意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

楊建侯先生の著書『談大成拳的内外双修』

武術の運動を含めた人体のあらゆる行動や行為は、すべて大脳の支配下で行われる。人類の大脳皮質は複雑な分析と総合機能を持つため、人体の各部位を正確に指揮し、協同運動を行うことができる。

大成拳は意念誘導の下で、意識的に調息し、身体の各種動作を総合して一種の技撃本能を構成し、その運動方式は意で気を導き、気で勁を推す。大成拳には「力が断たれても意は断たれない」という論断があるが、実際には意が断たれなければ力も断たれない。その運動の特徴は意、気、力が連なり、周身の運動を導くことにある。訓練時には、大脳の支配下で意識的にその内勁の運動を導き、つまり意で力を導き、腹式呼吸を用いて調息をよく練習する(意守丹田は不要である)。大成拳の運動時、大脳は人体の外三合運動及び内三合運動、そして調息を指揮する。外三合運動とは外部運動で、内三合運動及び調息とは内部運動で、外部運動は肌体、節段、及び肌肉の伸張によって表れ、内部運動は内在の内勁が身体の中を運動し、外から見ると分かりにくい。だから私の父である楊徳茂先生は再三私達に教えて言った。「大動は小動に及ばず、小動は不動に及ばない。不動の動こそ生生として止むことの無い動である」。当時父が人と搭手した時のことを思い出すと、彼に何の動作も見えなかったが、相手の脚はすでに地面から離れ、僅かに発力すれば、相手は吹き飛ばされていた。

また、内勁と外部運動は矛盾しない。内部運動(内勁)は外部運動を通して体現され、外部運動もまた内部運動を促進する。例えば外部運動をする時、運動の要求に合わず、要領を得ていなければ、必ず内部運動の効果と運行に影響する。逆に、内部運動が適切でなければ内勁が不足し、精神が振るわず、同様に外部運動の効果と質にも影響する。だから訓練時、内外は一致し、内外は合一し、周身の運動は協同一致し自然でなければならない。そうすれば大成拳の内外双修の宗旨と拳術の技術要求に符合できる。

次に大成拳の剛勁と柔勁について話す。

拳には「剛柔相済のより心神を定める」という言葉がある。初心者にとって、普段は站樁、試力及び摩擦歩を学ぶ以外に、最も重要なのは身体の各部位を放松し、徐々に身についた拙勁を取り除くことである。拳術に必要な勁は外部の人には体験しにくい。初心者は自分がすぐに技撃の技を掌握し、動作を規範化し、発力して勁を出し、人を投げたり、放り出したりできるようになることを望んでいる。しかし技の習得は一朝一夕の短時間でできるものではない。初心者はしばしば動作が熟練でないため、実際に操手したり、推手をしたりする時に精神的に緊張し、全身が硬直し、全身の関節、節段が固く、上下肢の動作が協調せず、さらに調息をうまく運用できず、ただ全身の力に頼るだけで、極めて固い拙力しか出せない。人々は通常、練功とは全身の最大の力量を出すことだと考え、日常生活の中で車を押したり、重い物を引いたり、物を運んだりするのと同じように、そのような力が勁だと思い、練習中いつもこの種の力で発力し、力を入れる。実は、これは武術の中のあの種の力ではなく、この誤解から抜け出さなければならない。もちろん、間違った力の入れ方は一朝一夕で直せるものではなく、しばらく練習した人でも時々この種の拙力が出ることがあるが、これは日常生活の習慣によるものだ。だから大成拳をよく練るには、まず身についたこの種の、間違った条件反射を克服し、正しい訓練を通じて新しい勁の使い方の条件反射を確立しなければならない。これには勁を理解している先生の正しい指導と、学ぶ者の努力した訓練を経て、硬直した拙力を克服した後、訓練時に身体は非常に自然な松勁を持つべきだ。力を発する時、身体の各部位は自然に放松する。放松して発力をすることができるようになって初めて、拳術の中の柔勁を掌握できる。柔勁が身体に現れた時、自分の拙勁が徐々に消去されたことを示している。もちろんこの方法は主に站樁を通じて完成されるもので、樁法で勁を変えてこそ拙勁を柔勁に転換できる。正しく勁とは何か、どのように勁を発するかを掌握し、そして内勁と動作を合わせ、いつも練習して初めて、勁は徐々に深まり、大成拳の要求する一触即発で発する勁を練り上げることができ、そして柔から剛へ、剛から堅へと進むことができる。

拳術は剛勁だけではなく、柔勁だけでもなく、剛柔相済でこそ正しい勁の使い方になる。だから剛柔相済を正法と言う。技撃において過剰に剛の勁を「直力」といい、「拙力」とも呼ぶ。過剰に柔の勁を「懈力」という。技撃の過程で、過剰に剛だと柔によって化されやすく、過剰に柔だと剛によって制されやすい。剛と柔の間で、剛にして硬直せず、柔にして弛まない、勁力がその身に透りわたるようにしなければならない。

私の父楊徳茂先生はよく言っていた。身の勁は「金剛」の如く、「槐虫」の如く、その勁は一つの「転」の字を喩え、これができれば、技撃時に一触即発で発することができ、発力は矢の如しである。攻撃に接触した瞬間、自身の接触点がその攻勢を、方向や力度を聞き取り、即座に自身の身法、歩法、角度を変化させて相手を打ち負かす。

大成拳で上乗の功夫に達した者は、必ずその調息の功夫に精通している。調息という高深な功法がなければ、どんなに良い功夫も色あせる。次に調息について話そう。大成拳の調息方式は他の内家拳法と共通点が多いが、大成拳独特のものもある。まず呼吸時は鼻で吸って吐く。これは站樁の中で長期に体得し応用しなければならず、樁の中で勁を求める過程で調息の問題を解決すべきだ。言い換えれば、樁の中で勁を求めることと調息は同時に進行し、だから樁功訓練の中で調息にある程度の基礎ができた後、試力と発力時に調息の機能を発揮できる。

大成拳の調息方法には拳術の中の沈気と提気が含まれる。大成拳の調息方式は、吸気時は深く長く力強く、気流が吸い込まれる時はゆっくりと丹田に沈める。横隔膜の運動を通じて、腹腔、胸腔、内臓に相応の蠕動を生じさせる。気が体内を運動する時、腹内に灼熱感を生じさせ、胸部、腹部を充実し円満にし、弾力を持たせる。こうすれば運動時に自然と人体の重心を下げ、人体の重心を沈めやすくし、骨盤の重心を安定させ、両足が地に落ちる時に根を生やすような感覚を持たせる。気が下に沈むのと同時に、意念、つまり大脳の思考は意識の誘導を通じて気を上に引き上げ、これは腹壁の筋肉が内に収縮し、胸腔が絶えず拡大することだ。こうして初めて呼吸が「深長」になり(これも「深長」の二文字の由来と生理学上の根拠だ)、人体の重心を高め、上に引き上げる感覚を持たせる。この二つの方式が絶えず交互に行われ、長い時間が経った後、両足が地に落ちる時に根を生やすような感覚を持つようになる。押しても動かず、ぶつかっても散らばらず、地から飛び上がりたくなるような状態になる。これこそ王薌齋先生が言った「呼吸弾力」という言葉の由来なのだ。