意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

解析意拳龍虎二気(『神州意拳』より)

龍虎二気は意拳体系の中核をなす内容であり、王薌齋先生が極めて重視した拳学修練の法であるため、先輩は「拳法は龍虎二気以外にはない」と言われた。では龍虎二気とは何か、その具体的な修練とは何か、人体においてどのように体現されるのだろうか?

「龍虎二気」は、意念上では龍変虎猛の精神の調換、つまり龍虚虎実の陰陽の組み合わせとして表現される。意識の強化誘導を通じて、身体の気血、内臓、筋骨が拳式の中で虚実変化の合理的な調整に達するようにする。

拳学の境地は神韻にあり、神韻は修得が最も難しい。そのため、龍虎の虚実変化を得ようとするなら、意念をどのように確立するかを明確にしなければならない。しかし、意気力の貫通には常に実現のための媒介が必要であり、龍虎の意から龍虎の気へ、龍虎の力から龍虎の形へと、形成の過程が必ずある。したがって、龍虎の意念が究極的に身体のどこに落ち着くかという問題を解決しなければならない。

では、龍虎二意が龍虎二気に転化する着意点はどこにあるのだろうか? 著者は、心と腎に貫注することだと考える。伝統的な理念では、「心は龍、腎は虎である。心が変化すれば龍となり、腎が実すれば虎となる」とされる。意識を心に貫注すれば、心は万般の変化を生み、身形は測り知れない。意識を腎に貫注すれば、腎水は充満し、安定した雄渾な荘重さを得る。心は火、腎は水であり、意識を心腎に貫注することこそ、水火既済、龍虎相交の自然本能なのである。意は陰陽に分け、気も陰陽に分けなければならない。そうすることで初めて、陰陽循環変化の運動生理機能が生まれる。したがって、龍虎二気は龍虎二意から転化して生まれたものであり、これこそが真の以意領気であり、意識を具体的に身体の実処に落とし込むことができるのである。

以意領気の法要を理解したら、次は以気行力を行わなければならない。なぜなら、心腎相交の後の気血の調和は、人体の気血循環機能を強化し、気血を充満させ、全身を満たし、渾円一気の内なる渾円を獲得するからである。この段階が完成した後は、充実した気血をいかにして真の力に転化させるかである。したがって、「以気行力」の問題は、意気をどの部位に貫注すれば力を生成できるかということである。答えは非常に明確で、それは筋骨である! 気血は筋骨に催逼されて初めて、筋力を生長させ、骨力を厚重にすることができる。いわゆる「筋が長ければ力は大きく、髄が満ちれば骨は自ずと堅く、気が充満すれば毛髪は挺になり、意が真であれば力は必ず実となる」のである。したがって、意気力は身体の神経、気血、筋骨、皮肉など様々な生理構造に貫通しなければならない。これにより、我々は王薌齋先生が言う「体は鋳造したように整で、身体は鉛を注ぎ込んだようで、毛髪は戟のようで、肌肉は一つのようである」という四如境界の真の内容を理解したのである。

筋骨の力は、龍虎二気が筋骨に作用して力量を生成したものの体現である。龍力は筋力であり、虎力は骨力である。いわゆる龍筋虎骨は、一剛一柔である。筋骨の力を求める方法は、一般的な意味での抽筋抜骨ではなく、一連の高効率で合理的な具体的な功法、つまり柔を以て剛を練り、剛を以て柔を練るという相互作用である。筋は性質上柔であるため、さらに柔法で鍛錬すれば弾力を失い、骨は性質上硬いため、さらに剛法で鍛錬すればますます硬くなり、硬度を失って脆くなる。龍虎の力は、気血の催逼の下で、筋力の曲折弾射と骨力の八面支撑を生み出し、両者は相互に協力し、剛柔相済で、それぞれがその責を果たす。筋はばねのようで、骨は鋼針のようである。これこそが真の意味での龍虎の力なのである。

