉は緊であり、聴勁ということはないため、外家拳には推手という大きな技撃技巧がないのである。一般的に外力、つまり肌肉の発力を力と呼び、内気の発力を勁と呼ぶ。このようにして内勁と外力の区別が形成される。

勁と形、形と拳の間にも依存と協調の関係がある。どのような勁であれば自然とどのような形が生まれ、形は勁から生まれる。どのような形であれば自然とどのような拳が生まれ、拳は形から生まれる。例えば、形意拳は形意勁が生み出した形であり、太極拳は太極勁が生み出した形であり、八卦掌八卦勁が生み出した形である。異なる勁は、異なる技撃の風格を生み出す。形意拳は打中打を説き、太極拳は化中打を説き、八卦掌は走中打を説く。勁は武術の大いなる奥義であり、この拳がどのような勁であるかを明確にすれば、この拳の門に入ったことになる。異なる勁道の打撃効果は異なり、発力してサンドバッグを打っても遠くに飛ばず、力も大きくないが、人を打つ効果が大きい。

用勁の技巧は中華武術の核心的な要義であり、各拳種に不可欠な要素でもある。功力は武術の魂であり、勁の応用技巧もまた功夫の応用技巧である。勁の技巧応用がどのようなものであるかは、勝敗を決定する主な要因である。勁があれば、実戦でどのように応用するか、どこに用いるのが最も適切かを明確にしなければならない。そうすることで初めて、その勁道の最大の特徴と威力を発揮することができる。そのため、勁の応用技巧に注目する必要がある。勁の技撃技巧における応用は、一般的な武術の範囲を超え、高級武術の水準の体現でもある。

内功と体力の間にも関連性が現れる。内家拳を練習する人はほとんど走ることを練習しない。なぜなら、内家拳は一般的なスポーツとは異なるからである。内功が高い水準に達すると、拳を練習したり技撃したりする時は顔が赤くならず息が切れず、応用するのは内力であり、拙力ではない。息切れは拙力を使うことで生じる。しかし、私は現代の対抗試合に参加するなら、走ったり体力を練習したりすることを組み合わせる必要があると考えている。

技撃における勁の長短、横竪の作用は異なる。理論的に言えば、形意大成拳の勁には長短の別、横竪の分がある。例えば、形意大成拳の内整は長勁、渾円は短勁、内里は竪勁、内円は横勁である。内整勁で人に触れるのは真っ赤に焼けた鉄塊のようで、敵は化解しにくい。渾円は極めて速く、人を打つのは電気のようで、人の精神を打撃することができる。内整勁は手が到達すれば足も到達し、内と外が合一し、手が人を打ちに来れば、歩みは人を越え、手が到達すれば人は出る。内円勁は四両で千斤を撥ねることができ、人に発すれば掛け軸のようである。その勁はそれぞれ用いるところがあり、妙用を結合すれば、思うがままに、思い通りにすることができる。

勁は技撃において非常に重要な役割を果たす。なぜあなたが打とうとしても打てないのかというと、あなたが強大な内勁を鍛え上げていないからであり、つまり全身の勁、例えば渾円の勁を打ち出すことができないからである。動物界でも分かるように、猿がどんなに敏捷でも虎には勝てず、虎がどんなに強くても熊には勝てず、熊もまた象には勝てない。これらの自然の法則は、実際の格闘における勁の重要な役割を示している。これもまた、一部の武術愛好者が何十年、さらには一生をかけて、ひたすら何かの奇門絶技を探し求め、功力の修練に注意を払わず、実戦では絶技が役に立たず、その結果、一撃で倒れてしまう理由である。そのため、古語に「拳を練るも功を練らざれば、老いるまで空しいままである」とある。

王建平『形意大成拳』五洲伝播出版社より