体松というのは、身体の各部分、手足及び肢体等々を指す。腹松とは、丹田気の松浄を指し、丹田気の滞りや閉塞がないことを指す。腹松とは腹部肌肉の弛緩ではなく、歩行時、行功運気時における丹田の気の運行流通が順調であることを指す。力を用いて気を使うのではなく、硬くこわばった腹筋で気を鼓動させ、功を運ぶのではなく、腹部中の丹田気が軽やかに舒放され、気が沈落して丹田に集聚するのである。
丹田は気を聚め蔵する場所であり、太極拳、内家拳を修練するには、必ず先に充実円満な丹田気を修積し、後日の行功運気に使用する。丹田の内気の聚集貯蔵は、その前提条件が気沈丹田であり、気沈丹田の前提条件が「腹松」である。
太極拳十三勢歌に曰く、「腹内松浄にして、気は騰然する」。十三勢歌は、腹内の丹田気が松になること清浄で、松が徹底すれば、丹田気は自ずと騰然すると説く。つまり、行功歩行時に、もし腹内丹田気の松浄を保持できれば、即ち気が熱く騰起することができ、これが練精化気であり、気が騰った後に凝固して筋骨の内に聚斂し、筋骨を弾性に富んだ質量で満たす。この質量が内勁の源である。
行功心解に曰く、「腹松にして、気は骨に斂入する」。行功心解は、腹が松になってこそ、気は骨に斂入することができると説く。つまり腹内の丹田気が松浄になってこそ、この気は筋骨の内に斂入することができる。気が骨に斂入することは内勁の能量を成就することであり、また内家拳の追求する究極の目標である。もし内勁能量の養成がなければ、内家拳の「発勁」はなく、故に内勁を成就していない者は、「発勁」を語ることはできず、「発勁」とは無縁である。たとえ人を遠くまで押し飛ばせたとしても、それはなお力の範疇に属し、彼を発勁の人とは言えない。
したがって、腹松は内家拳の功体を成就する重要な条件であり、また内勁を成就する最初の条件である。丹田気の腹松がなければ、気が骨に斂入することはなく、内勁も語れず、さらに発勁という事もない。
腹が松でなければ、拙力を使うことになり、「気に在れば滞る」という現象を引き起こす。行功心解に曰く、「全身の意は精神に在り、気に在らず、気に在れば滞り、気が有れば力が無く、気が無ければ純剛である」。
行功心解は、行功歩行の時、全身の精神は意念にのみ在り、気に在らずと説く。ここで言う「気に在らず」とは、気を抽くことを指し、誤って拙力を使うことにより、腹内の気に滞碍が生じ順でなくなることを指す。これが「気に在れば滞る」であり、また「気に在れば滞る」の関係で、拙力、拙気を使うことにより、内勁を成就できず、故に応用時に「力無し」の現象を呈し、力を発することができない。つまり、拳を練る時に気が松でなければ、拙滞の気を生じ、内勁を成就できず、発勁時に「気が有って力無し」を感じ、拙気の関係で内勁が生じず、勁を使うことができない。
「気が無ければ則ち純剛である」とは、腹松により、拙気がないことで、終に「腹松にして、気は骨に斂入るす」により、内勁を成就するため、「気が無ければ則ち純剛」と言う。拙気がなければ、成就する内勁は「剛」であり、その中に一糸一毫の力もなく、一種の純粋な内勁である。
腹松の中の丹田気は、内里にあり、無形無象で、肉眼では見えず、捉えがたく、意識思維で感じるしかない。これが内家拳の練習、体得の難しい所であり、故に悟性の良い者のみが、内家功夫を成就しやすい。重力練習や推樹推壁を必死に練習する蛮勇の者は、最後まで内功夫を成就できず、命を懸けた力比べの推手や、表面的な虚幻の表演功夫しかできない。
体松は、肢体、筋肉等々の有形質体を包含し、より重要なのは両腕の松沈である。両腕の松沈は勁を成就する要件であり、両腕の松浄があってこそ沈肩墜肘が体現される。
次いで胯の松沈であり、胯の松沈は上下盤の霊活周転を維持し、胯が落沈しなければ、内気も丹田に留駐することができない。故に、胯の松浄もまた極めて重要である。
さらに足首の松浄がある。これは比較的言及される者が少なく、一般に看過されがちだが、足首の松透は内家拳において極めて重要な地位を占める。また踝部が松浄であってこそ、気は足底の湧泉に聚集し、湧泉に根を持たせ、站底の安定した功夫を成就することができる。
経に曰く、「湧泉に根が無ければ、腰に主が無く、力学は死んで補うことができない」。湧泉に根が無ければ、腰に主が無く、如何に努力して学んでも、老いて死に至る時まで、終には益を得ることはできない。故に、踝部が滞怠して松沈しなければ、立つことが不安定なだけでなく、蹲ることもできず、下勢や仆歩動作が硬く、閉塞し、結滞して、窮状百出となる。
踝部の松は、形意拳の蹬勁に極めて重要な地位を占める。脚踝が松透してこそ、圧勢と弹簧の力を保持でき、折疊勁の反発に極めて大きな連鎖関係がある。形意の蹬歩が成就してこそ、撞勁を発揮でき、攻撃時に瞬間疾速で敵前に進身し、致命的な衝撃を与えることができる。また踝部の松浄により折疊性の弹簧勁を成就してこそ、「硬打硬進遮るもの無し」の効果があり、「追風趕月は放松せず」の神技がある。
胯及び踝が松でなければ、双盤静坐できず、上座すること半分も持たず、跨及び脚踝は酸痛に堪えられず、心情も浮躁となり、心は安霊を得ず、下座するしかない。双盤には安気裹勁の作用があり、両足を盤すれば、一枚の方巾の両端を包むが如く、気勁は束集包覆され、散漫や浮濫とならない。