虎形樁の練習の要領は、骨格の合理的な支撑と組み合わせを練功の第一義とすることである。もし骨格の支撑が良くなければ、筋力は舒張できず、気血は阻害され、逆に自身が疲れ、力を費やしても功は伸びない。虎形樁を操練するには、意気力形を一致させ、樁架の定式に従った後、意識、気血、筋骨を微調整しなければならない。伏虎とは猛虎を制御することであり、猛虎は運動して抵抗しているのである。そのため、意識と勁力も起落、開合、横吞、竪擠を行っているのである。槍法の運動模式と同様に、伏虎樁の訓練は陰陽把の勁力を主とし、両手の陰陽勁、すなわち両手の勁力方向が反対になるように十分に訓練し表現しなければならない。前手が押し下げれば(=按压)、後手は引き上げ(=提)、前手が左に開けば(=横)、後手は右に押し(=擠)、前手が外捻(=拧)すれば、後手は内に包む(=裹)。要するに、このような相反相向の練勁方法によって、最終的には不規則な運動に対する霊敏な聴き分けと制御の潜在意識を鍛えるのである。したがって、虎形樁は虎を掴んで動かないのではなく、自身の合理的な変勁によって、意念の中の虎に力を使わせないようにするのであり、これこそが拳学訓練が追求する本質なのである。さらに、虎形樁の着意点は主に肩の陰陽の組み合わせにあり、気血を体内で圧迫して形体の微小な変化を生み出し、筋骨に力を加えることで、力が体内から根節、中節、さらには梢節に至るようにし、一気貫通の整体な用力を形成するのである。

龍形樁の練習の要領は、虎形樁の模式の中で、虎の頭と尾を逆転させ、拧身翻転の勢を形成することである。この動作の形成により、腰と脊椎の旋転拧切が増大するため、龍形樁は主に脊柱の螺旋拧力を鍛える。この樁の要点は、前手と後脚、後手と前脚が必ず一直線上にあり、二つの交差する直線がちょうど十字を形成することである。このようにして、手足十字力の牽引の下で、「尾椎一腰椎」と「頸椎一胸椎」が反対に力を用い、脊椎全体が力を受けて捻じれ(=拧裹)、螺旋状態を形成する。これこそが真の龍身なのである。このような特殊な訓練なくしては、力を背中から発することは不可能である。虎形樁は脊椎骨を縦に伸ばし、その屈伸束張の機能を発揮させることができるが、それでもまだ直線的な縦向きの力にすぎない。しかし、脊椎の螺旋拧裹力が加わると、自然に縦向きの力の中から横向きの屈伸が放射される。このようにして、直力の変化と威力を強化するだけでなく、「起横は横が見えず、落順は順が見えない」という螺旋驚変を実現することができるのである。

したがって、意拳の龍虎樁法は、実際には横竪力修練を重視する法門なのである。横竪が相互に変通できれば、真の意味での龍虎相交、龍虎合一に達することができるのである。

気血が筋骨を催逼して龍虎の力を得ても、まだ龍虎の態勢を十分に表現することはできない。そのため、最終的には龍虎の動作形態を反観しなければならない。もちろん、この形態は拳学の格闘理念に合致した打法の動作であり、これらの動作形態の具体的な表現がなければ、まだ拳学の高みに到達することはできないのである。

意拳の龍法には五つある。青龍探海、烏龍翻江、神龍遊空、滄海龍吟、神龍縮骨である。

虎法には六つある。猛虎出林、怒虎驚嘯、猛虎捜山、餓虎揺頭、猛虎跳澗、餓虎刨食である。

以上の拳式はすべて格闘時の動法であり、その神意、気血、筋骨、形態はすべて龍虎が貫注し、虚実が互いになっている。蓄が龍で、発が虎である。蓄が虎で、発は龍である。起は龍で、落が虎である。起は虎で、落が龍である。横は龍で、竪が虎である。横は虎で、竪が龍である……要するに龍虎の変化から離れず、天地が交わるのである。

このようにして、龍虎の精神を以て、人体の気血、筋骨、さらには四肢百骸に貫注し、龍虎の威猛と変幻自在の打法動作を得て、拳学の清逸大勇の傲岸風姿を成就するのは、まさに華夏武学の真髄なのである!

高臣『神州意拳』九州出版社より