意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

用勁(『心意大成拳』より)

拳術の妙は、勁があることを貴ぶ。勁を用いる方法は、剛柔方円に尽きる。剛は竪を用い、柔は霊活である。直竪の長伸は攻撃力があり、柔は縮短で驚弹力がある。勁は訓練を経た後の力であり、多面的で反応が速く、先天的な単向性の停滞した、猛然と変化しないものとは異なる。王先生は剛勁と柔勁の性質、及び結合後の性質を示す方円図像を描いたが、その形状から内容を理解するのは難しい。これは抽象的な理念であり、図で錯綜した思想を表すのは、ピカソの抽象画のように理解しにくい。故に図はここでは省略する。原図を知りたい場合は原著を参照すればよい。ただし、文字での説明は、意念によってその意味を理解することができる。各人の理解が異なるため、意拳第二代には大きな差がある。外形が似ていても内涵は異なり、矛盾があることもある。科学的な観念で鑑定し、実際の効果で鑑定するのが最良である。剛柔の結合は千差万別であり、中線を失わず、周身の光線が不断であることを枢要とする。この光線は物理学の光線ではなく、外形の手足身体の間架が相互に呼応し、内勁が連綿不断であり、神意が満ちて、一体となることを指す。故に横撑開放し、光線が茫茫たるものを方とし、提抱含蓄し、中に生気を藏するものを円とする。凡そ出手時には、提頓撐抱兜墜鑽里を用い、順力逆行し、方を以て円を作る。落手時には、含蓄纏綿して滔滔不断とし、円を以て方を作る。ここで述べているのは螺旋勁と渾元勁であり、練っていれば自然に得られるもので、無理に分ける必要はない。逆に言葉に縛られると困難になる。勁の用い方は過剛を避けるべきであり、過剛は折れやすく、また過柔も避けるべきで、過柔は進まない。竪勁で側に入ることが必要であり、横冲竪撞は正に奇用であり、横勁は吞吐し旋繞する。この用勁の方法は心領神悟がなければ得難いものである。得たならば再び心領神悟を要さず、操練を熟すれば、勁は自然に円となり、体は自然に方となり、気は活となり、神は一となる。これは郭老の言葉にあるように、技が無心に到って初めて奇を見ることができる。

勁を求める方法として、慢は速に優り、緩は急に勝り、特に拙力を用いないのが最も妙である。練功が速いと心が焦りやすく、練習が馬馬虎虎になり、重要な動作を疎かにしてしまい、功力の累積ができない。今、多くの人が仕事上の必要で毎日多くの道を歩き、多くの物を運ぶため、気力はあっても勁は長くない。勁は筋肉全体の運動と力の累積の効果であり、日常生活で鍛えられるものとは大きく異なる。日常生活で使う力は長く持続するが、勁は瞬間的に爆発するものである。時間が短いほど力の頂点が高く、破壊力も大きくなるため、技撃の効果を達成できる。日常生活では、多くの筋肉が使われず、技撃では多くの普段使わない筋肉を動員し、整体の力を構成する。練習が速くなると、自然と日常の習慣に従って動作するため、練習の意味がなくなる。故に、遅く緩くすることが重要であり、練習の過程では意念の活動をここに置くべきである。これは基本的な要求であり、基本を捨てて遠くを追い求めることは不可能である。

運動の際には、全体の関節を自然に任せ、停滞があってはならない。骨は霊活であり、筋は伸展し、肉は舒放し、血は川のように流れる。これが一身の法、一貫の力を得る方法であり、本力も外に溢れない。この段は舒適自然、拙力を使わないことの重要性を説いている。拳套を急ぐと、徒に暴力を用い、速さの美観を求め、全体の気孔が閉塞し、血流の通じに大きな阻害となる。近代の西式運動でも、この欠点を犯しがちである。浅く止めれば、身心に有益であるが、全力を投入し、自我を突破しようとすると、三四十歳を過ぎて気血が衰退し、全身の筋骨が痛み、老後まで続く。重い場合は内臓に問題が生じ、特に腎が損傷を受けやすい。世界級の運動選手でも突然の倒れる者が多い。外観の高く速く遠くは、内部器官の損耗の代価であり、車を速く走らせると最も損耗するのはエンジンであり、車輪や車架ではない。養生においても遅は速に優り、緩は急に勝る。中国武術は精気神の統一を求め、里外均修を要求する。均は均匀の義である。一部の気力や筋肉力だけを求めるのは道に反し、正統武術の修練要求にも反する。内外家拳も同様である。本門の拳術を練習するには、動静二功ともにこの原則を遵守することが求められる。

涂行健『心意大成拳』逸文武術文化有限公司より