胯及び踝の筋が松開すれば、両足双盤後に床に平臥でき、大腿及び膝蓋を平整安舒に床面に密着させることができ、これにより胯と踝の真の松浄に達する。また胯踝の松透及び双臂が真に完成した一体の松浄に達してこそ、掤勁が既に成就したと言える。
掤勁は両手双臂に限らず、全身各関節の伸縮、弾性と乗載等々を包含する。また言えば、掤勁は車の避震器の如く、弾性伸縮の中に乗載力を有し、颠簸震蕩の中で車身の安定平衡を保持し、車が活動中に外来の力勢衝撃に遭遇しても、安定と安定を保持できる。
ある大師がある夜、突然自分の両腕が断たれる夢を見た。夢覚めた後、はっと悟り、翌日、功夫が彼より優れた者と推手をし、進歩神速で、皆が非常に驚き、再三の追問により、真に松になったことを知った。これより功夫は日進千里となり、このように松の境地を悟った。
これは大師個人の松についての体悟であり、彼は両臂の維系する筋絡が人形の手臂関節の如く、一本の松緊帯の維系に依ってこそ、転折自如になれると感じた。もし両臂が既に断たれたという感覚がなければ、この松がどのような状況かを知ることはできない。
太極拳は一貫して松を重視し、特に楊家系統は「要松、要松、要松」と常に言い、さらに「松でなければ打たれる架子である」と強調する。これらの口頭禅は、楊家系統の太極拳修練の座右銘となり、また他の各派系の練拳指標となった。
言うことは正しく、松は確かに太極拳及び他の内家拳が内勁を成就する重要な要素の一つだが、各家が強調し重視する松は、肢体の松、特に手臂の松に偏っている。人々に崇拝される大師の夜の断臂の故事も、今なお人々に津々浦々で語られ、牛角尖に入り込み、臂松が主客転倒し、太極拳の主菜となり、主人の腹松、気松は逆に無視され、看過された。故に真に内勁を成就できる者も、極めて少なくなった。
手臂の松は、手の勁及び手の沈勁を成就できるが、拳を練るのに手の松沈にのみ偏り、腹部丹田気の松沈を無視、看過すれば、近きを捨てて遠きを求めることとなり、「わずかな違いが千里の誤りに陥る」の窮境に陥り、太極内家拳の甚深なる功夫を成就できない。
行功心解に曰く、「発勁は須く沈着松浄にして、専ら一方を主とする」。発勁は必ず松浄でなければならず、かつ沈着でなければならない。これは丹田気を直指したものである。勁は気の養成功夫であり、気の養成は因、勁の成就は果であり、因果は倒置錯乱しない。また気の沈淀内斂があってこそ、勁の成就が生じ、発勁という事を言うことができる。故に発勁は須く沈着松浄とは純粋に内里の丹田気を指し、手臂の松浄を指すのではなく、沈着の二字は身法を指すのではなく、無形象の意念の法である。
専ら一方を主とするとは、発勁時の気爆の処所を一処に集中し、火力全開、一処に集中爆発することを指す。これらは全て意念の指引を通じて、丹田気を瞬間爆発させねばならない。
一般の武師は、改拳、拳架の修正において、外表の形架に重点を置き、手を整え、腰腿を弄り、拳師の架子を装い、得意げになるが、実は、彼らの解するところはそれに止まる。内里の法宝、丹田気の游走、腹松、気沈丹田、丹田内転等々の中上乗の功夫内涵について、彼らは口にすることができない。彼らは根本的に実証功夫を持たず、語れることは人の言を借りた虚幻の知識に過ぎない。
腹松とは、丹田気の松沈、松浄を指し、丹田気は腹内に潜蔵し、見えず、触れられず、感覚によるしかない。それでは、この状況下で、師たる者はどのようにしてこの拳を修正、調整すべきか?
学生の眼神、情感、動作及びある種の雰囲気から、行家は学生のどこが不適切か、その気が順調か否か、その気が結滞しているか否か等々を察知でき、これらの動作雰囲気の中から、情報を探り、適当、適時の指正を与えることができる。これらは既に心法の伝授範囲に関わり、一般の師の及ぶところではない。
武術の伝授は、口伝、身教の他に、最も重要なのは心授である。口伝身教は容易で、それは有為の法であり、明示できる。心授は、心法を伝授し、心法は口述し難く、意会するしかなく、心領するしかない。この間には、師生間の心霊の默契が含まれ、師が僅かに眉を顰め、首を振り、手を広げるだけで、或いは默して言わずとも、学生は既に師の意を領会し、自分の誤りがどこにあるかを知る。
心法の伝授には理路があり、時節性がある。ある境地まで練習すれば、師は自然に一つの機鋒を与え、心領神会させる。魯直愚鈍な者は、ただ歩を追って兵を操り、一を挙げて三を反することができず、触類旁通することができず、このような学生は、教えるのに比較的労力を要する。
知恵のある者は、経を読み論を見て、即ち腹松が体松より重要であることを知り、無形の気の松が有形の臂松より更に重要であることを理解し、さらに内外相合し、気と体を並行して練習してこそ、大好の功夫を成就できることを知る。魯直な者は、人の大師の夜の断臂を聞き、断臂手松が既に松の全てを含むと認識し、松を手及び肢体有形体の松に局限し、腹松の重要性を無視し、無形の丹田気の松を看過し、本末転倒し、根本を捨てて枝節を求める。これは仔細に思量に値する。
蘇峰珍『拳理説与識者聴』大展出版社有限公司より